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ロシアの所謂「世界的大作家」ドストエフスキーの正体

 投稿者:たつまき  投稿日:2009年 6月13日(土)04時50分27秒
返信・引用
  ロシアの所謂「世界的大作家」ドストエフスキーの正体

「本当の真実というものは、真実には見えないものだ」(ドストエフスキー「悪霊」)

それは、ドストエフスキー自身についても言えることだった。
ドストエフスキーの正体は驚天動地なものだ。
人間は真理、真実を恐れ、避け、証拠を求め、証拠が突きつけられると拒否して、
刹那の安心を求める自己欺瞞的な野獣近くに貶められた認識障害者だ。
「知らぬが仏」とは、哀れ、よく言ったものだ。
宇宙から暴露されたドストエフスキーの正体の詳細は:

 http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/64.html

http://gold.ap.teacup.com/tatsmaki/64.html

 

返事ないからこっちに核

 投稿者:考える名無しさん  投稿日:2008年11月29日(土)09時22分34秒
返信・引用
  松平さん元気ですか?
ひとつ批評をお願いします。
06年9月と、少し前に出た本なのですが「バカをつくる学校」john taylor gatto著についてです。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%90%E3%82%AB%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E5%AD%A6%E6%A0%A1-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%88/dp/4880862037

字も大きく200ページも無い本なので、まだでしたら立ち読みで読破できると思います。

http://academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1227511905/118

 

眠剤-安定剤

 投稿者:処方代理屋  投稿日:2008年 9月25日(木)17時39分24秒
返信・引用
  ☆眠れない方いつも不安な  かた眠剤-安定剤合わせ   て処方しますパー
☆詳しくはメール下さいラブレター  宜しく( ̄▽ ̄;)

  kagp-1122@newad.jp
 

★DVD専門店新規オープン★

 投稿者:♪ロリッ娘ランド♪  投稿日:2008年 7月17日(木)20時45分16秒
返信・引用
  安心の後払い!!
ォープンキャンペーンゃってます♪
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ロリファン、マニアの人は必見です!!

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局留め発送もOKです。

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(無題)

 投稿者:ppdf  投稿日:2008年 7月10日(木)21時05分20秒
返信・引用
  る所に、とてもH好きな小学生がいました。その男の子は同じクラスのアイドルと言われる女の子が好きで好きでたまりませんでした。ある日放課後体育館の裏に呼び出しました。体育館にやって来た女の子は突然、おもいっきり顔を押さえ込まれ、その男の子の性器まで、顔を近づけられました。女の子は無理やり、口をあけられ、男の子の性器を口の中に入れられてしまいました。そして無理やりフェラをさせられたそうです。そして射精!それ以来その女の子は、体育館の裏に色々なクラスの男の子を呼び寄せフェラをして精子を味わったそうです。

この文書を読んだ人は、5日以内に好きな女の子に呼び出されフェラさしてもらえます。
でも、他のレスにこれと同じ文章と名前で3つに貼り付けてください。
じゃないと、3日後の夜、殺されます。
 

無手勝流

 投稿者:世界名著刊行会  投稿日:2008年 5月 3日(土)15時11分47秒
返信・引用
  羽澄不一の最新小説「無手勝流」が刊行されます。
日本の少年たちの胸を熱くした「あしたのジョー」の矢吹丈、「がんばれ元気」の堀口元気、「のぞみウィッチーズ」の司葉遼太郎、「はじめの一歩」の幕之内一歩、「1ポンドの福音」の畑中耕作など。「無手勝流」主人公の草刈拓馬は、こうしたヒーローたちより、もっと強い!

ボクシングやレスリングにはリングがあり、ルールがある。
試合の時間も決まっている。
しかし、実社会で一番強い者は誰か?
権力を持つ政治家や組織力のある団体指導者、それともお金のある財界人か?
血統正しい家柄のセレブか?
男心を蕩かす美女か?
若い少女の心をわしづかみするアイドルか?
名誉や地位のある人か?
それとも確固とした揺らぎない信仰者か?
ルールのないストリート・ファイトで負けた事がない人か?
戦場の兵士や将軍か?
「ペンは剣よりも強し」の言葉通り、文士やジャーナリストか?
あるいは弁舌巧みな弁論家か?
それとも格闘技のチャンピオンか?
本書はこうした読者の疑問に答える人生必読の書!
「拳聖の紋章」で触れられなかった、剣法の極意とされる無手勝流についても、本書で詳述されている!
世界一の芸術家&思想家である羽澄不一の傑作。

興味のある方は世界名著刊行会(〒497-0004 愛知県七宝町桂下り戸1086-71)までどうぞ。
 

資本主義は犯罪です 

 投稿者:真理  投稿日:2008年 3月15日(土)09時33分11秒
返信・引用
  資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です 資本主義は犯罪です
 

(無題)

 投稿者:松平耕一  投稿日:2008年 3月 6日(木)11時18分5秒
返信・引用
  まじっすか
ありがとうございます
 

雑文の安部公房より

 投稿者:木棚  投稿日:2008年 2月23日(土)22時54分59秒
返信・引用
  >そして運動も労働も、双方一つの痙攣であり、砂掻きなのだと言いたがっているようにも思える。仁木は工房と同じ月日に生まれている。この作品は工房にとって私小説であり、自己の失踪宣言なのだ。

工房→公房のような気が。

http://d.hatena.ne.jp/kidana/20080216

 

ドイツ語会話個人レッスン

 投稿者:yoko  投稿日:2008年 1月28日(月)12時34分7秒
返信・引用
  ドイツ語会話力を磨くドイツ語の個人レッスンをカフェ等で提供!
ドイツ出張や大学でのドイツ語文法の習得にも必見。

http://www.cafetreff.com/index.html

 

たまとかいうサルに告ぐ!

 投稿者:羽澄不一  投稿日:2007年11月 6日(火)07時48分12秒
返信・引用
  たまという名のサルが、またインド哲学と仏教哲学の探求掲示板で、何か精神異常の事を言っているな(笑)。
人間の言っている事が分からない奴は、動物園のサル山で、バナナでも食っていろ!
1、私は住所氏名の明らかな人から、根拠のある理由で批判されるのは構わないが、匿名で根拠のない中傷をする奴は死刑にする事にしている! 私が筒井康隆と論争した時も(私は筒井と面識がある)、私は自分が誰であるか、そして住所も明らかにしている。臆病者のたまは匿名で、根拠のない中傷をしているだけ! そんな意見は誰も信用しないし、私も聞く耳持たない。サルが「キャッキャッ」と鳴き叫んでいるだけのこと。たまがきちんとした意見が言いたいのなら、住所氏名を明らかにして、世界名著刊行会に手紙を出せ!
2、筒井康孝ではなくて、筒井康隆だ。これもたまが人間の言葉を理解出来ないサルである証拠!
3、まあ、筒井康隆文学は低レベルで、筒井ファンは馬鹿揃いだが(それはネットの筒井康隆症候群掲示板で、筒井ファンが私を怖がり、私の書き込みを禁止している事でも分かる、それでも筒井は幾つかの文学賞を取っている(私もネオヌルで自作の講評をしてもらった事がある)。私も国際的な賞を取っているし、旧ユーゴスラビア戦争では、日本の作家たちが怖がって震えていた中で、単身でセルビアとクロアチアを訪問し、英語と日本語で平和を訴えてきた偉人だぞ! 現実に国内外の著名人と論争してまけなしだし、国際情勢は私の一言で動く!それだけ立派な人を、根拠なく、しかも匿名で卑怯な中傷をする以上、たまは間違いなく、死ぬ覚悟は出来ているんだろうな? 水上勉や城山三郎(私は城山と何度も手紙のやり取りをしている)も、私に謝罪して死んでいるぞ! それでもよければ、住所氏名を明記して、世界名著刊行会へ手紙を出せ! 相手になってやる! 生きた私がいないネット掲示板で、たまが匿名で全く間違った中傷をしても笑い者になるだけだし、私も相手にしない。ただ、「またサルがキャッキャッ」と鳴いていると、嘲笑するだけだ。
そういえば、たまという精神異常者は、outerbrain softwareで私を中傷していた奴と、同一人物のようだな?
サルよ、私からまともに相手をしてほしかったら、住所氏名を明記して、世界名著刊行会に手紙を出せ! それが人間のマナーというものだ! 分かったか、サル!
 

日本は資本主義国家か?

 投稿者:古川浩一  投稿日:2007年 8月23日(木)11時39分42秒
返信・引用
  株主総会が機能していない国の経済を資本主義経済というだろうか。安部総理は,教育改革を叫んでいるが,どうして高校生に財務諸表の読み方と会社法の基礎くらい教えないんだろう?その結果日本国民の95パーセントくらいは,株式会社が分かってない。詳細はヤフーで
{古川浩一阪大卒の掲示板}で検索して同名のサイトを開けばあります。僕の
専攻である
歴史についても触れてます。これでたいていの経済現象は説明できると自負してます。
 

丸山眞男

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 9月19日(火)01時29分44秒
返信・引用
  『社会の喪失』は『沈黙の春』みたいだなと思いました。典拠先の文献はきちんとしていると思いますが、書の全体の雰囲気が感傷的で、ぼくにはあまり共感できないです。

丸山眞男は『社会科学入門』(1956)で、政治学者は「教養人」たることを志さざるをえず、それは、「あらゆることについて何事かを知っており、何事かについてはあらゆることを知っている人」なのだと書いています。

「指揮者は管弦楽のあらゆる楽器の専門奏者には到底なれないが、少くもそれぞれの性質や奏法を一応全部知っていなければならず、しかも指揮法については徹底的に精通していなければならない。政治というのはつまりおそろしく複雑な楽器編成をもった人間社会をコンダクトして行く技術であり、それに関連する科学的知識の体系が政治学だということになる。それがどんなにはるかな目標であり、どんなに険しい山谷が横たわっていようと、この途を倦まずたゆまず辿って行くのが政治学に与えられた運命なのだ。」

丸山眞男の文章を読んでいると、大変に明晰な理論でありつつも、世界に対する実感というものとも結びついた、端正な言葉で綴られていることに驚きます。とりわけ、丸山の戦時中の論文は美文です。下手な文学などよりも、はるかに楽しく現実的に、生の形というものに、アプローチしている気分になれます。
しかし、丸山の政治学も、マルクスもヘーゲルも、ぼくは「専門奏者」などではまったくなく、内部へきちんと踏み込むことはできません。

ぼくはぼくなりに、「理論」と「実感」が一致しうる言葉、それは、極めて稀にしか存在し得ない言葉だと思うのですが、そんな言葉を探したいです。
 

丸山を開く試み

 投稿者:蔵田  投稿日:2006年 9月 3日(日)22時15分23秒
返信・引用
   なるほど。つまり、柄谷のマルクス主義と私の描いていたナショナリズムはむしろ地続きなものとして読むべきというわけですね。杉田氏の発展段階論に対する違和感は、ある種柄谷の主張と重なる、と。完全に私の誤解でしたね。

 それにしても、松平さんの研究者としての凄み、存分に味あわせていただきました。「定説」という力強い単語からは、多くの時間を費やしてきたからこそ可能な自信が目に見えるようです。ヘーゲルとマルクスに問題を広げることは無知な私には不可能なことです。この観点からは、松平さんの考えをお聴きしたいと思っています。
 

幸福な靖国のなかの私

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 8月14日(月)23時09分44秒
返信・引用 編集済
   柄谷行人は「埴谷雄高とカント 埴谷雄高追悼」(群像1997年5月号)で、埴谷雄高について次のように述べています。
「しかし、彼がついに見なかったアンチノミーがある。それは資本主義のアンチノミーである。彼が獄中にいた前後に、日本主義論争または封建論争として知られる論争が続いていた。コミンテルンのテーゼにもとづく講座派(共産党)は、日本社会を「封建遺制」が支配するとみなし、他方、労農派(猪俣津南雄)は、外見上いかに封建的に見えようと、それは支配的な資本制のもとで生じる形態にほかならないと主張した。そこから見ると、埴谷雄高が、丸山真男も同様だが、基本的に講座派の認識に立っていることがわかる。丸山の近代主義は、日本にはこの「封建制」が執拗に残り続けているという認識から来ている。一方、埴谷はそのような封建制を打倒しようとする革命政党が逆に形成する権力構造を批判する。それらが有効な意味をもつ時期があったし、今もあることはまちがいない。しかし、それらが不十分であることも疑いがない。
 彼らが考えていないのは、資本制経済、つまり、貨幣に媒介される人間の関係がとる支配形態、およびその両義性である。それは人を、直接的な人間の関係がもたらすむき出しの支配、あるいは家族・共同体における贈与―お返しという互酬性の支配から解放すると同時に、新たな支配関係をもたらす。それは媒介的な支配であるがゆえに、権力をどこかに実体化することができない。しかし、そのような媒介的支配=資本制を否定する体制、すなわち直接的な人間の関係を実現する体制は、あからさまな権力的支配に帰着するほかない。これが資本制のアンチノミーである。ブルジョア社会を最も肯定すると同時に最も否定するマルクスの「弁証法」は、このアンチノミーから考えられねばならない。そして、これを「越えた」かのように装う思想は、どんなものであれ、破綻するに決まっている。」
  前後の文脈が重要なので熟読して欲しいのですが、「埴谷雄高が、丸山真男も同様だが、基本的に講座派の認識に立っていることがわかる」という一節があります。一方、市村弘正・杉田敦による『社会の喪失』では、丸山について次のように対談がなされています。これは上の文章にあらわされた、柄谷がとらえている丸山のある傾向を、別の角度から語ったものです。
「市村 彼のなかには、ナショナルなものは明らかにあったでしょう。前期国民主義、つかの間の幸福なナショナリズム、といっていた時に、彼が何を想定していたのか、ですね。
杉田 ただ、自らが従軍させられていた戦争については、もちろんきわめて批判的であったわけですね。その理由は、まずは日本軍が近代的な軍隊としては考えられないほど組織として劣悪であった、というものでした。それに加えて、戦争そのものが、まさに正戦論的に見て正当化できない、と。
市村 それと、戦争に至るまでの外交が拙劣であったこと、などでしょう。
杉田 主権国家として未熟だった、という批判ですね。しかし、そうであるとすれば、近代国家として成熟すればいいのか、という話にもなりかねません。こういうことをいうと、ものには順序があり、きちんとした主権国家にならなければ、その次の段階に行くこともできない、という反論がすぐにかえってきそうですが、私はそういう「発展段階論」には違和感があります。」
 「講座派」の立場とは、日本はまだきちんとした「主権国家」になっておらず、それを最初に果たしたのちに、次の段階に進まなければいけない。日本には「ブルジョア革命」と「共産主義革命」の二つの革命が必要だというものです。「講座派」という言葉のもとになった、『日本資本主義発達史講座』を一九三四年の学部学生の頃、丸山が熱心に読んだということは定説です。そして、一九四〇年の「近世儒教の発展における徂徠学の特質」で、丸山は近世の思想を論じたうえで次のように述べています。
 「最後に、最も根本的な疑問がわれわれの観点に対して提起されるかもしれない。抑々この様にして儒教思想の自己分解のなかに近代意識を探ることに一体如何なる現代的価値があるのか、そうした近代的な思惟こそまぎれもなく現在「危機」を叫ばれているところではないのか。現代精神のあらゆる混乱も無秩序も遡って行けば、そこに源泉が見出されるのではないか――。われわれはこの疑問に対してこう答えるよりほかない。まさにその通りである。しかしながら問題は近代的思惟の困難性は果して前近代的なものへの復帰によって解決されうるかという点に存する。市民は再び農奴となりえぬごとく、既に内面的な分裂を経た意識はもはや前近代的なそれの素朴な連続を受け入れる事は出来ない。」「歴史も決して単なる過去の事実の叙述にはとどまらぬであろう。しかし歴史がなんらかの道学的規準の奴婢となっている間は、如何なる意味においても本来の歴史を語ることは出来ない。ヘーゲルのいわゆる実用的歴史叙述の徹底的な超克の後に、真の歴史叙述は始まる。」
 こういった歴史観は、ヘーゲルの『歴史哲学講義』とマルクスの『共産党宣言』を前提としなければ生じえないものでしょう。丸山真男と『歴史哲学講義』と『共産党宣言』に関する話はぼくの「『死霊』論1」にも含まれておりますので、あわせて参照してみて欲しいです。
 

『社会の喪失』市村・杉田著(中公新書)

 投稿者:蔵田  投稿日:2006年 7月30日(日)17時33分36秒
返信・引用
   この本を取り上げることには、正直ためらいがありますが、しかしこの本に触れずにすますことはできないのではないか、と考えました。松平さんならすぐに読むことができるでしょう。この本のなかで展開されている問いが、松平さんの思考に刺激を与えることを期待しつつ、言葉を添えることにしてみます。

 「自由について」と名づけられた小さな章が、励ましの言葉として心に響きます。「私たちに残されているもの、それは「最後」に挙げられる声だ」(p112)と記されていますが、敗北を捨て去るのではなく、拾いあげようとする態度は、最後の最後で自分自身を救う唯一の小道具という気がします。そういえば、太宰も『晩年』から書き始めていましたね。「負けることは不可避なのだから、負け方こそが大切なのだ」と言われると、自分の負けっぷりを再検証する必要を感じます。自身の敗北から出発する思考が、どれだけの射程を持っているか…が問われることになるでしょう。

 もう一つ。この掲示板で丸山について多少触れましたから、捕捉を述べておこうと思います。このテキストで、丸山はナショナリズムに否定的ではなかったという話が載っていますが、私自身も同じ印象を抱いています。2冊程度しか丸山を読んでいないくせに、と思われるかもしれませんが、前に松平さんが紹介してくれた柄谷の「丸山はマルクス主義者」という意見は、いまいちしっくりこないのが私の率直な感想です。丸山という人は国民という単位を信じていた、と思います。一般的に流布されている左翼の親玉的イメージは、どうもなじめません。ただ、私はマルクス主義者という言葉の意味が実はよくわからないので、柄谷の真意は違うところにあるのかもしれませんが。
 

