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琵琶湖と疎水の思い出

 投稿者:妹背幸男メール  投稿日:2011年 2月26日(土)10時20分44秒
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   初めて投稿いたします拙劣な文章で恥ずかしく申し訳ありません。
 二人の母の故郷が湖西地区で有ったので琵琶湖は懐かしさを通り越して密接に感じています。
 実母は饗庭村の出身でしたが29歳の若さで当時国民病といわれた肺結核で亡くなりました。
父が再婚の相手は隣町の今津の女性でした。故に小学校時代は夏休みの期間中饗庭村と今津町で過ごしました、饗庭では琵琶湖が遠く500mほど離れていましたが今津は道路を越えればそこは琵琶湖で連日朝も昼も琵琶湖に入りびたって真っ黒になっていました。そのころの湖畔には小魚の群れが泳ぎまわり素足の皮膚にまとわりついたのですが今は昔その光景は見られません。
 当時は「朝の間」と言う宿題の冊子があり一日に1ページの軽い宿題でしたがそれも果たせず休みの終盤には若い叔父さんや年上の従兄弟たちの加勢をお願いして何とか済ませたものでした。
 その後太平洋戦争が起こり食糧不足に悩まされましたが二人の母の里には随分援助を受けたものでした。「正月や田舎に行く人餅食いに」今は亡き小学校の友人が私に作った川柳です。
 実母が亡くなり父の再婚まで父と私がお世話になった伯父の家が縄手三条で表具屋を営んでいました、文字通り鰻の寝床のような家で離れの地下を下りるとそこには疎水が流れていました。目の前は京阪電車の三条駅で疎水を跨ぎ普通電車と特急のホームがあり疎水の中央には鉄の橋桁が数本立ち並び何故か付近は川幅が倍近く広く流れも澱み浅かったので水遊びをしたものでした。当時その橋桁に水死体が絡み付いていたのを鮮明に覚えています。
「疎水と山科」市内に有った醒泉国民学校の校外学舎が疎水の近くにあり「昭和18-19年」よく行ったものでした、そのころ体力検定なるものが有り30㍍以上泳げと疎水で検定を受けました.今から思うと安祥寺船溜まりだったのでしょうか、学舎にはプールもあり疎水の水を引くのだと聞きましたがプールに水が満たされた記憶はありません、何時も落ち葉の吹き溜りでした。
 食糧難の時代で宿泊にはお米を二合三勺「当時の国民一人当り配給量、後に二勺減」持参して奉仕のお母さん方がカレーライスの夕食を作ってくれた思い出があります。
 その後幾星霜経ち、学舎が懐かしく親友と探索に行きましたが住宅が立ち並び昔を偲ぶ何物もありませんでした。
 
 
 
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