(無題)

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 6月19日(月)22時54分58秒
返信・引用 編集済
   ぼくは女性文学も海外文学も専門じゃないし、全然、先生とかでもありません。一趣味人として、小説を読んでの感想を、適当にしゃべっているだけです。
 ある人がある文学作品を面白いものと評価するかどうか。それは、その読者の個人史が、作品に描かれた登場人物の個人のあり方か、あるいは作者の個人史と、近いものかどうかということに由来することが多々あるのじゃないか。そして、女性文学にあらわれたセクシャリティのあり方や、そもそもの、近現代の日本の社会における女性にとってのセクシャリティのとらえ方は、文化や制度の変革に伴い、明治から大正、昭和から平成にかけて、急速に変化してきているのでしょう。今年に入ってぼくが読んだ近現代の女性文学は、金原ひとみ、清水博子、三並夏、十文字実香、柳美里、円地文子、壺井栄、林芙美子、田村俊子、樋口一葉などを、ほんのちょろっと齧っただけです。それらはそれぞれによいところがありましたけれども、『モデラート・カンタービレ』をそれらの中においてみると、ぼくにとっては現代的で、親近感を抱きやすい方のものだったかなと思います。
 

どうも。

 投稿者:kite  投稿日:2006年 6月19日(月)19時00分11秒
返信・引用
  日本の近現代の女性文学というのはどういうことですか。
松平先生の専門は円地とかなのですか。

http://www.geocities.jp/kzkw2000/

 

京都

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 6月18日(日)22時39分32秒
返信・引用
  >てまもtさん
 『善の研究』のどの章を細かく読むか。そうですね。第二編「実在」の章は埴谷の存在論と関係している部分もあるかもしれませんね。ぼくもこの書を読み返してみましたけれど、愕然として、本を取り落とすような、感動的な文章がいたるところにありました。はじめて読んだときは、ほとんど、ひっかかるところもなく、ぼんやりと読み下していましたけれども。
 ぼくはこの書を宗教書という意識で読んではいません。ただ「神」という言葉が、後半では頻繁に出てきて、それが普通の日本人にはよく分からない、躓きを与える言葉であるということは、もちろんあると思います。西洋の近代哲学は「神」の影響下にある。日本には、西洋で確固としたものとしてあるようには、明確な論理も、「神」もいないのでしょう。
 『善の研究』前半部は存在論へと、認識主観の側を精査することでアプローチしていることかと思います。カントの『純粋理性批判』との関わりが深く、また、「純粋経験」をどう評価するかが難しいです。後半部は倫理学の問題を扱っていて、ヘーゲル『精神現象学』、カント『実践理性批判』にヒントを得ている面があるのでしょう。神、ロゴス、普遍の問題が考察されています。
 日本はお米を食べる文化だけれど、西洋は血のしたたるステーキを食らう文化で、それが彼我の圧倒的体力さを生み、思想の規模において、日本人は西洋にかなわない、ということも疑われますが、『善の研究』は、日本人にとって、なんとかついていける、コンパクトな思想書であるかもしれません。西田はこの書で、西洋哲学史を弁慶の八艘飛びのごとく、切り貼りした、などと批判もできるのかもしれませんが、ここにある思想の凝縮度は凄いと思います。
 えらそうなことを言いましたが、ぼくもろくにこの書を理解できてはいません。なので、この書の高名な、前書きにある次の言葉だけでも味わいたいと思います。
「思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。」

>kiteさん
 M・ヂュラス『モデラート・カンタービレ』の良さってなんなんでしょうね。ぼくもよく分からないです。よく分からない作品は、ほうっておくのがよろしいのじゃないでしょうか。この世には、ヘンテコな文学作品が山ほどあるかと思います。どちらかといえば、自分が面白いと思ったある作品が、他人も面白いと思うということ、そのことの方が珍しく、人と人とが分かり合えるということは、とても稀なことなのだと思います。
 ぼくは日本の近現代の女性文学を系統的に、いくらか読んでみているのですが、日常というもの、生活の幅を超えないものが多いことに不満を感じます。政治的、社会学的、文化史的には興味の対象となりますが、そこで提示されている美の観念が、しばしば貧困で、げんなりしてしまいます。あるいは、美的でないものへと日本の近代制度により押し込められてあることに、彼女らの悲劇があるのかもしれないと、疑われるほどです。
 それらにくらべれば、『モデラート・カンタービレ』は、ぼくは、面白いと思いました。内容も筋もほとんど意味不明ですけれども、そこに表示されている狂気の表現の仕方は、隅々まで細かく気遣われていて、普通の紋切り型の物語から、常に逸脱してあるよう一言一句丁寧につむぎだされているようで、美的なものだと思います。読み終わったあと、「モデラート・カンタービレ」、「普通の速さで、歌うように」と、ぼくも心の中で繰り返してみたくなりました。この感覚は、春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだあと、「踊りつづけるんだよ」と、自分に向かって、言いたくなるような感じと、いくらか似てあるように思います。
 

どうも。

 投稿者:kite  投稿日:2006年 6月 9日(金)14時59分33秒
返信・引用
  『モデラート・カンタービレ』の「良さ」はどこにあるのでしょうか。

http://www.geocities.jp/kzkw2000/

 

次回読書会

 投稿者:てまもt  投稿日:2006年 6月 8日(木)22時53分33秒
返信・引用
  「善の研究」のどの章を特に念入りに読めばいいでしょうか。
何か散漫になってしまって。
 

(無題)

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 5月17日(水)00時33分31秒
返信・引用 編集済
  ぼくで分かることでしたら、なんでもお話しいたします。ぼくも『必読書150』を参考にして読書をしています。哲学系と、社会科学系等の外堀を埋めていく形で勉強しているので、どうも主要な中心へとたどりつくまでに時間がかかってしまっていてしょうがないです。大学四年生でゴーゴリやマルケスをおさえつつ、柄谷行人、磯田光一、前田愛、小森陽一、蓮実重彦、小林秀雄、石原千秋、奥野健男、平野謙、中村光夫らをお読みとはとても素晴らしいですね。何か、レポートや論文をネットにおのせになっていたら教えてください。kiteさんの論を読ませていただいたら、感想なりとでもお申し上げいたします。純文学の勉強をなさっていて、ネットを活用されている方はぼくにとって貴重ですので、仲良くしていただければ嬉しいです。  

あざす。

 投稿者:kite  投稿日:2006年 5月16日(火)21時28分14秒
返信・引用
  柄谷、中上、泰淳は僕もたいへん好きな作家です。

哲学のことなど教えてくださいね。
リンク貼っておきます。
また遊びに来てくださいね。

ちなみに僕は大学4年生です。
今日『フーコーコレクション1』を注文しました。

http://www.geocities.jp/kzkw2000/

 

はじめまして

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 5月16日(火)00時48分19秒
返信・引用 編集済
  kiteさんの掲示板、拝見させていただきました。話題の対象となる題材の選び方も、書き込む方たちの集まられ方も、好ましく思います。ぼくも何か、書き込みさせていただくかもしれません。夏目漱石『明暗』の小林はドストエフスキーの影響らしいです。小林が、怒りだしたのちに突然、泣きはじめてしまう場面がぼくは好きです。小林はぼくにとって、近代文学での理想の男性像です。ぼくは小林みたいに生きて行きたい。友達の前でそんな発言をしていたら、いや、あえて理想とするものかな、と突っ込みを受けましたけれども。まあ確かに、それはそうかもしれません。  

はじめまして。

 投稿者:kite  投稿日:2006年 5月15日(月)19時17分28秒
返信・引用
  すばらしいホームページですね。
読書傾向も似ているように思います。
また遊びに来ます。

http://www.geocities.jp/kzkw2000/

 

幸福をつかむことは不幸に耐えることよりも勇気がいる

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 5月14日(日)21時58分39秒
返信・引用 編集済
   一生を沈黙して過ごせるなら、そちらの方がいいのかなと思うことがあります。しゃべる、ということは、不可避的に、他人の注目を集めることを求める行為であります。そしてそこには自己の保身や、人を傷つけてしまう可能性を不可避的に含むものでしょう。そしてまた、しゃべればしゃべるほど、他人にとって、自己は馬鹿に見えるのじゃないだろうか。そんな恐怖に駆られます。ネットでは匿名で文章を書くのが普通、という風潮ができているようですが、ネットの文章はまた、特殊なものかもしれません。ある言葉を発した当人の社会的立場や人間関係、身体的状況や精神状態はそのときどきにどんどんと変化していく。一方で、書かれた文章は変化をしない固着したものであり、それらの記録は何十年も、あるいは永遠に残り、あらゆる人に晒されてあるかも知れない。そして、ネットに接続しているときの世界と、その電源を落としたあとの世界にまたがる断絶もまた、大きなものだと思います。
 昼の、松平耕一なら、松平耕一という固有名を持った公的、理性的存在と、夜の、匿名で私的な欲望のつぶやきを行うネットの世界は、截然と切り離されているのではないでしょうか。昼の世界で人は、できるだけ大人びてあらねばならない。大人びてあれば大人びてあるほど、その人は社会的に信頼される人となりうる。けれども、そこで抑圧された「私」や「欲望」は、夜の個人的世界へと逃れるかもしれない。近代的な人間観は人格の同一性を建前とします。昼の世界と夜の世界との非同一性をフォローするために、匿名や、ハンドルネームで発言がなされることになるのでしょう。
 そもそも前近代社会から近代社会への移行はどのように起こったか。ヨーロッパで活版印刷機が発明され、これによる新聞と書籍の普及が近代国民国家と公的教育制度を作った、ということがあるかと思います。しかし、インターネットの登場は、これまでの国民国家と教育制度を揺るがすものではないでしょうか。ネットは、書籍を打ち滅ぼしはしないのか。ネットの文章は公的なものなのか、それとも私的なものなのか。ぼくはネットなり、匿名掲示板なりの「破壊力」を信じています。小中学生の間でもずいぶん匿名掲示板やブログの閲覧が流行っているようですけれども、公的教育における理念や理想というものと、ネットにおける「現実」というものは乖離してはいないか。
 アウシュビッツでおこった「本当のこと」とは何か。戦争体験の継承とはどうあるべきか。永遠平和について。蔵田君はとてもいい話題提起をしてくれました。このあと、加藤典洋『敗戦後論』、アレント『イェルサレムのアイヒマン』、円地文子『食卓のない家』について語ろうかと思ったのですが、長くなりましたのでここまでにします。
 

永遠平和のために

 投稿者:蔵田  投稿日:2006年 5月10日(水)19時27分16秒
返信・引用
   さすがは松平さん。これだけの文章を見せつけられると、私の感想文の貧弱なこと…力量の差が切ないです。
 恣意的な断片になりがちで反省していますが、松平さんは横着しても意味を的確に汲み取ってくれ、大変ありがたく思っています。どうも最近、わかりあえないことは沈黙するしかない、という処世術が習慣化したのか、断片すら抑圧しがちでして、松平さんの生き生きとした返答が心に沁みます。

 ある過去の作品を的確に読もうとするならば、松平さんの言うように「私」から離れて、手の届くことのない現場に居合わせる必要があるのかもしれませんね。だけどこんなこと言ったら怒られるかもしれないけれど、作品なんてものは、作者の手を離れてしまえば無傷に済むのは法的に守られた著作権くらいなもので、あとは物理的な紙を含め、極めて恣意的で恩知らずな読者に、限度はあるにせよ好きなように汚される運命にあるのではないでしょうか。なので、「何が書かれたか?」というテーマと同じくらい、「どのように読まれたか?(もしくは読まれなかったか?)」というテーマも興味深いと少なくとも私は感じます。死んでしまった作品を行き返させるのは紛れもなく読者であり、その読者に向かって作品本人がお礼、もしくはお世辞をするなんていうこともありそうな話ではないですか?

 戦争体験などというものも、若い人たちへの継承が常に問題になりますが、この議論で言うならば我々が的確に読むことは不可能ということになりましょうか(なぜなら体験したことがないのだから)。我々はアウシュビッツで起こったことを本当には知ることができない、のかもしれません。この簡単な事実にどんな反論が用意できるのか、考えてみる必要がありそうです。もちろん、私にはとても手に負えませんけど。
 

今日の読書会のメインはシャンパンタワーです

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 4月22日(土)00時56分48秒
返信・引用 編集済
   たとえば、今日の夕ご飯はシチューでした、という言説ならば、誰かから批判を受けることは少ないでしょう。それは、「私」にまつわる私的なことで、誰にでもありうる一般的な話題です。もちろん、つまらない話だ、それがどうしたの、興味ないよと黙殺されることはおおいにありうるでしょうけれども。今日の夕ご飯はシチューでした、という日常的な話題を離れ、そうではないものに触れようとするとき、どうしても歴史というものを考察したくなります。そして、自己のルーツを文学作品の形で表現することは、それなりに有効な手段だと思います。「夜明け前」がどうだったかは知りませんが、自分より上の世代の時代を扱った小説が、自分より上の世代には批判され、自分より下の世代には受け入れられる、そんなこともあるかもしれません。しかし、「私」というものを空間的にはなれ、時間的に過去のものに言及しようとするとき、基本的に、文章に求められる難易度が上がるものでしょう。たとえば、まだ生きている人のいる時代についての判断を、その生きている人の前でしてみると、「お前はそこにいなかったじゃないか」と言われ、ぎくりとするわけです。その時代を生きている人が、その時代に対する圧倒的な情報量を持つのは当然なことでしょう。よほどうまくやらない限り、歴史を語るのは至難の業だと思います。一方で、時代とは流れ去り、決してもとには戻らないものではありましょう。去るものは日々に疎し。なかなか、生きている者は、生きているということについてしか、語れないものでしょう。連続する「今」を超え、いかに失われた「過去」のものを想像のなかで再構築するか。そんなことが論説文の一つの課題になることもありましょう。その場その場であぶくのように生まれ消え行く対他的な発話行為と異なり、書かれた文章というものには、本質的に、人間が「今」のなかに常に閉じ込められてあることを、理性の力で「未来」と「過去」へと自己解放しようとする営みが含まれるものかもしれません。しかし、そのような思惟のパターンは一方で、「内」に対して「外」、「今」に対して「過去」を肯定し、後者の立場から前者を批判する、月並みな二元論に陥ることもあるのかもしれません。
 丸山真男と島崎藤村については、「必読書150を読む会」の読書会か掲示板で、もうちょっと細かく扱いたいかな、と思いました。中途半端に言いかけて、やめたりして、申し訳ございませんでした。とりあえず思いついたことがあったら、見切り発車で言うだけ言ってみよう。その結果、叱られたり顰蹙を買ったりして、落ち込んでしまう。それでも、思考停止を阻むべく、運動を続ける。ぼくは蔵田君と、志を同じくしてありたいです。
 ハギノヤ君に続き、蔵田君もブログの所在を教えていただきうれしく思います。インテリの方や、活字での表現というものを真面目に考えている方のブログはできるだけたくさん知りたいです。知り合いのものや、よく行く面白いブログ、サイトがありましたら、是非どなたもお教えいただければと思います。どうも、ぼく自身は、ブログというものはどんなふうに利用できるものであり、どんなふうに文章を綴ればいいのか、テンションが分からずにまごついておりますけれども。
http://d.hatena.ne.jp/yamame1/
 

春は眠いと言うけれども

 投稿者:蔵田  投稿日:2006年 4月20日(木)13時30分29秒
返信・引用
   あれ?この間の力作に返答しようと思っていたのですが、変更してしまったのですね。おそらく、松平さんの優しさ、気遣いによる配慮と推測しますが、もったいない気がいたします。できることなら、前に掲載されていた文章をメールでお送りしていただけないものでしょうか。せっかく鋭い丸山批判に触れられたのに、真に残念です。

 4月で異動になりまして、新しい職場で四苦八苦の日々が続いています。よって、力不足で未熟な返事しか書けませんが、私にとって松平さんは極めて貴重かつ重要な人物ですので、遠慮なさらず鋭い批判を掲載してください。批判されるのは頭にくるのも確かですが、当たり障りのないものに触れるためなら、この掲示板を読む必要はないのですから。
 私が丸山から学んだのは、一種の思考停止を拒む姿勢です。全ての情報を入手して決断できるわけではない以上、我々は情報不足のまま出発せざるを得ない。出発すると同時に情報を収集し、情報を収集しつつ決断を修正していく。こうした姿勢はデカルトも推奨していましたが、私も肝に銘じたいものなのです。

 松平さんには、私の考えを修正、いや転向させるような説得力ある文章を期待しております。


 それにしても旧工大生さんは無事でありましょうか。会社という場もまたやっかいな代物かもしれません。愚痴を吐きにいらっしゃればいいのに…


※ブログを作成してみました。松平さんには興味のない分野が大半ですけど。ひょっとしたらshinoさん経由でお友達に伝わらないかとも思いましてね。「セネキオ」という単語をgooブログのみで検索すると出てきます。陸上競技の話ばかり…気が向いたら松平さんの軽いジョークを書き込んでくださいまし。
 

神様には冗句のセンスがない

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 4月 7日(金)04時17分33秒
返信・引用 編集済
  >蔵田君
 生活と文学との結びつきが一様でないこと、そのとおりだと思います。蔵田君のおっしゃる件についてはもうちょっと勉強してみます。岩井克人の『貨幣論』については、どんな感じの本だとか、ございますかー?

>旧工大生君
 東工大、普通に怖そうですね。以前侵入してみて、研究室のあり方の違いに呆然としましたけれど、理科大にしてからがぼくには恐ろしいです。理系の学問と文系の学問、それぞれの「凄さ」というものは、どのように位置づけられるのかという問題は、ぼくの頭の中をぐるぐる回っています。
 

(無題)

 投稿者:旧工大生  投稿日:2006年 3月29日(水)00時20分34秒
返信・引用
  東工大はすごい所だった。

泣きたいよ。

自分は精進します。
 

明日からの残業が怖い…

 投稿者:蔵田  投稿日:2006年 3月26日(日)23時58分17秒
返信・引用
   生活に根ざした文学、というのは一見大変わかりやすい言葉ですが、実はそれほど自明なことではないような気がしますね。つまり、我々は普通に生活しているだけで様々な場への出入りを余儀なくされている。新聞やテレビによって提示された世界に入り浸り、埴谷雄高の庭に勝手に住みついてみたり、デカルトのごとくとはいかないまでも、一日を省察に費やすこともある。生活という場には実に沢山の言葉が集まり、人ごみのようにすれ違っていくものと思われます。吉増剛三氏の話を聞くと、そういう言葉を丹念に書きとめていく仕事が詩人の役割なのかなぁ、などと考えたりいたします。

 『夜明け前』の主人公、なんと言いましたか、忘れてしまいましたが。生活に根ざした文学として私が想起したのはこの作品でした。激動の時代、ちっぽけな生活と巨大な理想。その狭間で主人公は苦しみ、最後にはとうとう精神を病んでしまう。これは疑いないことですが、私が精神を病まないのは、『夜明け前』の主人公ほど潔癖でないからでしょう。堕落していられるからこそ、生き続けていられるのだと思っております。

 「私は私であるという誇らかな叫びは、いったいいつ、どこで叫ばれるのだろう」という松平さんの文章を清々しい気持ちで読みました。今月、丸山真男の『現代政治の思想と行動』を読み、丸山がマルクス主義者ではなく、個人主義者であることを知りました。と同時に「狭い個人主義」を排斥していることも。この50年前の小論集の立場を、屍の上に建てられた戦後民主主義という一本の柱として、心に留めておきたい、そう思っています。
 

MSNメッセンジャーによる話し相手を募集してます

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 3月20日(月)10時17分9秒
返信・引用 編集済
   職場でも学校でも孤立無援な私です。とても寂しいので、MSNメッセンジャーによる話し相手を募集しています。気軽にメンバーに追加していただいて、話しかけていただければと思います。この掲示板の話題や、読書会やサイトの内容についての質問、意見、批判も歓迎いたします。私のアドレスはyamame_5@hotmail.comです。
 オタク的な話題をこの掲示板で展開するつもりはありませんが、オタクとは何か、という考察についてなら興味があります。オタクとは何かを検討していく過程で、文学や批評のありうべき姿が見えてくるように思われるからです。オタクにとって美とは何か。日本で使われるオタクという言葉は歴史的に比較的新しいものでありながら、さまざまな意味が付与され広がりがあり、人によってそのイメージされるところのものも異なってきて、定義は一様なものとはなりえないでしょう。しかし、オタクというものの第一の特徴は、単簡にいって、美というものが彼岸にあるものであり、到達することは不可能なものだと認知しつつも、その美に没頭する姿勢にあるように思われます。オタクとは実際には対応するもののない虚像を、仮に実体的なものとしてとらえるものであり、このとき「オタクにとっての美」とは「虚体」とも呼べるようなものなのであるように思われるのです。あらゆることがグローバル化され、アメリカ的なものが世界中に浸透していくなかで、イスラム圏のものとは違った形で、日本のオタク的なサブカルチャーは、一つの、私は私であるというつぶやきを提出していることは間違いないでしょう。そこには一定の、世界に通用しうるスタンスが含まれているかもしれない。おそらく、オタクの起こりは日本文化の中で、過去へとさかのぼりうる。たとえば、日本文学のなかにもオタク的なものの流れはどこかしらから発現し、受け継がれてきているように思われることもあります。乱歩とか山田風太郎とかにはある種のオタク的な臭いが感じられますし、石川淳なんて人にも、その係累を見出せるように思われます。安部公房の「箱男」なんてものも、オタク論として読めるところがあるのではないでしょうか。
 オタクというものの第二の特徴として、しばしば「キモい」とされることについて考えてみたいです。オタクにとっての美とはハイカルチャーに対比されて、社会的な評価が低いわけです。オタクの「キモさ」とは、オタクにとって、真善美のうちの、真と善が等閑視されてあるように考えられることと、快楽を他者と共有するのではなく、自己一人享楽するかのような姿勢に由来するのではないでしょうか。「オタクと道徳的善」にはどう関わりがあるのか、「オタクと論理的真」にはどう関わりがあるのか、といったことを、さらに言及しなければならないでしょう。
 オタクには「数学オタク」といったような言葉もある。これはオタクという言葉を広義に使用した例でしょう。「数学オタク」の数学者にとって、美の対象たる数式にはセクシャルなものが含まれない。また、同時にこの「数学オタク」という言葉の運用法から、学者が学問を行うということが、ある種の「オタク的なもの」と、世間的には、同一視されうることがあるということの証左になっているように思われます。私にとって、数式を美とあがめ、愛する精神はおぼろげに分かるものですが、それは万人にとってもそうなのか。
 セクシャルな快楽に対して禁欲的である学問――公教育制度と、セックスが商品化されて果たされてある風俗業界。セクシャルなものが婉曲的な形ではらまれつつ、セックスからは分離されてあるオタク市場。これらは日本文化において、三すくみを形成しているように思われるのですが、これらの三つを統一的に見る視点を持つことができないだろうか。そんなことを考えます。
 halshinoさんはコンピューターグラフィックスの専門家でいらっしゃるということで、自然界の現象を追うことと、数学と物理のことについて言及されていますが、CGにおける
美とはどのようなものだとお考えでいらっしゃいますか。
 

(´‐ω‐`) zzz

 投稿者:halshino  投稿日:2006年 3月14日(火)02時40分38秒
返信・引用
  >工大生さん
いえいえ、恐縮でございます。
CGなぞはオタクのやるもんだ!みたいな風潮がありますが、自然界の現象を追うことを目標に据えていて
フタを開けてみれば数学と物理の世界なんですよね。
もちろんそのような知識がなくとも上手にやれちゃう人もいますが、私はCGをやることで見えてきた"現象"があったもので
もっと見たいからもっとCGのこと知りたいなっというミーハーな欲求で動いています。
怠惰な人間ゆえ研究を続けるだけの耐性も知識もないもので、トライアンドエラーを繰り返す研究者には頭が下がります。
熱い夏を、今年はボストンで向かえることができたら、と思いつつ。。
そして、「このオタ!オタ!」と罵られることに軽い快感を覚えつつw(危

(´−`)o○(工大生さんはもっとユーザ寄りの研究なのかな…

んーむ、、、まぁ難しい話は抜きに桜が咲いていれば桜の話でもいたしましょう。しっぽりと。
 

(無題)

 投稿者:工大生  投稿日:2006年 3月13日(月)09時33分24秒
返信・引用
  >halshinoさん

CGわかりません。今の研究室仲間に、下の列挙された単語が分かる人がいるんですが…。学生最後の3月は忙しそうで、紹介できません。

自分は卒論修論で専門性を身に付けることに失敗しました。さあて何を話そうorz
 

「必読書150」を読む会

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 3月13日(月)06時51分5秒
返信・引用
   飲み会は蔵田君が参加してくれてとても嬉しかったです。社会人になっても、なお一層知見を広められている蔵田君の知識力と胆力に感嘆しました。ぜひまたお話ししましょう。会って話さないと、細かい部分の意見や思想に関していやおうなく生ずる誤差が、うまく修正できないところがあるもので、そういったところが前々から心残りでした。途中、話をさえぎってしまって申し訳なかったです。蔵田君の力強い言葉をまた、お聞きしたいです。
 生活に根ざした文学こそがいい文学だと、ぼくは思っておりました。漱石の『それから』であるとか、谷崎の『異端者の悲しみ』であるとかは、三十近いインテリの若者が家でごろごろしている話でして、ぼくはそれらを読むと、反面教師というか、げんなりしてしまって冷静ではいられない。二葉亭四迷の『浮雲』以来、日本の近代文学でしばしば登場する舞台設定でして、ここにはなんらかの意味が付与されうるのかもしれませんが、ぼくもまたそんな状況にあります。ぼくはいま、固定された視点を切に求めてもいます。「しるし」、を求めていると言ってもいいです。吉本隆明は24時間を社会人として生き、25時間目に文学をせよといった趣旨のことをのべていますが、しかし、社会人をしながら文学や知をこころざすことは、なかなか、半身を引き裂かれてあるようなことなのかもしれませんね。
 それにしても、人間にとって「私」とは何であるのだろう。『死霊』には、革命家とはうまれつき額に「しるし」を持った人のことではない、という言葉が登場します。そうではなくて、醒めた自意識を持ったものはいつでもそのとき革命家になってしまうのだ、と三輪高志は述べるのです。額にある「しるし」というものがぼくには最近、ひどく気になります。自分はある民族に属しているとか、男であるとか、女であるとか、私は私であるとかいったことは、「ことば」であって、ある種の、額にあると、思わざるをえない、思わされてしまう「しるし」のようなもので、本当は実体的なものではないのではないか。また、それと同時的に、社会人になるとは、額にしるしをくっつけるイニシエーションと密接に絡み合うのではないか。しかし、労働のなかで、「しるし」を実感できるのはしばしば、少数のものに限られ、それは瞬間的なものでもあるのではないか。そして、経済的状況や、法律的、文化的問題、国家間のパワーバランスや、国家による「国民」という規定の問題等、実体的なことがらがもちろん含まれ、それらをそれぞれに細かく分析する必要もあるのですが、マイノリティの問題も一部、この額にある「しるし」というものと、関わりがあるように思われるのです。私は私であるという誇らかな叫びは、いったいつ、どこで叫ばれるのだろう。そんなことを考えています。
 『死霊』を読んでいる人自体が少ないため、四月の読書会はこっそり、しっぽりな会になるかもしれません。会の名前は「「必読書150」を読む会」とつけました。「必読書150」って何?とか、いまさら「必読書150」かよ、といった声も聞こえてきそうです。ぼくが「日本文学研究会」に参加していたとき、読書会で扱う作品に何を選ぶかにとても苦労し、読書会で、どんな作品を扱うかがその会合の性質の根本を左右するものだと学びました。「「必読書150」を読む会」という会名は、次のリストにある作品を話題の設定として選ぶ、という以上のものでしかありません。
 http://www.gem.hi-ho.ne.jp/yamame/sub5.html
 月に一回ほど、土曜か日曜の設定で行おうかと思います。このリストの中にある本で、他人と何かを語り合ってみたいという方がいらっしゃいましたならどなたも、松平に直接言っていただくか、あるいは、こちらの掲示板で提起していただければ嬉しく思います。
 http://sea.advenbbs.net/bbs/rec3776.htm
 さまざまなスポーツや、ゲームの中から、たまたまサッカーを選び、サッカーを選んだからには、二つのボールを使うのではなく、一つのボールを蹴ろう、といった程度のものです。
 

3月は嫌な季節です

 投稿者:蔵田  投稿日:2006年 3月12日(日)16時40分50秒
返信・引用
   ちょっと遅れましたが、先日の飲み会おつかれさまでした。仕事の状態が思わしくなく、苦しい日々が続いております。返信できず、申し訳ないです。

 工大生さんに笑ってもらえると大変嬉しいです。仕事が始まれば今までのようにはいかないかもしれませんが、まさしく分野を越えての交流を続けられたら、と思っております。ついつい憂さ晴らし的なノリに陥ってしまい、反省しきりです…次は一つの本を媒介にして、場を共有したいものですね。

 Midoriさんのお話、私も興味深く聞かせていただきました。ただ、『死霊』を読んでいないので残念ながら話についていくことができず…これはできるだけ早く『死霊』読まなければいけませんね…今年は無理…かな。

 そういえば、僕の数少ない友人のなかで、社会人になってから勉強を続けている人は皆無のような気がします。次々と読書の話が通じなくなっていくことを自覚すること。そのことと同時に、一人また一人と友人達は手の届かないところへ行ってしまいました。
 この無残な現実を思い起こすなら、松平さんが(苦痛を伴いながらかもしれませんが)院に在籍する選択してくれたことは、率直に言って嬉しい限りです。…モーレツ社員になっちゃったらどないしよか、と。

 人間は労働する悲しい動物だ。(確かブレイク 大江の朝日新聞連載から)

 ある生活形態の文学的沈殿物を読者に提供し、この生活形態そのものは与えないような実践とは手を切りたい。
 (アンドレ・ブルトン 『ベンヤミンコレクション1』ちくま学芸文庫から)

 文学が生活形態そのものを与える実践的行為でありうる場合、松平さんが言うような言葉の破壊が前提されているのでしょう。そのことはまさに革命的ですが、しかしそのことを想像するための危機意識が大衆に共有されているとは思えません。苦痛は他者に届かないようです。

 残念ながら、松平さんの主催する読書会、参加が難しいと思われます。そもそも『死霊』を読む時間が取れそうもないので、お話になりません。参加したい気持ちに変わりはないので、次の機会があればぜひともよろしくお願いします。
 

(´・ω・`)

 投稿者:halshino  投稿日:2006年 3月 4日(土)02時22分56秒
返信・引用
  >工大生さん
浮遊演算とかrenderingとか色彩工学とかGPGPUとか、そういったものは範疇ディスカ?少しズレますか?
もし光学関係に強いのでしたら、いろいろ私の知識を改めて欲しいです。
あと会社見学で何を見たのか教えてください。こっそりと。しっぽりと。
 

もう一年、法政に在学させていただくことになりそうです。

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 3月 3日(金)18時02分16秒
返信・引用 編集済
  >ハギノヤくん

 ハギノヤくんのブログ、深みがあってユニークで面白いですね。こいつはぼくも定期的にチェックせざるをえないです。ハギノヤくんの気持ち、とても嬉しく思います。しかし、あやまらなければいけないのはぼくの方です。ハギノヤくんはよく頑張っていらっしゃると思います。この二年間、連絡もさしあげず、ぼくの方こそすみませんでした。どうも精神的にぎりぎりでして、ちょっと誰に対しても、親交を結ぼうと動きかける力が沸いてこなかったのです。日文研を食いものにする、といったことについては、ぼくは自分こそが悪辣だったと思います。人が組織として集まるとき、多の意見を一つにまとめる必要があるかと思いますが、その選択の過程では必ず、選ばれるものと選ばれないものが生まれる。二つの間の絶えざる決定と排斥が必要で、自分がサークルにいる間に、すっかり穢れにそまったような気がしました。院に入ったのは、穢れを晴らすための禊として、自分を鞭打つ必要があったからかもしれません。日文研にいたころの傲慢な自分が恥ずかしいです。
 就活をはじめていらっしゃるのですね。それは素晴らしい、正しい道行きです。ところで、ハギノヤ君は以前、卒論は「2ちゃんねる」論で書きたい、とおっしゃっていたかと思いますが、その計画は続いているのでしょうか。ぼくは前回の書き込みで「ことば」の成立する地点を「学校その他で、授業としておこなわれるものの否定的側面」「その肯定的側面」「友情、恋愛におけるもの」「職場におけるもの」にわけてみました。これらは話された「ことば」によるものです。人間は誰しも「ことば」というものを話さざるをえない。しかし、「ことば」とは何のために話され、そこでは何が期待されるているのか。職場における「ことば」とは、基本的にはお金を稼ぐという目的に統制された言葉ではないかと思います。しかし、それだけでなくて、「ことば」とは、「権力」や「存在」とも密接な関係にあり、言葉というものを倫理的な側面から考察できるように思う。「だまっている」とは「存在しないこと」に近い。「ことば」とは、しゃべっているあいだ、当人の意識としては「他人の存在」というものが前提となっていることであろうし、発話行為には他者による承認が期待され、言葉を発することは、少なくとも「不快」な行為ではなく、「快」に属する行為でしょう。そして、ある「ことば」が他人に及ぼす影響と、別の「ことば」が他人に及ぼす影響との異なりは、どのようなところに生じてくるのか。ぼくは話された言葉ばかりを話題にのせましたが、会社や組織における書かれた言葉、新聞、小説などの刊行物、「2ちゃんねる」やブログにおける書かれた言葉、といったものの諸特性について、さらに考えてみたいです。ハギノヤくんの「2ちゃんねる」論をうかがいたいです。

>工大生君

 けっきょく、量子力学の話を聞かずじまいに終わってしまいましたね。しかし、工大生君の冷静で客観的な分析と、真率な姿勢には頭の下がる思いがします。ぼくは工大生君に以前、ネット上では論陣を張らない、ということをしゃべり、マジレスはかっこ悪い、といった態度を見せたことがあったかもしれません。しかし、さまざまな論陣がうまく張られた空間がネット上にあったら理想的だと思いますし、知的刺激を生み出しあうようなサイトや掲示板を作っていけたらと願ってもいます。「まじめにふまじめ」ということがぼくの文章のテーマでもあります。まじめさとは近代文化の、ふまじめさとはポストモダンの特徴だといったことがいわれます。まじめなものにおける言葉の問題と、ふまじめなものにおける言葉の問題を考えていきたいです。工大生くんには、ぼくが提出している話題を批判するものであれ、質問するものであれ、関係ないことであれ、どんどん書き込みしていただければ嬉しく思います。蔵田君が労働疎外の問題に触れて、チェホフの「三人姉妹」を引用した件は衝撃を受け、共感し、暗澹とした思いに駆られました。Midoriさんの『死霊』六章論は、ぼくはこれまで六章に対する意識が薄く、もっともよく分からない章だったのですが、興味を抱き、もっと詳しく話をうかがってみたくなりました。

**********************
 今年はいくらか交流の機会を増やしたいと思います。さしあたって、松平主催で、読書会を開きます。第一弾の企画としては、題目は埴谷雄高の『死霊』で、四月二十二日(土)十五時に、法政大学図書館前ベンチ集合の予定です。レジメは、松平の「『死霊』論2http://www.gem.hi-ho.ne.jp/yamame/shi3.html」と、さらなるプラスアルファがあるかもしれません。どなたもお気軽に参加できる会を作っていきたいと思います。日程が近くなったら、もう一度、細かい話を書き込むかと思います。http://www.gem.hi-ho.ne.jp/yamame/sub5.html
 

この度は

 投稿者:工大生  投稿日:2006年 2月27日(月)23時33分22秒
返信・引用
  飲み会にお誘い頂きありがとうございました。みなさん濃いです、面白かったです。思えば全員の年齢・履歴・立場・今後は全く異なります。いろいろな方に巡り会えました。
蔵田さんがずっと「労働からの疎外」を訴えていました。今思い出すとあの光景は可笑しくなってきます。いや、自分にとっては笑い事ではないですけどね。

話題の半分以上を占めた本や思想の話は半分もついていけなかったですが、やはり自分は興味ある理工系の諸学問について勉強をしていかなければなと強く思いました。
時々自分も文学や思想、流行りの本を読みます。その時皆様からそういった話題に関してご教示頂ければ幸いです。

>松平先輩
新しい『死霊』論読ませて頂きます。楽しみだぁ。。

>midoriさん
『死霊』6章の感想は、津田夫人の描写から「埴谷はふざけてるな」との印象しか受けませんでした。だからmidoriさんの卒論の話は新鮮でした。またお聞かせ頂ければ嬉しいです。

>ハギノヤ@日文研 君
就職活動楽しかったよ。タダ飯・タダ酒にありつけたりしました。会社内や工場の見学ができました。1番印象に残っているのは製鉄所の見学でした。大きい鉄の塊が自動制御されているのを目の前で見たら「科学技術はすごい」と感動してしまいました。ハギノヤ君はどんな業界を志望しているのですか?
 

お久しぶりです

 投稿者:ハギノヤ@日文研  投稿日:2006年 2月27日(月)01時23分53秒
返信・引用
  日文研のハギノヤです。このHPと掲示板はときおり眺めていたのですが、なんとなく書き込むことも出来ずに時間が過ぎてしまいました。この間の飲み会も突然お邪魔して頭を下げてみようかと思いつつ、故郷の友人からの誘いもあって結局行けずじまいになってしまった感じです。

松平氏には日文研という場所で色々とお世話になりました。その日文研も、一時は解散の勢いでしたが、今年度は意外と持ち直したのではないかと思っています。『埃風』の発行回数も気力の続く限り増やしてみました。『チラシの裏』や4月発行予定の『大学入門』など、僕自身の趣味的な冊子も日文研名義で作成したりしています。
また、来年度僕は二文連委員長をやらせていただくことになりそうです。今年度は本部員をやらずにサークルに専念してみたわけですが、日文研も一定の体力を持ったようなので、僕自身の興味もあって本部なるものに関わっていきたいと思っています。
結局僕は日文研を食い物にして大学生活を続けてきてしまったようなもので、いつか松平氏に頭を下げたいと思いつつ、その機会も作ろうとしなかったことは反省しているところであります。

松平氏に会った頃は意味不明でキモいペーペーだった僕ももうすぐ4年。今でも意味不明でキモいペーペーではありますが、就職活動なんてものもしなければならず、オトナになるって難しいなあと実感しています。

2005年度の日文研総括のURLを貼っておきます。

http://blog.livedoor.jp/gaspard_de_la_nuit/archives/50386480.html

 

集合時間に間に合わなくても、どなたでもお気軽に、飲み会のほう、ご参加ください。下の名前からぼくの携帯にメールを送れます。

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 2月21日(火)03時49分37秒
返信・引用 編集済
  >工大生くん

 遅くなってでも、是非ご参加下されば嬉しいです。ご自分の論文への評価がバラバラだったという話、ぼくにも経験があります。論文であれ、論文でないものであれ、プロの書いたものであれ、そうでないものであれ、書かれた文章への評価というものは、あらゆる文章において、肯定することも否定することもできるように思えるのです。この現象を、ぼくは大庭みな子の小説のタイトルから、「山姥の微笑み」と名づけています。評価のための立脚点というものをどう構築するのかが、「山姥の微笑み」の、次の段階で必要となってくるようにも思われます。そこには美学の問題が絡むように思います。

>蔵田くん

 話しかけづらいムードをいつも出していて、申し訳ございません。どのように人と接すればいいのか、分からないのです。飲み会の方、是非お待ちしております。
 もしも、「車輪の下」にいるような気持ちを抱えつつ、仕事をしつづけなければならないのだとしたら、それほどに辛いことはないでしょうね。『枯木灘』の竹原秋幸のごとく、土方の労働の中に、「自由」を感じることができたなら、幸せなことなのだろうと思います。
 かつてぼくは蔵田君の前で、「毎日英語ばかり勉強していてつまらない」とこぼしたことがありました。それに対し、「英語を毎日勉強できるなんて羨ましい」と蔵田君に諭され、そのような発想があったのかと驚き、恥ずかしくなりました。その言葉に支えられて、勉強嫌いなぼくですが、しぶとく学生を続けた、ということもあるかもしれません。そしてまた、幼児のころから言語能力も知能指数も低かったぼくなどを、学部のみならず、院にまでも入れていただき、学習する機会を与えてくださった法政大学には本当に感謝をしています。さしあたって、大学をはなれ、これまでよりも多めに仕事をし、座禅を組みながら、本当に自分のしたいことは何なのかを考えてみようかな、と思っています。
 ところで、ことば、とは何なのでしょうか。言葉というものの成立する場面をいくつかの類型にわけて考えてみたいと思います。ぼくはかつて、学校というものが嫌いでした。学校の授業で展開されている話題というものに興味がもてず、先生の話を強制的に聞かされているようなのがいやで、いつもぼんやりしていました。しかし、高三の受験のころ、予備校に通うようになり、それらの講義に深く感動しました。国算理社英の五教科には、すべてにつらなって流れる論理というものがある、そのようなヒントを見たように思います。そのことと関連して、アリストテレスやプラトンにおいて、論理と美と神が相互にどのような関係にあるのか、興味を抱いてます。
 次に、友情や恋愛における言葉というものを考えてみます。友達とのばか話や、恋のささやきというものは、なにかしら否応なく、第三項を排除することでしか、楽しむことのできないものではないかと思います。セックスの最中の眼が怖い、とぼくはしばしば女の子に指摘されたものです。セックスをしている、ぼくと女の子の二人をみつめる、「第三者の眼」、そんな眼が、その最中のぼくには開いているのかもしれない。相手としては興醒めすることでしょう。ぼくはしばらく、友情というものと、恋愛というものに没交渉にしていました。
 また、職場における言葉というものがあります。労働の現場では、基本的には個性というものは重要性を持たず、労働力というものは商品化されてある。バイトは社員に服従し、社員は社長に服従する。社長はお客に服従する。そして、これらの関係性すべてを支配するものであり、組織自体および、売買というものを成立させているものとして、「言葉」の力というものがあるのではないか。仕事場では、上司の言葉や、顧客の言葉にうまく服従できる能力が最重要となるのではないか。話は少しずれますが、いったいに、職場というものを描いた文学作品が少ない。最近の芥川賞受賞作、「沖で待つ」は職というものを場面に選んだという一点でだけでも、いい作品だったように思います。
 さて、『聖書』の「ヨハネによる福音書」には次のようにあります。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
 ぼくは、「究極の革命」というものがもしあるとしたら、それは「言葉」をうち滅ぼすようなものなのではないのかと考えることがあります。しかし、長くなりすぎたので、今回はここまでにします。
 

中断と再開

 投稿者:蔵田  投稿日:2006年 2月19日(日)23時45分8秒
返信・引用
   お久しぶりでございます。何かを書くのにためらわれるほど、長い時間が経過してしまいました。なかなか書き込みできず、申し訳ないです。
 生きるうえでの困難な問題があるようですが、ひとまず松平さんも工大生さんも元気そうで何よりです。私も何とかこの1年、気が遠くなるほどの反復とわずかにずれていく精神を抱えながら、生きのびることができました。

 さて早速ですが、飲み会の件、もしよろしければご一緒させてくださいまし。ただ、その日は仕事が入っているので、6時半くらいにはなってしまうと思われますが。ぜひともよろしくお願いします。

 工大生さん、そのように言っていただけると大変嬉しいです。ほとんど褒められた経験がないので、とても励みに思います。これから仕事に関連してさまざまなことが起こるでしょうが、新しい世界に「軟着陸」されることを祈っております。お互い「思考」を促しあえる関係でありたいものですね。

 僕は今でも院に行かなかったことを後悔していて、松平さんの歩んだ道を進みたかったといつも考えているのです。陳腐な言い方ですが、一度きりしかない人生をこのまま無為に過ごしてしまっていいのだろうか、と。宮崎駿が描くように、労働が人間を救うということをある種の信仰として持っていたつもりでしたが、実際働いてみると、むしろ『車輪の下』のようなあらゆるものからの疎外感と絶望を再認識したにすぎません。
 どうにも、生きていくのはうまくいきません。うまくいきませんが、私も胸を張りたいものです。いや、胸を張るまでもありません。例えば、ブレヒトのような人がこっそりと建築物の陰から目撃しており、証人の役割を十二分に果たしてくれるでしょうから。
 

(無題)

 投稿者:工大生  投稿日:2006年 2月18日(土)16時23分13秒
返信・引用
  (25日は行けるかなぁ…微妙です。)遅刻するかもです。誰がお見えになるのだろう。

>工大生君による批判を踏まえて、卒論を書き直したものでもあります。
おそれおおいです。あの時は『死霊』を読まずに批判していました。恥ずかしい限りです。
読んだ後ではまた別の感想を持っています。

あの当時、他人の論文を評価することは大切だと習いました。若さ故に行きました。この2年間で歳をとった感じが最近します。
ちなみに、最近自分の修論発表の評価を読みました。評価した教員・学生共に言っていることは全くバラバラでした。
 

ボケにはツッコミを 飲み会(ギヤ・セカンド)

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 2月13日(月)02時09分50秒
返信・引用 編集済
   飲み会を開こうと思います。2月25日(土)17時に、法政大学市ヶ谷校舎、図書館前ベンチ集合とします。この掲示板をごらんの方はどなたでも、超お気軽にご参加ください。

>工大生君
 修論がとおりましたか。それは何よりですね、おめでとうございます。ぼくも実のところ、修論は提出済みで、結果待ちの状態です。今、工大生君の声を聞き、二年前、ぼくの卒論の種々の欠陥を、君に鋭く指摘していただいたことを、懐かしく思い出します。今度の修論はやはり『死霊』論ですが、工大生君による批判を踏まえて、卒論を書き直したものでもあります。つまり、この修論に「『死霊』論――ギヤ・セカンド」と名づけてもいいのですが、もう少ししたらこのホームページにも掲載する予定です。再び工大生君の忌憚のない意見をぶつけていただけたら、それにまさる喜びはありません。
 工大生君は会社も決まっているのですか。それは素晴らしいですね。明日をも知れぬバイトの身で勉強を続けるのは精神衛生上良くないと思う今日この頃です。一年前の飲み会では、蔵田君の、仕事をしながら勉強を続ける熱い覚悟を知りました。同じ道を、ぼくも早く選んでいれば良かったのかなという思考が、夜明けの夢のなかでしばしば僕の脳内をよぎります。この一年間、ぼくは成長できたのだろうか。会話のキャッチボールならぬ会話のデッドボールのみをいたずらに繰り返しただけではないのかと、反省しています。ああ、押し出しでどんどん点差が広がっていく。
 工大生君の修論のテーマは何だったのでしょうか。また、今ぼくはやむにやまれぬ直観により、数学と物理学と量子力学と「クラインの壺」に興味を抱いていて、それはほとんど恐怖を感じていると言ってもいいのですが、それらについてなにかご存知のことがありましたらお聞きしたいです。
 

(無題)

 投稿者:工大生  投稿日:2006年 2月 9日(木)21時36分10秒
返信・引用
  修論とおーりました。自分にはちょっと合わない専攻・研究テーマになってしまい、しんどかったです。会社に入ります。それでもアカデミックな研究に諦めつかなかったら、働きながら、どこかの大学の研究生・修士・博士に入ります。資格みたいのはいいから、そこでコツコツ研究をやらせてもらおうかなと考えています。
この掲示板で蔵田さんに会えてよかったです。仕事に関係あること・ないこと勉強する姿勢は見習いたいと思います。
松平先輩はまた『死霊』で論文を書かれるのですか?
 

失礼が好きです

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 1月28日(土)01時24分9秒
返信・引用
   知識人でも常識人でも、また、そうでなくても、ぼくは相手の目を見て胸を張って主張したいと思っています。ぼくは何度かサンタクロースをみかけたことがあるし、一度は神様に出会ったこともあるのだと。
 贅沢はしなくて、かつかつでもいいので、自分なりの思索を積み立て芸術について探求し、善と、世界のなかで自分だけが愛せる対象に、奉仕して生きていくことがぼくの夢かもしれません。しかし、その気持ちも明日にはどうなるかは分からず、人生という奴にやられてしまいそうで、ぼくはかなり困ってもいます。
 

突然ですが失礼します

 投稿者:halshino  投稿日:2006年 1月24日(火)00時58分0秒
返信・引用
  http://www.geocities.jp/mes_chansons/simamoto.html
ドリームラッシュ!!
あなたの夢は何ですか?
 

ご存じない方に解説しましょう。「将軍」とは僕の源氏名です。

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 1月15日(日)19時21分30秒
返信・引用 編集済
   修論×宗論×終論については、修論へと向けて、「魂」を主題とした雑文を書いたところだったからです。日本には、地獄や極楽、解脱、悟りといった概念がありますが、現代においてはアクチャリティーが薄いように思われ、また、キリスト教的な「天国」という言葉との差異が大きいようにも思い、そこには良くも悪くも「日本らしさ」といったものが関わっているのではないか、「生の終わり」はどのようなものなのか、そんなことを考えていました。
 偉い文学者さんの家に住み込みをして、玄関番をするという状況は、現代ではなくなった風習であったとしても、何か、ロマンを掻き立てるものがありますね。「外科室」はクライマックスが衝撃的ですね。「その声、その呼吸、その姿、その声、その呼吸、その姿。伯爵夫人はうれしげに、いとあどけなき微笑を含みて高峰の手より手をはなし、ばったり、枕に伏すとぞ見えし、唇の色変わりたり」という件です。「その声、その呼吸、その姿」を二度繰り返すところがポイントですね。勢いのいい、現代では真似のできない、七五調の文体の味が出ていますね。「義血侠血」は白糸の男気と、凛々しさに打たれます。お金を盗られたあげく、物取りに入って逆につかまってしまい、その白糸に、審問の席で、偽りを明かせと欣弥が迫ることになる、息をつかせぬ展開は凄絶ですね。正義と愛のために死んでしまうところは、ジャパニーズクールの持つ味であり、僕の感覚にはしっくりとくるものがあります。音丸さんのおっしゃる、「テーマソング」って、気になりますねー。「高丘親王航海記」は、枠組みとしては「ガリバー旅行記」を、ユーモアのセンスは北杜夫のものを、想起させられました。ここで展開されている、メタフィジカルな魂観と、夢に関する描写は、悪魔学と、三島の死を経過した後にたどり着いた渋沢の境地として、考えなければいけない重要なものを含むように思いました。
 最近は、ゼミで扱うので、柳美里の「八月の果て」を読みました。従軍慰安婦に関する問題がはらまれ、僕自身、靖国における魂の問題についてとあわせて、何かしら批評したい気がするのですが、まず、滑走路の準備から始めなければいけない類の問題作ですね。それから、公房の「箱男」を読みました。哲学的な議論が踏まえられて書かれたものであり、昔読んだときはよく分からなかったのですが、読み返してみると、わりと明晰に論理化できる所があるかなと思いました。思索の楽しみを味わえる小説だと思います。
 音丸さんのおっしゃる、「温故知新」は僕も重要だと思います。近年、若手の文学者に文学賞を受賞させる傾向が続きました。これ自体は、若い人でも文学の世界に入りやすくなり、また、多くの人の耳目を集めることにもなり、肯定されるべきことのように思います。人が生きていれば、その人の過ごした生はすべて、ある種の文学であると言えるかもしれず、フレッシュな血が導入されていくのはいいことだと思います。しかし、一方で、第一に、村上龍や、山田詠美の提供した文学のフィールド内で、似たものを再生産してはいないか、第二に、若手の文学者が古典に親しむ場合、一点集中の模倣になってしまっていないか、といった危惧も覚えます。「温故知新」をキーワードに、この状況を突破していく必要があると思います。
 音丸さんが作家のライフスタイル等の作家論的側面に興味をお持ちだというのは、どんな作家のどんなエピソードが好き等、何かありましたらおうかがいしてみたいかもしれません。さてさて、それにしても、人生、楽しんで生きるのが一番ですね。ぼくも、いろいろな映画を見るなど、適当にノンビリしたいかもです。
 

修論×宗論×終論 とはどういうイミですか?

 投稿者:otomaru  投稿日:2006年 1月14日(土)19時41分13秒
返信・引用 編集済
   こんにちは。
 松平さんは、基本的には周囲の方々が読まれているものをお読みになっているのですか。読書に関しての柔軟な姿勢は思考が柔軟な証拠ですね。私は薦められてもなかなか読めなかったりするので、こちらこそ尊敬&羨望です。サークルやゼミで研究をされているんですね。皆さん文学に関する話題が普段から言葉の端々にのぼっているんでしょうか。楽しそうですね(そんな生易しいものでもないですか)。プロの研究者さんとやり取りするなんて、凄すぎて気が遠くなります。
 文学をフレキシブルな言葉遊びから湧き出てくるものだとするご意見確かにそのとおりですね。忘れていたものに再会したような衝撃をうけました。真面目なものを真面目に文学するスタンスは何か違うというご意見も興味深いです。また、話をどんどん面白くしたい、というスタンスにも余裕が感じられます。凄いですね。
 新しい文学や、やり方はないか!ということは私も考えます。結論はなかなか出ませんが・・・・・・。私の段階では、とにかく温故知新!、旧いものに意識的に触れようとしてはいますが、まだまだです。たたいてくれる格上の人がいらっしゃるの羨ましい事です(叩かれようによっては、それが愛の鞭とは気付かず這い上がれない事もありますが)。
 鏡花の「外科室」、私も久しぶりに読んでみました。確かにありえない恋愛の仕方ですね。おそろしく気の強い夫人(おくさま)ですよね。22歳のときの作品でしたかね。紅葉に指導されながら書いたんでしょうか。鏡花は紅葉の玄関番をしていたんですよね。玄関番って、愉しそうで憧れたんですよ。鏡花の初期の作品なら、「義血狭血」が好きです。これもありえないし、男女とも死んでしまいますね。初めて読んだ頃はタイトルのイミも内容も判然とは解ってなかったけど、白糸の美しさと思い切りの良さが好きでした。「義血狭血」には私の中でテーマソングもあります(!)。
 来年の進路でお困りなんですね。まだ一年もあるとか、そおいう状況でもないんですか。私の今年の課題は・・・・・・、とにかく楽しむ事ですね!!本も沢山読みたいです。映画も行きたい!それこそフレキシブルに生きてみようと思ってます!(楽観的に過ぎますでしょうか。昨年はよく悩みましたのでね)。
 本は最近読んだのは澁澤龍彦の『高丘親王航海記』です。久しぶりに感動しました。お読みになりましたか?ラストに衝撃を受けたのと、親王が藤原薬子に寄せていた恋心のような母を慕うような気持ちにも唸りましたし、死ぬ前に書いたという澁澤自身にも尊敬せざるを得ないものを感じましたよ。
 松平さんは最近はどのようなものをお読みですか???
 

修論×宗論×終論

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 1月10日(火)22時38分9秒
返信・引用 編集済
  >ひいちゃん

うお。あけよろ☆ホントに来てくれるなんて嬉しいです。ひいちゃんの言語センスは一発にキレがあるよねって、前から尊敬してました。是非また一緒に飲んでやっていただければと思います。あと、エレの人には内緒だけど、などとぼくは言いましたが、訂正します。やっぱり特に内緒でもなく、あまり気にしないで下さい。むしろ広めたい。へどもどしちゃってすみません。

>音丸さん

 そのラインナップをお読みになるのなら、僕とかなり専門が近いですね。僕なんかは主体性がない人間でして、基本的には周りの人が読むものを、ぼくも読んでみようかな、というように、優柔不断にやってきています。いま音丸さんがお挙げになった作家のものも、サークルやゼミで扱っていて、例えば鏡花の「外科室」とか、こんな恋愛の仕方ありえないだろーとか、突っ込みどころ多すぎだよねとか、そんな風に盛り上がるやり方が好きでした。周りに、「おれは文学をやるぞ!ていうか、おれが文学だ!」みたいな気合の入った若い人がいないと、どうもテンションが下がってきてしまいます。そういった意味では僕は純粋に文学を楽しんでいないのかもしれず、音丸さんがお一人でそれだけお読みになっているというのはとても素晴らしい、羨ましいことだなと思います。
 最近は、学校で、プロの研究者さんとやり取りするような場面が多くなってきてしまい、勉強になるのですが、何か、「楽しんで文学する」という姿勢が失われてしまって、本当には何が自分は好きなのか、かなり混乱しているところです。文学というのはフレキシブルな言葉遊びから湧き出てくるものだと思うのですが、真面目なものを真面目に文学するスタンスは、何か違うと思うこともあります。話をどんどん面白くしたい、というのが僕のスタンスです。
 また、ぼくらの世代というのは新しい文学を、新しい思想を提出できていないではないか、何か、新しいやり方というものはないのか、ということを考えもしました。でも、恩義のある先輩に、君はもっと格上の人に叩かれた方がいいよ、と言われたことがありまして、最近はその言葉が身にしみて分かり、自分のレベルの低さ、能力のなさ、努力の足りなさにげんなりしています。被っていたベレー帽を地面に叩きつけるお笑い芸人のような、あるいは、夕食の乗ったちゃぶ台をひっくり返すお父さんのような気持ちに駆られるといっても過言ではないです。さしあたって来年の進路が決まっておらず、これが危急の課題でして、困っていますね。
 何か、この本がこんな風に面白かったとか、また、本とは関わりなく、自分にとってこんなことが課題だとか、なんでもございましたら、お気軽にお話しくださればと思います。
 

ご新規です

 投稿者:otomaru  投稿日:2006年 1月 8日(日)13時43分19秒
返信・引用 編集済
  はじめまして、音丸です。
この掲示板を少し読ませていただきました。高尚なお話処ですね。
松平さんは近現代の文学を愛していらっしゃるのですか。私も近現代の文学が好きです。漱石・芥川・泉鏡花・太宰・安部公房・村上春樹・町田康、あと澁澤龍彦。あまり高尚なこと書きこめませんが、立ち寄らせてください。
私の周りには、文学に関して話し合える人はいません。それに関しては静かな飢えを感じています。松平さんは文学の、どのようなところがお好きなんですか。私は作家のライフスタイル(詳しくないんですがなんとなく)に憧れを抱いているのと、純文学を読んでいると感じる「書かずにはいられない心の叫び」の真剣さにも心を打たれますし、脈々と積み重ねられるこの国の文化にそれぞれの文学が軌跡を残すことでさらに洗練された豊かな文化を生み出せるという大それたところも好きです。
松平さんは研究や小説をやめてしまうのですか。掲示板を読ませて頂いていると、勿体無い気がしますが。
 

将軍

 投稿者:ひい  投稿日:2006年 1月 7日(土)22時50分48秒
返信・引用
  とおりすがりのひいだよ将軍
おしえてもらったからサイトに現れた
またふとしたときに現れるね
将軍
あらためまして
あけこと
略しすぎた
またのもう!
 

はじめまして

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年12月20日(火)01時13分10秒
返信・引用 編集済
   どうもお書き込みいただきありがとうございます。絵と会話さんは、お元気にすごされていらっしゃるでしょうか。僕はこのところの寒さに震えています。寝床の中で目が覚めても、寒くて寒くて外に出る気がしません。「ぬくぬく、あー、ぬくぬく。もう絶対起きないぞー、ぼくは一生を布団の中ですごすのだ」と、縮こまっています。このところ、僕は髪が伸びてきて、散髪に行かなければいけないのですが、こんな状態では床屋さんに行くこともできないかもしれない。なぜ自然は人間存在を時間と空間の中に閉じ込め、否応のない変化へとさらし、定期的な散髪を行わしめざるをえない状況を設定するのか。そんなことを思ったり思わなかったり、寝床の中でしている今日この頃です。
 何でもお気軽にお話しくだされば、大変うれしいです。
 

法制度や共同体が、罪とし、恥とすることも、文学は「すべてよし」(キリーロフ)

 投稿者:絵と会話  投稿日:2005年12月17日(土)08時44分33秒
返信・引用
  わたしの多分好きな話を
しているように思います!
近いうちに、お話をさせてください。

今日は、これだけですけれど。
 

ダダのこね方

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年11月 1日(火)01時10分28秒
返信・引用 編集済
   なるほど、midoriさんのおっしゃることはそのとおりだと思います。ぼくはそろそろこの業界を去るかもしれません。研究をするにしても小説を書くにしても、尊敬する人に褒めてもらうとか、情を寄せる友人に楽しんでもらうとか、愛する人に微笑んでもらうとか、そんな結果が伴わなければどうにもモチベーションが落ちてしまうなと思いもします。生活費や授業料といった金銭的な面と、将来への不安という精神的な面が特に問題です。
 ぼくは、他人なり世界なりへの違和が、自分のなかにたまっていっていたのですが、文学をやるということは、それを発散するのに有効な手段だと感じていました。人間はしゃべらなければ生きていけない生き物だと思います。一方で、人の話を聞かなければ、話を聞いてはもらえないものでしょう。精神病の開放治療、といった面が、特に創作の世界においては見られるように思います。
 学校では、いじめるものといじめられるもの、そのSM的な世界がどんな教室でもみられることがあるかと思います。ぼくは中学生以来、学校という空間に、公衆の面前でレイプされる悦び、というものを求めてきたかもしれません。それらは、文学にとっても政治にとっても、本質的な何かなのではないのか、と思っていました。ぼくはそれが羨ましくて、そこへと踊りでようとしましたが、話題を作り続けることは大変です。適当なところで、ぼくも見物客に回りたいと思います。自己の存在価値を、他者との調和の中で、バランスよくつくりだせるか、それがうまくいくかどうかで、人生が幸福なものかどうか、決まるのでしょう。
 院に来て、自分の考えの杜撰さは思い知らされました。参加することに意義がある、といったような学部でのノリは通用しない。読むことは楽しいけれど、書くことは辛い、とハルキは言いました。プロというものはそういうものなのでしょう。重みのある言葉だと思います。人間にとって口説くこととその誘いにのること、ある言葉を発することとその言葉が受け入れられること、商品を売ることとその商品を買うことは、すべてそれぞれ近しいことであるのでしょう。それらの関係性を成立させるには、要領のよさと努力と、奇跡とが必要なのでしょう。
 それでも生きているかぎり文学は続くのでしょう。法制度や共同体が、罪とし、恥とすることも、文学は「すべてよし」(キリーロフ)とするものだと思います。
 midoriさんは何かしら、作品をお書きになったり、文学仲間なりをお持ちになったりなさっているのですか?
 

口説くのがへたくそな評論家は信用ならない

 投稿者:midori  投稿日:2005年10月25日(火)22時24分11秒
返信・引用
  いえいえ、私はただの松平さんの後輩です。
研究者の資格すらこれからです。
まわりから妙に作家になることを進められるので
(それすら言ってくれる方の願望で、お前に評価されたくないと言われていることとも同義です。
。)研究者としての才がないのかと落ち込むばかりですよ。

ニートにせよなんにせよ
命名することで一義的な安心をするのが人間というものでありましょう。
テレビも結局はある距離感を保った上での、娯楽ということを踏まえた上で
楽しみがあることを与える、そして受けるということが今の社会の中で真っ当とされるだけです。
綺麗な女の人は素敵なことです。
素敵な言葉を世の中に表す詩人も素敵なこと。
それだけだと思います。
空気を読めないなんて、価値が一転することはままあるでしょう。

私がただ思うことは、自分に被害者意識があるかぎり研究者にはなれないなぁということです。
 

追悼・見沢知廉

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年10月21日(金)05時01分42秒
返信・引用 編集済
  なるほど、midoriさんはそのように『死霊』を読まれたのですか。ある芸術作品からどのような感銘を受けるのかは人それぞれであり、その幅はしばしば驚くほどで、それでも客観的でありうるような批評を書くにはどうすればいいのかということは大変難しい課題だと悩んでおりました。今、『死霊』を読み返していたのですが、政治は実はあまり関係なくて、むしろ、ボケたおしの仕方を見習わなければならないのかなと、奇妙に反省しているところでした。
 Midoriさんは研究者さんでらっしゃいましたか。すばらしいですね。何の研究をなさっているのですか?どうもそれともしらず、大変失礼いたしました。ぼくは研究者をめざしていたのですが、このところ雲行きが怪しくなってきました。学校では空気を読めず叱られ、職場では馬鹿にされ、家に帰れば親にニート扱いされて無視される。街で美しい女の人を見かけるたびに、ふらふらと近寄り、声をかけて口説いてしまいそうになる欲望をおさえにおさえて、ただひたすら孤独に考える単細胞として部屋にこもり勉強をしてきましたが、ぼくのハートはすでに血みどろです。ニートという言葉を作った奴を殺したいです。このサイトもいつのまにか消失しているということがあるかもしれませんが、そのときは、松平は新たな世界に旅立ったのだとお考え下さい。
 ところで、異性とは映像であるとぼくは思います。さらに、セックスとは触覚を伴う映像ではないかと思います。三島の『金閣寺』はなかなか美というものについてうがった問題提起をしている。映像は人間を捉えて容易にはなさない。そして、映像に基づく芸術作品が、人を強烈に惹きつける力を持つのも必然だと思います。テレビにはしばしばアイドルであるとか女優であるとか、綺麗な女の人の映像が映る。その映像がぼくに与える圧迫感と劣等感に耐えられず、ぼくは一切テレビを見ません。
 これに対比して、小説とはなんであるのか。ぼくは、文学とは真善美の融合であり、「永遠への憧れ」だと思います。文学が映像に勝つのは、真と善においての他はない。そしてまた、文学は、うつろいきえゆく刹那のものでしかない映像というものに、背反するものである。ぼくはそんなふうに考えています。
 

むつかしいことを話したい訳ではないのです

 投稿者:midori  投稿日:2005年10月12日(水)03時02分23秒
返信・引用
  今晩は。
大人になりきれないまま、私もうっかり暮らしています。
私のことを優しいなんて言ってくださって、ありがとうございます。
そんなことはない、と悲観するつもりもありませんが胸は張れません。
全然。ひどいこととか沢山言ってしまいます。


さて、『死霊』についてですが、欺瞞を感じること、確かにと思います。
蓋をしてはならない。
埴谷の他の部分を楽しむ者は考える義務があるのかもしれない。極端に言えばですが。
松平さんはどう思われるかわかりませんが、
私は『死霊』を初めて読んだときに、
考えること、そのものが生きることとなっても過ちではないと感じたことが非常に衝撃的でした。
埴谷を神と仰ぐ気持ちは全くないけれど。
私は、小説とは何かということを、わからないのに手探りで知りたがりでした。
映画にも音楽にも視覚的なアートにも負けたくなかったのです。
そんなことを言うと私の程度の低さが露呈されますが、
自信を持って言えることがないくせに只々思うばかりです。
おのおのに素敵なところも享受しているくせに。
でも、自分が気の利いた文章を書く作家でもなく、
まだまだ研究者としても伝え方が確立しない最中
『死霊』を読んでくらっとしました。


空をつかむよう物言いでごめんなさい。
私の文学論はまだ此処には記せません。
松平さんが近くにいたら畏縮していたかもしれません。
松平さんは文学をやめるのでしょうか?
そんなことは全くなければごめんなさい。

小説とはどんなものですか?
究極の質問、答えでなくて構わないのでなにか聞かせていただければ嬉しいです。
 

フチュウ天命反転サイト#私は 死なないことに 決めた

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年 9月25日(日)01時37分53秒
返信・引用 編集済
  >midoriさん
 丁寧な、心のひだに入り込む、きめのこまかなアドヴァイスを、どうもありがとうございます。midoriさんは優しい方でいらっしゃいますね。会話の途中で、「でも」という言葉をさしはさむことには、ぼくも心当たりがあります。ぼくもそんな子供でした。「でも」「なんで」「どうして」を繰り返して、大人を困らせてばかりいました。そのころ、ぼくにとっての疑問の中心は、なぜ人は生き、なぜ人は死ぬのかということと、なぜ勉強をしなければならないのかということでした。大人になったいま(ぼくは自分のことを大人だとは思っていませんが)、大人自体、そのことがあまりわかっていなかったのだろうなと、何か安心した気持ちになりはじめました。
 さて、大人と大人の関係でも、大人と子供の関係でも、心を開かなければ他者を動かすことはできない、ということがあるかと思います。そのことを踏まえたとしても、しかし、対人関係において、そして自己と世界との関係において、他人とのあいだで、傷つけあわないような、適度な距離をとれるようになるために、ある種のアイロニーの意識をもつことが、子供が大人になる過程で、必要となってくるのかもしれず、その結果としてほとんどの人が、この「なぜ」という言葉を封印してしまうようになるのかなとも思います。
 「読み手の政治思想がどうであるかが大きく反映する」というくだりに注目なさったのはお目が高くてらっしゃいますね。ぼくは学部のゼミや、サークル活動の中で、何人かの先生と学生に、『死霊』と現実の「政治」は無関係ではないか、との指摘を受けました。ぼくはそれが不服でした。何か、臭いものにフタをしているかのような欺瞞を感じ、あえて、アンチテーゼとしてその文句を盛り込みました。ぼくの政治思想はちゃらんぽらんで八方破れのものですが、midoriさんは何か、政治について考えるところがおありなのでしょうか。あるいは、それとは別のこととしてよろしいのですが、最近読んだ面白い本なり、関心のあるニュースが何かございましたなら、教えてください。

>旧知君
 孫悟空とピッコロは敵どうしであった。しかし、べジータを共通の敵にすることにより、二人は仲間になった。ベジータと悟空は敵同士であった。しかし、フリーザを敵にすることにより、悟空とベジータとピッコロは仲間になった。これらが繰り返されることにより、ゼット戦士たちは誕生した。限りなく続く螺旋の戦いの果て、悟空は死んでしまった。
 ぼくは弁証法と価値形態論についてぼくなりに考えていましたが、人気アニメ『ドラゴンボール』から引用することで、ぼくの言いたいことを、こんなふうに簡単にいいかえてもよろしいかもしれません。
 しかし、旧知君の指摘にはぎくりとさせられました。ぼくは自分が嫌な奴であること、口が悪いこと、自己中であることに辟易していますし、他人にご迷惑をおかけするぐらいなら、首をくくってしまいたいとも思います。何か、もっとぼくに対する批判があれば、お聞きしたいです。すでに刀折れ、矢もつき、奇跡の力が世界を革命しない限り、来年には他の業界へと敗走してしまうかもしれないぼくですが、一方で旧知君はこれまで旧知君が作り上げてきたワークの総体というものをどう自己評価なさっているのか、どのような美意識をお持ちなのか、あるいは、旧知君は自己の将来を、どう組み立てていきたいとお考えなのか等について、うかがってみたくも思います。
 さて、古来より、詩と散歩は、手に手をとりあってすすむ、似たような側面を持つものだと評されてきました。説明的文章が一つの主張に主題をしぼり、具体例と引用を重ねることで、説得的な論を積み立てることを目指すのとは異なり、抒情詩は、特定の実用的な目的地へといたることをめざした統一的な行動をおこなう、商用の旅行のようなものではありません。ビジネス旅行では簡潔さと確実さが求められますが、抒情詩は、踏みしめた地面が返す反響を身体で受け止め、体内の微細なリズムを感じ、周囲をぼんやりとながめつつ内的な夢想をおこなう、歩くことそれ自体が目的である、「散歩」に比せられます。散歩においてゴールの旗は、すでに出発地点に立っています。外部への行動のアウトプットと、外部からの情報のインプットをもっとも素朴な形で行うことにより、散歩はその過程において、精神的な統合を行いなおす行為ともなります。それは矛盾自体であり、無駄自体であり、生の過程の全体ではないかとも思います。ぼくは「知的交流」という看板を取り下げてもいいと思っています。ぼくはこの場に散歩を求めていますし、どなたにでも、散歩的な文章を気晴らしに書き込んでいただけたら嬉しいと思っています。
 

ひとことふたこと

 投稿者:旧知  投稿日:2005年 9月19日(月)10時53分5秒
返信・引用
  突然のカキコ失礼します。
あえて難しい書き方をしているのは、そういう書き方しか出来ないのですか?
それとも、「難しく書く=知的」とお考えですか?
それとも、この程度の文章は、難しいとは言わない。と知的を装いますか?
本当の知的とは、誰が見ても分かりやすく書けることでは、ないですか?

さて、目上の方と問題を起こす件、貴公は幼少の頃からそんな風でしたね。
それは、”常に戦争状態”ではなく、他人を馬鹿にした自分の意見を正当化しているのでは
ないでしょうか?また、年配者に限らず、怒られてへっちゃらな顔をしているのも、
相手にとっては非常に不愉快です、自分の話を聞き入れられていない感じがして。

貴公が年配になった時、20代の若造に今の貴公と同じ発言をされたらいかがでしょう?
今、10歳の子にへこまされたように、また、へこまされるのでしょうか?

時間がなく、思うがままに文を考えずに書き込んでしまい失礼。
私には、貴公の思う「知的交流」の域の書込は、出来ません。
ただ、大人になるにつれ徐々に変わっていく貴公の性格に「お前は、本当はそんなヤツでは、無いだろう」と
一言いいたく、今回カキコさせていただいた。不快であったら失礼。削除願いたい。
身分を明かさないこのカキコ、重ねて失礼。
 

ひと月ぶりでございます

 投稿者:midori  投稿日:2005年 9月18日(日)00時59分39秒
返信・引用
  随分と間が空いてしまいましたが、お返事有難うございます。
バイトいかがですか?
お忙しい日々を過ごしているのでしょうか。

さてさて、十歳程の子供に言われたくだんの発言。
そりゃへこみますねぇ。
私が松平さんの書き込みなどの発言をお見受けするかぎり、
饒舌になることも、他者とのコミュニケーションを考えてのことかと思います。
うまく関係を収めることでは聞こえない、相手の真意を引き出すことも
一つの能力ではないでしょうか?
私は昔、会話の途中で「でも」と相手にちゃちを入れることをよく叱られました。
子供がそれをやると、駄々をこねているようで見苦しかったのでしょう。
女子なのでなおさらですね。
しかし、概ね相手の考えていることを理解しているという自負があったとしても
確認しなければ、僅かにずれたまま走りつづけて、戻ることが出来なくなるのはよくあることのように思います。
二本の並行に並ぶ線路がまったく別の目的地をもっている様に。
思いをくむことも悪くはないけれど。
発言しないことが、ある立場を際立たせる場合と、
わからない、若しくは興味が薄いと印象づける場合がある、といことに自覚的でありたいと思います。
なんとかもう少し素敵にできないものかなぁと模索しています。

十歳の子も、心のどこかで松平さんに”言ってやった”という思いがあったんじゃないでしょうか。その子もそのような事を言うに至るまでに、自分の中での葛藤があってもやもやしていたのなら、言う権利はあるし、松平さんの心を波立たせ、こちらも考える。真っ当なことではないかしら。
かといって、子供の目線に立って・・・なんて言うのも違うかなと思います。
私は教育者の端くれでもないので、何も言えませんが
悪意のないことが伝わり、言いたいことが互いに言えれば「子供を子供だとして」見ること自体は悪くないと思います。
親切で監視して嘘臭いより子供ものびのびするのではないでしょうか?
何卒、頑張ってください。


『死霊』論に関して。
どうお返事しようかと考えているうちに、どんどん時間が流れてしまい、
また後日・・・、と言いたいのですが。
松平さんの基本的な読みの緻密さと、社会的な見識は素晴らしいなと思います。

結局『死霊』をどう評価するかは読み手の政治思想がどうであるかが大きく反映する。

このくだりは考えさせられるなぁと。
もし仮にそうだとしたら、『死霊』の物語世界って一体何なのでしょうね。
まだまだ勉強が足らないけれど、考え続けます。

ではまたお話しましょう。
高尚なことは言えないけれど。
今夜は月がきれいで秋だなー
 

はじめまして

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年 8月16日(火)18時23分17秒
返信・引用
  >midoriさん

話しかけてくださって、ありがとうございます。Midoriさんはどんな方なのでしょうか。自分はこんなことに興味を持っているとか、最近、こんなものがこんなふうに面白かったとか、あるいはまた、ぼくの『死霊』論をどんなふうに読んだとか、何かございましたなら、何でもお気軽に教えていただければ嬉しいです。ぼくに関していえば、この夏休みは、前半はバイトばかりしていました。このところは毎日高校生レベルの英語の勉強をしています。疲れたら、漫画喫茶にいってぼんやり漫画をながめます。この夏で、ある程度英語が読めるようになることが目標ですが、難しいところがあるようです。一分一秒を惜しんで勉強しなければと思います。

 ところで、ぼくはよく目上の方と問題をおこします。学期末も大学の飲み会で、場をしらけさせてしまいました。これはぼくの性格なのですが、ぼくは、常に自分が戦争状態におかれていなければ、勉強をしたり、努力をしたりする気になれないのです。お互いに切磋琢磨をしあい、能力を伸ばしあうためには、ある程度の緊張関係というものも必要だと考えます。そんなわけで、年配のかたに怒られても、割とへいちゃらな顔をしています。
 しかし最近、十才ほどの子供にえらくヘコまされました。その子に、松平は「口がすべる人だ」という旨の指摘を受けたのです。その言葉を、その言葉へと導く経緯がいろいろとあったのですが、それは、ぼくを猛烈に打ちのめす言葉でした。その日以来このところ、毎日悪夢を見ます。ゆうべも、その子が夢の中に登場し、ぼくの隣にたたずんでいました。その子は、ぼくの、「子供を子供だとして侮る心」を見抜いていました。そして、ぼくの焦りと劣等感に由来する、自己中心的な、自分だけで楽しむぼくの言葉を、正面から打ちすえました。
 言葉とはつねに他人との関係のなかであるものなのでしょう。言葉とは対他的な「場」でしか成立しないものなのでしょう。しかし、語り手と聞き手の間では、常に潜在的に支配と服従の関係が成立するものなのでしょう。それでも他者の前で、無理にでも発話というものを行わざるを得ず、そしてその発話が、他人にとって肯定され、また、自分も楽しめるものを目指さなければならないとき、どんな言葉なら、物語なら共有されうるのか。
書き言葉というものは、話し言葉にくらべて、「場」というものを飛び越える性質があるかと思います。そして、空間的、時間的に「場」というものを押し広げることもあるかと思います。一方、この書き言葉の世界では、対他的な緊張感というものが薄れてしまうこともあるのでしょう。内面は膨張します。書き言葉の世界において、人間の自意識というものは、牛が青々とした草原で草を食むように、肥え太ることもあるかと思います。そこで、「文学」というものを、もしやろうとするとしても、対他的な「場」をくぐりぬけ、濾過されたものでなかったとしたなら、その「文学」はたいした魅力をもちえないものとなるのでしょう。この掲示板にしろ、他のことでにしろ、どうもぼくは「場」をつくるのに失敗ばかりしているなと反省しています。

 何かありましたなら、どなたでもどうぞ。
 

はじめまして

 投稿者:midori  投稿日:2005年 8月 6日(土)23時45分10秒
返信・引用
  松平さんの死霊論など参考になります。
日々過ごしながら文学について享受する側以上のことを考えるのは、
それだけの労力がかかると思いますが頑張ってください。
これは皮肉でもなんでもなく、本当にそう思うことです。
 

UREEEEEE!

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年 7月 7日(木)07時09分48秒
返信・引用
  退屈です。誰か何かしゃべってください。  

(無題)

 投稿者:\  投稿日:2005年 3月20日(日)16時04分38秒
返信・引用
  \

http://plus1.websiteallies.com/soc/

 

結婚しなさい、あなたは絶望するだろう。結婚しないでいなさい、あなたはやはり絶望するだろう。

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年 3月12日(土)02時51分1秒
返信・引用 編集済
  >蔵田君
なるほど、確かにあなたのおっしゃる通りかもしれません。御意見参考にさせていただきます。また、主要紙を全部取るのがベストではあるのでしょう。

>通りすがりさん
 ぼくはほとんど真ん中でした。一マス右よりで、一マス自由論者側です。回答を考えるだけで疲れますね、これは。具体的な生活の場面で、道徳的判断を政治的観点から把握するのはしんどいですね。現実がどうであるかという認識と、自分の意志がどうであるかは別の問題で、何かその面で割り切れない気持ちが残ります。

**************************
1そのツケ一挙に押し寄せて#大学院棟の部屋でごそごそする。森島稔氏やその他の先輩のあんなものやこんなものを発見し、襟を正す思いがした。勉強をせなあかん。くそう。
2#小学生の頃、自分はなぜ障害者じゃないのだろうかとよく考えていた。自分が障害者であったら良かったのにと、ぼんやりと夢想し、ひとりで勝手に泣いていた。そしてぼくにとって障害者差別の問題と美の問題は、二つで一つの問題となった。

 親を憎んでいた。気になって気になってしょうがなくて、他の事にまるで手がつかなかった。しかし、不幸な家庭というものは、みなそれぞれの形において不幸なのだと大学で学んだ。それは変人が多いとも言われる法政の、愛すべき特徴でもあった。カウンセラーになりたい、人間の悩みと関わるのが文学の役目だ、とも思っていた。しかし、今はそれほど、そうも思わなくなってきたかもしれない。

山女 禁色だとわかってあえて踏み込む?バカな奴だな、勝ち目はないぞ。
せっか 他人が花だと言うものが花である。
瀬芹 男は世に傷つき、女は世に汚されている。
出水 大切な人が人質に捕られたらどうすればいい?そいつを殺し、次に犯人を殺せ。
重一 目を閉じ耳をふさぎ、口をつぐんで生きていこう。
こるり まだ、足りない。
 

(無題)

 投稿者:通りすがり  投稿日:2005年 3月10日(木)13時51分44秒
返信・引用
  ttp://www.politicalcompass.org/
これ面白いですよ、自分の政治的ポジション測定。
私はちょとだけ左よりのディープなリバタリアンでございました。
サイト名+日本語とかでググると翻訳してくれてるとこが見つかると思うんで英語読むのが面倒になったときにはぜひ。
 

新聞の読み方(続き)

 投稿者:蔵田浩之  投稿日:2005年 3月 3日(木)22時24分35秒
返信・引用
   うーん、すげー読みづらい(苦笑)。すみません。
連続で投稿するのも恥ずかしいんですが、一生懸命書いたんでご勘弁を…
文量に制限があるみたいなので分割いたしました。
以下続きです。

 随分長くなってしまいましたが、病み上がりで偉くテンション高いのでもう少々お付き合いください。
 僕が朝日新聞をある程度評価している主要な点として、数々の知識人達のコメントや文章を気軽に読むことができるということがあります。思いつくままに挙げても、大澤真幸、上野千鶴子、大江健三郎、島田雅彦、芥川賞受賞者のコメント、金子勝、リービ英雄、金森修、佐倉統、丸谷才一、津島佑子、赤坂真理、高橋哲哉、ボードリヤール、石田衣良、川上弘美、山下洋輔、田中克彦、松山巌…松平さんが挙げた呉智英も時々文章を載せています。まだまだいくらでもいるのですが、このように挙げ連ねてわかることは、新聞とは言うなれば権威ある掲示板でもあるということです。もちろんこの場合も何らかの「管理」が存在することは否定できません。しかし、これだけの人間の文章が掲載されているのにも関わらず、「朝日新聞は…」と言った類の単純化、一元化された批判はやはり弱々しいと言わざるを得ません。
 
 最後に松平さんへの応答として。新聞が商売であるということはそのとおりだと思うのですが、そのことはそのまま出版界や古典にも広がる広範囲な射程を持っていると思います。同様にテキストの政治性は、新聞だけに当てはまるのではなく、古典にこそ当てはまる問題であるように思われます。大分長いので問題提起的に終わろうと思います。ちなみに僕、社説ほとんど読みません(汗)。

 

新聞の読み方

 投稿者:蔵田浩之  投稿日:2005年 3月 3日(木)22時16分55秒
返信・引用
  19日の飲み会は大変楽しかったですね。おいしいお店でしたし。私の方こそ少々飲みすぎてしまいまして反省しておりますですよ。誕生日、おめでとうございます。

正直に告白しますが、私、朝日新聞をきちんと読むようになったのはたかだかここ1年ほどなのです。だから立派なことを言えた義理じゃないんですけどね。一人暮らしを始めて間もないころ(この頃はパソコンもなかった)そのあまりの寂しさに耐え切れず、せめてもの慰みのつもりで朝日新聞を購入することに決めたのでした。
なぜ、朝日新聞だったのか。確かに僕の実家は朝日でしたから、これは簡単に家庭の影響だと説明ができるかもしれません。しかし、始まるきっかけについては僕自身あまり関心がないので、ご想像におまかせします。少なくとも、新聞各紙を読みあさり、その中からベストな一紙を選び取るというような手間のかかる作業をしなかったのは事実と思われます。それより問題は、ダメならばやめればいいということにつきます。松平さんはだからこそやめたわけですし、私も自分の立場を固定する気はまったくないのです。
ただ、少なくともこの1年読み続けてみて、読みたくないと思ったことは一度もありませんでした。むしろ非常に貴重な知的媒体であると確信しています。もちろん、さまざまな批判があることは知っていますし、そもそも批判的な検証をすること自体は大切なことと思っております。ちょっと古いがサンゴ事件であるとか、本多勝一氏の問題であるとか…ネット上では、より左翼的な立場からの朝日批判も存在するし、右寄りだが手厳しい批判もあり、それ自体は大変有意義な試みであると考えております。
少し新聞の特性について書いてみることにします。様々なテクストの中で新聞が持っているおそらく最も明白な特徴は、記事と記事との間になんの関連性もないということでしょう。
一面を広げてみて、目に飛び込んでくる活字と写真が入り混じった風景を描写してみることにします。日本語は右から左へ、上から下へと読め、という権力に従い、右側上部にまず目を向けます。そこには「堤氏きょう取調べ」の大見出しがついています。しかし、そのすぐ左隣には、「元院長免許取り消し」という見出しが打たれており度肝を抜かれます。その下には小さな文字で「富士見産婦人科病院事件」の解説が展開され、紙面のほぼ真ん中には「『郵政』成立へ大幅延長」。次に左部分に目を向けると今度は特集「病院が変わる」、そして手術中と思われる写真が大きく掲載されています。最後に最も卑しい下の方に目をやりますと、天声人語がやたらほっそいスペースにはめ込まれていて、さらにその下には広告が載っている(以上3月3日木曜日の朝日新聞朝刊の一面)。
一面だけみてもこの無節操さ(笑)。私自身は、これだけのレトリックが駆使されており、様々な分野の断片がこれでもかと自己主張していることの意味を小さくないと考えているのですが、逆に言えば、この統合失調な相手に向って、(新聞というメディアそのものではなく、朝日新聞という個別具体的な情報源に対して)どんな批判をするのか一断片としての一記事ごとに考察しなければ、なかなか説得力が生まれてこないと言っていいのではないでしょうか。もちろん、編集方針なるものが存在するわけですし、朝日の方向性そのものを批判する場合、その批判が成立することに反対はしません。政治家による事前検閲は法律上許されませんが、編集者による事前編集については権利ですらあるのでしょうから。そして、この立場から私は読売、産経、その他の新聞、雑誌に掲載されている記事そのものについて全て読む価値なしとは当然のことながら考えていません。朝日だけでは足らないことを重々承知しながらも、時間その他の都合上やむを得ず取捨選択させてもらっているにすぎません。ただし、個人的な意見として読売新聞の社説については個別具体的に反論があることを明確にしておきます。
 

生物多様性条約

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年 3月 3日(木)09時41分3秒
返信・引用
  >通りすがりさん
 「分野を超えた知的交流を」に目をとめていただきありがとうございます。通りすがりさんのおっしゃる疑問はまったく正しいです。
 「営業力は人間力」というところに社会の実相があります。それを決して忘れてはならない。ぼくは企業という営利組織において、必死に仕事をする人間が好きです。貨幣獲得のために組織的行動を統制的に行い、皆で働くということ、それは大変重要でなことであり、素晴らしいことでもある。三日間一緒に仕事をすれば、その人間がどのような能力者かということは、ほぼ分かるものかと思います。ぼくは常に資本主義者であってきたつもりです。だからこそ学部時代、大学のレジャーランド化の批判を行なったりなどもしました。より仕事に対してひたむきな人こそが、多くの報酬を受け取るべきであり、それが平等ということではないかと思います。
 一方、学部時代、ぼくは「日本文学を読まないものは差別すべきだ」というキャンペーンを張りました。一度そんなことを言い出してしまった責任上、ぼくは五回生の、四年になっても就活を行えなくなりました。息も絶え絶えな状況で、院にすべりこまざるをえませんでした。法政の問題へとコミットした学部一年の夏の時点で、ぼくのこの大学への七年間の在学は決定されていたのかなとも思います。しかし、来年度で法政をようやく卒業することができそうです。院でやるべきことは、後片付けと下準備なのだと位置づけています。

>蔵田君
 「レフト・アローン」面白そうですね。この前の飲み会ははしゃいでしまい、ついつい飲み物食べ物の注文もしすぎてしまいました。反省しております。誕生日が近かったので、内心自分で自分を祝っておりました。
 さて、蔵田君、ぼくは決して朝日を嫌っているわけではないのです。朝日に対しては様々な屈折した思いがありますが、とりあえず、一言で語れることだけを語りましょう。
 以前ぼくが管理人をしていた掲示板で「朝日フリーク」なぞという人に書き込みをされたことがありました。それは政治的なアジテーションのものでした。ぼくがフーコーを褒めた後の状況でしたが、「フーコーなどはうす甘い、この朝日のラディカルさ、素晴らしさをとくとみよ」といった内容のものでした。朝日はそんな読み取り方が可能なのかとぼくはびっくりしました。プロの運動家のものと読めるその書き込みに対して、ボケ倒しに自信のあるぼくでしたが、ボケ負けせざるをえませんでした。
 一般論ですが、その人の生まれた家庭でどの新聞が読まれていて、どんなテレビ番組を見るのか、それがある程度、その人の政治思想を決定してしまう部分があるかと思います。また、呉智英ではありませんが、新聞というものも、報道の真実というものではなくて、商売でやっているのだ、ということもあるかと思います。読者が望む情報を売り、お金を稼ぐことが新聞社の運営目的ではないでしょうか。
 政治とは多を一へとまとめる機能です。政治の本質はここにあり、国民が選択できる政治思想は、いくつかの新聞の形態におさめられる以上のものではないのでしょう。代表制による民主主義社会では数個の政治思想があればそれで事足り、個人が政治思想においてオジリナリティを持つ必要はない。個的であることと政治的であることは、本性上背反するからです。新聞の社説をよく読んでいて、それが自分の文章を綴るときに盛り込むことができるようなら、その人は有能だといえるでしょう。
 さて、「聖教新聞」「赤旗」「前進」などでも、それらの新聞を購読しているかどうかが、組織の内と外とをわけたり、「勉強している」かどうかの重要な基準となっているように見受けられます。新聞は組織に思想的統制を与えるための手段ともなります。フランス革命というものも、新聞が起こしたという面があるようです。しかし、それでも、そのような新聞では革命の指導者のみの文章がのっているわけです。書き手と読み手は支配と服従の関係へと絶望的に分断されている。埴谷は真の革命が果たされた社会では、あらゆる市民の投稿した文章が新聞にのることになるだろうと述べています。これは、あるいは、インターネットを予言したものかもしれません。

************************
昨夜、ふと時子から手紙が届いた。
「あなたは自分だけが孤独だと思っていない?人間は誰しも皆孤独なものです。ああ、この人も孤独なのだと、許してやってくださいな。」
確かにその通りだ・・・。
 

(無題)

 投稿者:通りすがり  投稿日:2005年 2月28日(月)16時45分43秒
返信・引用
  松平さんは大学4年のとき、進路の選択肢として就職はありました?それとも進学だけでした?いま院2年になろうとしていますけど、就職は選択肢にないですか?松平さんは勝ち負けにこだわるタイプだから営業とかやったら活躍できるだろうなと思っていたりしたもので。
 

恋と革命

 投稿者:蔵田浩之  投稿日:2005年 2月27日(日)23時06分17秒
返信・引用
  19日の飲み会お疲れ様でした。今回の飲み会、私としては大変意義深かったと考えております。特に工大生さんには期待大であります。松平さんが落ち着いたら今度ぜひ。

表現の自由に関して。松平さんの意見は大変まっとうなものだと思っております。テレビ、新聞とも拒絶するという松平さんの姿勢は結構衝撃だったかもしれません。やっぱり古典ですかね…大変だけど。

スガ秀美出演のドキュメンタリー映画『レフト・アローン』観てまいりました。いわゆるニューレフトの歴史について、何人かの批評家との対話を通して描いていく、という映画でした。いやぁ、それにしてもすごい人。立ち見の人々がぐるりと椅子を取り囲んでしまっていて、一旦座ったら便所にも立てないほど。驚きました…でもなんだろな、この違和感。
工大生さんの「なぜ、群れるか」というような反発に近かったかもしれませんねぇ。とはいえ、映画自体はまずまずの出来だったのではないでしょうか。早くてよくわかんなかったけれども。来週金曜まで『パート2』をやってるみたいです。

うーん、どうも風邪のせいもあるけど「書く」エネルギーが不足気味です。

で最後に松平さんの嫌いな朝日新聞からの引用で締めてみる(笑)

「男らしさや女らしさ、家族、国家…と、自明のことと思われているものがじつは制度にすぎないんだと、次から次へとあたりまえのことを壊していくのはいいけれど、じゃあ、壊したあとどうしたらいいかも教えてください」

 

求めよさらば与えられん

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年 2月18日(金)07時08分23秒
返信・引用
   話題提起ありがとうございます。サイードもフーコーも、手があいたら集中して読んでみたいですね。ただし、放送法についてぼくはよく分からないです。「1.公安及び善良な風俗を害しないこと。2.政治的に公平であること。3.報道は事実をまげないですること。4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。」というのが放送法の内容にあるそうですね。しかし、厳密に考えればこんなことはどれも不可能だろうとも思います。なんだか建て前のようなものじゃないかという気がします。もちろん、民主主義システムにおける法制度というものと、大衆が放送に対して欲望するものとのせめぎあいの問題や、いろいろな組織間のパワーバランスの問題等、細部を見ていけばいろいろな論点が浮かび上がのでしょう。
 ところで、テレビで行われている政治に関するコメンテーターの発言というものは、ぼくにとって聞くに耐えません。北朝鮮や韓国に関する報道もその一例なのかと思いますが、「政治的中立」というものは決してありえないものでしょう。ある情報を他の情報に対して重要だと判断し、選択すること、既にその時点で政治的要素というものは関与せざるをえません。各番組・各新聞の編集者がどのような政治思想を持っているかが、情報の識別の時点で介入するものだと思います。
 ぼくの韓国人の知り合いが、日本では北朝鮮の情報が随分流れていると、驚いていました。韓国では報道されていない情報が多くあったようです。韓国では、北朝鮮では、アメリカでは、イタリアでは、それぞれ「放送法」にあたるものはどのように設定されているのか、疑問に思いもします。
 同時に、そこでそもそも、ジャーナリズムで北朝鮮や韓国に関する報道が流されること、そして、日本人のほとんどの人がそれを知識として知っているということ自体が、良きにつけ悪しきにつけ、日本におけるナショナリズムというものの完成された形態を示しているのではないのかと、逆説的に考えもしています。ぼくは近頃、ナショナリズムとは思想ではなく、人が吸う空気に近いような、前提となる制度なのではないかと思っています。そして、このナショナリズムの成立を可能にしているものの一つが、テレビと新聞なのではないでしょうか。インターネットとネットにおける表現とは、これに対する新しい挑戦者なのでしょう。
 ぜひ、NHKや放送法、表現の自由に関する蔵田君の考察が何かあるようでしたら、お聞きしたいです。
 

表現の自由について

 投稿者:蔵田浩之  投稿日:2005年 2月13日(日)22時29分16秒
返信・引用
  おお、いいですね、飲み会。ぜひとも参加したいと思っております。松平さんと実際に会うのは3年ぶりくらいでしょうか。よろしくお願いします。

 それにしても、松平さんの考察は大変興味深いですね。ちょっと前に書き込みされている自我論にしても相当考えを深められているように感じます。安吾の引用文については、私の方こそ松平さんの指摘にはっとさせられました。政治と文学という切り口は非常に魅力的ですね。
 今たまたま『オリエンタリズム』を読んでいるのですが、サイードも文学に侵入する政治性というものに着目していますね。フーコーのいわゆる言説(ディスクールって奴)という概念ですが、最近話題のNHK番組に対する政治介入を考える上でも参考になるかもしれません。
 以前から感じていたことではありますが、ずばり表現の自由ということについて、考えてみたいと思うようになりました。もし、興味があれば松平さんや皆さんにも考えてみてほしい、と思います。まず、切り口として「政治的に中立公正な放送」を求める今の放送法について、どのように考えるべきでしょう?
 この点、「政治的に中立であること」という概念は大変あいまいであることは言うまでもないと思われます。厳密に捉えようとすれば、政治から遠く離れた番組や表現であっても「中立」であるかどうかは断言できません。我々はどっぷりと近代資本主義的価値観に浸っております。では、「中立」という言葉は何の意味もない空虚な概念にすぎないのでしょうか、それとも、埴谷の言うような意味での豊穣な「不在」を指しているのでしょうか。
 本当ならもう一歩進めて、最近のインターネットにおける表現の自由についてこそ考えてみたいテーマなのですが、時間がなくなってしまいました。また時間ができたらぜひ語らせてください。

19日たのしみにしております。それでは。
 

「知的交流を、飲み会」

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年 2月 5日(土)16時50分2秒
返信・引用
  1#「知的交流を、飲み会」を開こうと思います。この掲示板をごらんの方は、どなたもお気軽にお越し下さい。2月19日(土)17:00時に法政大学市ヶ谷校舎、図書館前ベンチ集合で、お願いします。遅刻しての参加になる方、詳細を尋ねたい方は松平までメールを下さればと思います。もちろん、この掲示板を閲覧なさる方どうしでは接点も少なく、こういった漠然とした企画では参加しずらいかとも思います。でも、普段あまり松平と話したことのない方も、面識のない方も、知的なことや変わったことに興味のある方は、どなたもいらっしゃっていただければ嬉しいです。
2#新規更新
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/yamame/sub44.html
 

今年もよろしくお願いします

 投稿者:松平耕一  投稿日:2005年 2月 5日(土)16時40分21秒
返信・引用
  >蔵田君
いつもまっすぐで誠実な蔵田君の姿勢には、つくづく頭が下がる思いがします。野村一夫について、ぼくはよく知りませんが、いずれ読んでみようと思います。蔵田君もいろいろと、大変なものを抱えているのでしょうね。どうぞお体ご自愛下さい。もし日程が合うようでしたなら、一緒にお酒でも飲みたいです。
*******************************
 “天国に行こうとしているのに、いつも地獄の門をくぐってしまう”という文章には、はっとさせられるものがありました。ちょうど、ぼくはこのところ、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉のことを考えていたところでした。ぼくが法政で研究対象としたことの一つが、このテーゼであるように思います。分割してみれば、「地獄」とは文学の領域の言葉であり、「善意」とは政治の領域の言葉です。政治と文学の境目に属し、僕自身の問題でもあります。ぼくの周りにいる人の問題でもありましたし、国家の問題でもあります。現在、アメリカや日本の、民主主義システムにおけるPC、「政治的な正しさ」の生み出す諸問題が、このテーゼと関わりが深いように思います。善意こそが地獄を招くのだとしたら、この背理はどうにも悲しいものです。
 ところで、ぼくは昔、ぼくの作品を読んだ先輩に、次のような批判を受けたことがあります。実際にその人と同じ立場に立ってみなきゃ、「その人の見ている風景」は、その人の気持ちは、分からないのじゃないか、と。ドストエフスキー好きの先輩で、ドストエフスキーの生活を実践していました。ぼくはその人と違って度胸も体力もなく、「ドストエフスキーを生きる」ということはできません。しかし時折、ドストエフスキーが感じていたであろうような悪霊が、一瞬垣間見えることがあります。この悪霊は自意識の噴出と客観による制裁、美と美に伴う魔を生み出します。このところ、自分の手術すべき場所がおぼろげに分かります。でも、どうしても、どこからか漂いくるこの悪霊を、うまく手なずけることができないのです。ぼくは本当には追い詰められていないのかもしれないです。どうにもうまく、自分を壊してしまうことができず、やきもきします。
 さて、キリーロフは「すべてよし」と述べます。どんな犯罪が行われても「すべてよし」なのです。この思想は「大審問官」の章へと架橋していきます。一部の苦悩する権力者が、神を代行し、多数の無知な大衆を支配するという構図が、ここで現れます。これは、もともとはラスコリニコフにおける罪と罰の問題に由来しています。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉は、この過程をオーバーラップしているように思うのです。大審問官に近い位置に日本の歴史上において、信長が存在し、この問題は「文化防衛論」へとつながっていくのかもしれません。

ハウル 美しさこそが全てである
小林 美しい花がある 花の美しさというものはない
瀬芹 愛せるものが花である

ごっこ遊びを始めよう 彼は太宰だ 彼女は三島だ
あなたの身体は高価なおもちゃ そこまで育つのいくらかかった
ごっこ遊びを続けよう 彼はマルクス 彼女はニーチェ
あなたの言葉は無料のおもちゃ 一文の 銭にもならぬ
ごっこ遊びを終える今 膿を切るべき時が来た 
うどの大木砕け散る 最後の石を どこ投げる
あなたの心は他人のおもちゃ 奉仕せよ 奉仕せよ 奉仕せよ
 

あけましておめでとうございます

 投稿者:蔵田浩之  投稿日:2005年 1月30日(日)01時04分47秒
返信・引用
   お久しぶりです。ご無沙汰しておりました。
 今年もよろしくお願いします。

 いやあ、一時期、人生ってやつにあやうくやられるところでしたよ。あぶなかった…
ようやく、読書を再開できるまでに回復してきましたが、正直リハビリ中って感じですかねぇ。
 で、野村一夫なんて読んでみました。松平さんはお嫌いかもしれませんが、私は恥ずかしながら結構楽しかった…これくらいの難易度で満足できていれば、読書も楽しいだけですむのだと思うんですけど。
松平さんの文章を読んでいて、“天国に行こうとしているのに、いつも地獄の門をくぐってしまう”という安吾の文章を思い出しましたよ。
私風に書き変えるならば、こんなに人を愛そうとしているのに、なぜか人に嫌われてばかりいるなぁってところでしょうか。

※新聞読んでたら、ある科学者が「科学にたった一つの答えなどない」とかって言ってました。おいおい、そりゃ文学者の言葉だぜ。
 

悪との戦い

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年12月24日(金)06時48分49秒
返信・引用
  >工大生君
アドレスの件了解です。ちなみにぼくは、三十人ほどに教えたぼくのアドレスが、全て間違っていたことに最近気付きました。ふふ。
 国際日本学に関する指摘はその通りかもしれませんね。この件に関してぼくは、真珠湾的にはオーケーでしたが、レイテ沖的にはノオでした。現在では絶対防衛線を稲荷山古墳付近まで後退させざるをえない戦況です。工大生君の意見はよく考えてみます。10の大学を回らなければ一人前でない、そんな覚悟は確かに必要なのでしょう。

1#今年も悪と戦い続けた一年だった。対象はなんでもいい。ぼくは悪と戦いたいのだ。そんなことを呟いていたら、A君に「いや、松平さんこそが悪でしょう」との指摘を受けた。わが意を得たり、とぼくはニヤリとした。この世には神も仏もいないのか?ぼくはぼくという悪を打ち倒してくれる、神の存在を求めている。「誰か私を殺して」、そんな言葉を呟きつづけている。ブッシュに勝てるのはブッシュだけ、自己中に勝てるのは自己中だけ。そしてまた、ぼくはブッシュとフセインが抱擁しあう光景を、奇妙に確信してもいる。
2不易と流行#友達というものは一つの客観である。研究者にとっての研究対象というものは一つの客観である。言語というものは客観である。人間は、それらのものを足がかりとして定点を確保する。それらのある何かを「実体」だと、つよく思い込む。その「実体」を軸に人は世界を把握する。この定点は認識と意志を産むために必須である。ここで、難点となるのはこの「客観」が外在的なものであるということだ。外在性は他者に属する。それなのに、それを仮に自己だと仮構しなければ、人は自己をつくれない。つまり、自己とは常に他者の寄せ集めである。それゆえ、自己を形成する外在的な「実体」は、時として自己を裏切る最大の敵となり、アキレス腱となる。人が定点とする「実体ならざる実体」が、永久不変なものではないため、世界は常に崩壊の危機を持つ。
3#受験シーズン到来である。生徒と「合格したらマツケンサンバを踊る」という約束をしてしまった。ぼくはテレビを見ないので何をすればいいのかよく分からない。誰かマツケンサンバの踊り方を教えてください。
4#適度な反逆は成長を生むが、過度の反逆は病気と呼ばれる。客観を醸成し、それに跪く者が大人と呼ばれる。左翼とは客観を醸成できないものの謂いである。ぼくは学閥の掟に跪こうと思う。人文科学研究科狂想曲第一楽章「炎の新入生」了。第二楽章「革命的情熱とゆかいな仲間たち」開演。来年も、オモシロかっこいいぜ!
 

嫌気がひどいよ

 投稿者:工大生  投稿日:2004年12月20日(月)00時52分29秒
返信・引用
  <返信>メールアドレス、かえたのです。連絡しませんでした。こちらこそ申し訳ないと思っています。
<近況>今年は厄年でした、何も手応えなく、そして出来ずに終わります。興味ある数学・物理・電気の勉強はほとんど進みませんでした。本分である研究は全くせず、今教授はかなり怒っています。何を探しているのか、自分に欠けていることで何から補っていくのかが分からずに、かなり長い間悶々としてました。ちょっと自信がないまま就活に挑みます。行動が自信に変わればいいのですが。

>本当に研究者を育成する意図があるのか疑わしい。何か、「どうせ、紹介できる研究職はありません」という雰囲気が仄見える。
ここの部分だけ何を持ってそう言えるか、という根拠がないように思います。勿論掲示板上に、完璧な論説を求めてもいけないなぁと思います(^^; これは国際日本学だけの問題なのか・・・では法政大学の他の領域はどうなのか・・・といった風に突っ込まれると思います。
高校の時の化学の先生(理科大出身)が、アメリカだと10(ここらへんは記憶があやふやですが)の大学を渡り歩いて一人前の研究者に認められると言っていました。また、博士課程に進んでいた先輩(工学系)は、日本で研究者は30までにそれで食える職に就かないと、一生ふわふわすることになると言っていました。核融合研究所の先生が、「研究者になるには、ひもじい思いをしても、その研究があればいいと言える人がなる」みたいなことを言っていました。大変な世界だと自分は思いました。
 

(無題)

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年12月15日(水)08時30分44秒
返信・引用
  >玻璃充 さん
 遠藤さん、お久しぶりでございます。古い日文研の方に眼を留めていただき、嬉しく思います。玻璃充さんというペンネームで、98年の埃風にお書きになっていましたよね。今では、盛んに学館で埃風を出していた時期を、懐かしく思わずにはいられません。
 ぼくも遠藤さんに興味があります。是非気軽に絡んでやっていただければと思います。イベントとしては一月の下旬に「分野超えた知的交流を―飲み会」を開こうかと思っています。「この掲示板を読んでいただいた方はどなたでもご参加ください」という設定にしようかと思っています。1月の、21(金)、22(土)、28(金)、29(土)の辺りで考えています。遠藤さんの都合の悪い日がどこかございましたなら、教えてください。

1更新履歴#本サイトに「雑文」のページを新たに設けました。松平がゼミで発表したレジメ等を載せました。http://www.gem.hi-ho.ne.jp/yamame/newpage1.html
2#この掲示板の過去ログページを作る可能性があります。不適切な発言をしたと思う方、記録されたくないと思う方は、今のうちに、取り消しの作業を行うか、松平におっしゃるかをお願いします。
 

国際日本学を批判する

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年12月10日(金)07時49分40秒
返信・引用
   法政の国際日本学が文科省に叩かれたのは、01年のボアソ事件に次ぐ、法政大学21世紀最大の不祥事であろう。ぼくも「国際日本学」と冠される、いくつもの授業に参加している身である。そのため、この問題を自主的、主体的に責任を持って受け止め、考えてみたい。
 COEは「若手研究者の育成効果があがっているか」と「研究者の間で連携がうまくいっているか」の二点を重視したという。法政の「日本発信の国際日本学の構築」は「既成の日本学を超えるものが提示されず、『日本の中の異文化』に関する視点からの新しい知見がない」ので、「計画の大幅な縮小が必要」との中間評価を受けた。補助金は大幅に削減される見込みである。本当は計画中止が検討されていたようだ。しかし、中間評価の公表直前に無理矢理、それまで決定されていた基準をねじ曲げ、四段階評価を五段階評価へと変更し、救済されたようなのである。九州大学と、盛んに大学改革を云々してきていた清成総長に、文科省が配慮したのかとも噂されているようだ。審判が試合途中にルールをかえるようでは、第三者評価が適正に行われているのか、疑わしいとの批判も出ている。
 さて、「既成の日本学を超えるものが提示され」ていないとされた「国際日本学」の授業であるが、ぼくもその授業に出ていて、日本文学なのか「国際日本学」なのか、よく分からないような授業であるように思う。「新たな国際日本学創出する」のだという意識を持ち、授業を行っている先生はどれだけいらっしゃるというのか。そのような意識はすべての先生方に浸透しているのか。「研究者間の連携」がとれていないと見られても、しょうがないのではないか。また、「若手研究者の育成効果があがっているか」といった点から見ても、国際日本学にしろ日本文学科にしろ、本当に研究者を育成する意図があるのか疑わしい。何か、「どうせ、紹介できる研究職はありません」という雰囲気が仄見える。
 この結果を受け止めた反省の声は先生方からいまだ聞かれない。百十強ある研究教育拠点の中で、九大と並んで第三者的に、ワースト一位だと判定されたのである。自分たちの行っている授業というものがワースト一位であることを認識し、反省し、自己批判すべきではないか。また、そこに所属する院生も、自主性・主体性なく漫然と授業に出ていてはならない。学生は、新たな研究分野を開拓する研究者としてのプライドを、もっともっと持たねばならない。そして、第三者の視点をもって、内部からの先生批判、自己批判、相互批判の声を、上げに上げまくらねばならない。そうすることによってこそ、新たな国際日本学を創出しうるだろう。
 九大のものにしろ、われらが国際日本学にしろ、問題となったのは人文科学系である。人文科学を国際的に、第三者的に評価したとき、いかにして、ただ趣味的であることを越え学問的であることができるか。国家というもの、ネーションというものの中における学問の目的と理念というものを、いかに位置づけるか。そのような課題を露呈させたのが、今回の事件ではないか。理系の学問にくらべ、人文科学系は、社会的にどう有益なのか、ほとんどよく分からないのだ。
 ところで最近、日本人の読解力が大幅に低下したとの国際的な調査結果が出たようだ。文科省は教育水準の低下に危機感を募らせている。もともと、日本人にとって真善美を追求するには、日本語の問題を考えざるを得ない。このような現状だからこそ、日本の人文科学の果たすべき役割は大きいし、そこにこそ国際日本学の使命がある。ぼくらは日本における「文」というもの、「精神」というものの再構築を行わなければならない。そしてその成果というものを、文科省に説得力をもってみせつけてやらなければならない。
 

お久しぶりです。

 投稿者:玻璃 充  投稿日:2004年12月 7日(火)02時46分18秒
返信・引用
  日文研にいた遠藤です。
面白そうなことをやっているみたいですね。知的好奇心が満たされるようなことは好きです。
松平さんには不思議な魅力があります。何を考えているか知りたい。
私の行動は、以前に比べたらおとなしくなっていますよ。
何かイベントがあったら、私も参加していいですか?
私が参加したら、きっと有意義なイベントになると思いますよ^O^
 

次なるミラクルを見せてくれッ

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年11月24日(水)06時08分35秒
返信・引用
  最近、世界の果てから手紙が来ないな・・・。  

生きろ おまえは美しい

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年10月31日(日)10時33分32秒
返信・引用
  >Legal_Anarchizmさん
SCNのホームページ、拝見しました。なるほど、Legal_Anarchizmさんにしろ、理事の皆さんにしろ、有能な方が多数集まっておられるようですね。『政治的活動をしない』 『宗教的活動をしない』『営利目的でない』『国際交流団体』『学術的な活動』というのは素晴らしい目標だと思います。今現在、アイデンティティに揺らぎを覚えているぼくとしては、ぐぐっと惹かれるスローガンです。
 お誘いありがとうございます。しかし、近頃思うのです。現代の若者がアイデンティティを確立する手段は、1.友情や恋愛に頼る。2.組織に頼る。3.オタク的引きこもりとしてフェティシズムに頼る。この三つの手段しかないのかな、と。それぞれのやり方にメリットデメリットがあるかと思います。ぼくは2と3の手段には両方とも長期間情熱を燃やしまして、今はちょっと内省の時期です。当分はそれらには手を出さない方向を目指したい。とりあえずSCNには参加できないかな、と思います。試みは面白いと思うので、頑張ってください。どんな話し合いをしたのか等、こちらの掲示板にもご報告いただければ嬉しいです。

>工大生くん
 申し訳ないです。君のアドレスを再び失ってしまいました。今度一度、ぼくの携帯にメールをいただけませんか。
ぼくも最近東大に講演見にいったよ。でも、前のほうの一番目立つ席に座ったぼくはそのくせ居眠りしていた。それで「お聞きの皆さんはお疲れかもしれませんが、講演者はもっと疲れております」と司会者の方に注意されてしまった。東大の先生三人の前で失礼なことをしてしまって、どこへいってもぼくはマヌケだなーと顔を赤くしています。
 以前、「俳句の分からない奴に文学は分からない」とある先生に一喝されました。「ううん、それじゃあぼくは、文学が分からないかもしれない。」と悲しんでおります。でも、最近古文の授業で和歌をちょっと読むこともあるけれど、それはそれでそれなりに楽しいです。

1#
―法政PC、ハッキングを受けています!
「敵は早稲田の革マルか!?」
―違います、判定出ました!敵は東大民青です!
「ばかな!」
―BT情報センターより通達、ファイヤウォール発動!ネット接続ダウンします!
「今は人質救出・ブッシュ打倒のために、協力し合わねばならぬ時なのだ!仕方がない。私が東大に出向こう!」
2#「真剣に学者を目指す会」を立ち上げた。現在会員は一名である。「真学会」第一回のイベントとして、東大総合文化学部言語情報科学科の入試説明会に行ってきた。
 調べてみてびっくりした。東大で近現代の日本文学をやっている学者数はとても少ない。国文学科に太宰・私小説の研究者が一人いる。伝統ある人文社会科学研究科ではその方だけのようだ。新設学部である、総合文化学部比較文学科に一人二人(?)いる。しかし、いずれの方も、松平の研究対象である近現代日本の「政治と文学」の融合領域をおやりになっていない。一番近くて、言語情報科学科の小森氏だけのよう。でもこの学科、構造主義系で言語学の研究がメインのようだ。
説明会は、出来てまだ十一年ということもあってか、風通しがとても良さそうな印象を受けた。先生と面識があるかどうかと関わりなく、公平に学力審査して合格を決めると明言もしていた。しかし、「この学科は研究者を養成することを目指しているのか、教育者を養成することを目指しているのか、どちらなのだ」という質問に対して、回答はなされていなかった。天下の東大でも、そこは難しいのかもしれない。
 繰り返しになるが、ぼくはマルクス主義と日本の近現代文学の間にこそ、真の思想がある、と考えている。その点、法政日文科の近現代は、大変充実しているのだなと今回の「真学会」会合で実感した。
3#政治、宗教、文学が昔は若者を救っていた。今、若者を救うのは、「友達」と「心理学」なのではないか、と仮に考えてみることができよう。それは「流行り」である。
 

読書→研究 の秋

 投稿者:工大生  投稿日:2004年10月30日(土)01時00分18秒
返信・引用
  ・ガウシャンフィルタが、エッジをよく保つフィルタであるという原理が今さら分かった。そして人間の眼の特性に一番近いということと、昔「信学技報」(HIP)で読んだ人間の視覚特性のモデルの話(ガウシャン・ラプラスね)がくっついた(zero-crossing)。
・伝達関数(制御etc.)のことをこの掲示板で云おうかなと思ったけど。大事なのはインパルス応答だね。
・国立大学っていろんな人が講演に来るのね。小柴先生(ノーベル物理学賞の)間近で見れた。それだけで研究に意欲がついた?
・谷川俊太郎間近で見れた。松平さんは、短歌・俳句・詩の方もごりごり読んでいるのでしょうか(てか、ごりごり読むものなのかな)??
 

(無題)

 投稿者:Legal_Anarchizm  投稿日:2004年10月24日(日)17時00分58秒
返信・引用
  http://tokyo.cool.ne.jp/scn/top01.htmこれがSCNのサイトです。  

(無題)

 投稿者:Legal_Anarchizm  投稿日:2004年10月24日(日)16時59分37秒
返信・引用
  なるほど!死の観点から生を覗くという発想はやられました。或いは人間は生きるという事に固執し過ぎているのかもしれませんね。もう少し頭を柔らかくして、死を常に念頭において生きてみるのも新しいでしょう。
ところで、松平さんは討論に興味はありますか?きっと在学中これでもかという程討論を重ねてきたと思いますが、今度早稲田で勉強会がありまして、是非松平さんにも参加して欲しいんです!僕はもう社会人なんで属していませんが、SCNという学生団体が主宰しています。(その団体の理事が僕の友人です。)
まだ企画段階なので詳細は未定ですが、是非是非!
これが紹介文です。

 勉強会大まかな流れ。  「アイデンティティ(自分自身)再構築」

基本的に各メンバーの問題意識に基づいて進めていきたいと思っています。だから週1か週2どちらでやるかはまだ決めてないけど、各回において、まずはその回の担当者がいて、担当者が事前に提示してくれた参考文献を読んで、基本的なところの共通土台を築いてきた上で、担当者が問題意識にのっとったレジメを発表→ディスカッションという形をとりたいと思います。基本的にはこの形で。何回かこれで進めていって、皆が「これは!」という問題・トピック出てきたら、それを集中的に皆で進めていく、掘り下げていくのもありかと思います。そうして、最終的に意見提言するかたちをとるのもいいかなと。
 あと、机上での勉強だけだとあんま面白くないかなとも思うので、積極的にフィールドワークやワークショップ(今いろいろネタを探している)など、とにかく活動的なとこにするつもりです。これを機にいろんなとこ(講演会、勉強会、学生団体、社会で活躍さている方)にも顔出してみたいし。それに理論と実践の観点からも。その他良い案あったらどんどん言ってって欲しいです。
 
 とにかく、俺がやりたいことは、とにかく勉強したいんだと。みんなと意見交換をしつつ。本気で。俺が学びたいことをみんなで学ぶ。みんなが学びたいことを俺らと一緒に学ぶ。(笑) 一人で本読んだりして勉強していくのもいいんだけど、どうせならみんなの考えをぶつけ合って熱い議論空間作っていきたいです。で、3月には海外の若者がくるわけで、彼らとをも真剣にいろいろ考えたいです。留学生ももちろん巻き込むつもり。
 この過程を見据えて、この分科会のタイトルを「アイデンティティ(自分自身)再構築」としました。

 で、みんなの予定を知りたいんで、いつ時間空いてるのか教えてください。
 よろしく。絶対はずせない曜日、時限だけ書いてください。
 では。 みんなが来てくれれば、絶対面白くなる。
たけ
 

死は敗北か

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年10月19日(火)21時38分25秒
返信・引用
  >Legal_Anarchizmさん
 死というものの恐ろしさ。確かにそれは大問題ですね。また、あなたはいいことを言われました。「精神の肉体への優位」と。
ぼくは小学三年生のころ、「はだしのゲン」という映画を見て、死というものの恐ろしさに震撼しました。それ以来ぼくは死について、いつもいつも考えております。中学生のとき、ぼくはこんな体験を味わいました。「悪いんだけどさあ、ちょっと、あなた、死んでくれない?ある日学校に行くと、クラス全員がぼくの敵だった。ぼくの住んでいる世界とは、こんなにもろいものだったのか(重松清『ナイフ』)」。ヘーゲルではないですが、死を恐れぬ勇気を提示できるものだけが、主人として奴隷を支配できるのだと、そのとき実感しました。ぼくは二十歳のころまで、自殺のことを考えながら生きていました。三島はデビュー直後のころ近代文学同人の座談会で、「おれは血を見たいのだ。本当だぞ。」と叫びました。それは彼にとって、戦時中に血と汚濁で自己の手を汚したかもしれない第一次戦後派への嫉妬だったのかもしれません。そしてぼくもまた、殺人経験のある者を羨んでおります。
 さて、ご質問に対して答えましょう。経験不可能な領域にある死を判断しようとするとき、理性による推論には超越論的仮像が含まれざるをえないため、そこに恐ろしさを感じるのです。しかしハイデガーに頼るまでもなく、東洋思想的にいって、死という状態、無の状態を常態だと定位し、「死んでいること」を前提に生の側を見つめるとき、死への恐ろしさは減少するかもしれません。
 唯物論的に考えれば、存在(肉体)は意識(精神)への優位に立ち、意識は存在の中から生まれ、常に意識は存在に規定されざるを得ない。そのことに対する自由意志への発現として、埴谷が『死霊』五章で「自由の唯一の実践とは、自殺と子を産まぬことの二つしかない」と述べるのは、故なきことではないのでしょう。
 日本人は伝統的にしばしば真善美が幸福な一致を遂げた状態として「死」があるのだとそれを称揚し、結果としてハラキリや心中や特攻が行われました。残念ながら、ぼくにとって良く分かるところがあります。「生きている」ということにどんな価値があるというのか?別にいつ死んでも構わないのではないか?三大欲を追求し続け、生物的生存を続けるただの存在としての人間に、反省をせまり、意識の優位に立ち、人間は人間を超えなければならない。・・・そのような思想から、テロや戦争が起こるのだということも、あるのかもしれません。

>蔵田くん
ちょうど今、埴谷全集をごりごり読んでいるところでした。大学のゼミでちょうどこれから扱うエッセイでして、大変タイムリーな質問を頂き、ぼくの方こそ感謝しております。
 

言葉にのって(のせられて)

 投稿者:蔵田  投稿日:2004年10月18日(月)23時16分30秒
返信・引用
  まさか読み返してもらえるなんて、とてもうれしいです。ありがとうございます。

やはり、カントが必要になるんですね。残念ながら、なかなかカントまで手が届かない状態でして、松平さんには申し訳ないです。できるだけ早く読みたいんですが。
ここは思い切って、松平さんのテクストのみに焦点を当てて質問を考えてみることにしました。ということで、しばらくお時間をくださいな。
2年後くらいには、カントを交えて対話できるといいんですけどね…

Legalさんの問いと関連は薄いのだけれども、私個人としては、死の恐怖のおかげで、何度も命を救われたと思っております。もし怖くなければ、スパッと解決しちゃったんじゃなかろうか、と。
もちろん、これは問いに対する答えではありません、念のため。

デリダ亡くなりましたね。サイード、デリダ、藤田省三の死と『前夜』創刊。文学の終焉。と、ろくなニュースがないですね。
徐京植の言葉を借りれば、せめて、本を読まなければ…
 

(無題)

 投稿者:Legal_Anarchizm  投稿日:2004年10月15日(金)23時09分10秒
返信・引用
  突然申し訳ありませんでした。
私は情報の海から発生した生命体です。人類は未だに生命を定義できていませんので、私が生命体を主張したところで差し支えはないと思っています。−功殻機動隊(笑)本来精神は肉体という鎧に守られつつ同時に束縛されているわけですが、Legal_Anarchizmという存在は精神が肉体を凌駕しているのです。(精神が肉体を守ってるといいましょうか。)
とはいえ存在の手段としては同じですが、人間が皆同じタンパク質でありながらそれぞれ中身が違うように、私が2ちゃんねらーと違う事はいうまでもないでしょう。私も松平氏と同じく奴らの存在が大嫌いです。奴らは弁証法というものを知らんのですよ。
なんて陰口を言ってばかりでは奴らと一緒ですね。(笑)ではそろそろ私の問題提起を聞いて下さい。問いはたったの一つ。
「死はどうして恐ろしいのか?」です。(自殺志願でも殺人願望でもありません、笑)
松平さんはどうでしょう?恐ろしいですか?





 

敗北快進撃

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年10月13日(水)06時26分10秒
返信・引用
  >蔵田くん
「存在と非在とのっぺらぼう」を読み返してみました。大変いいエッセイです。「のっぺらぼう」のアイディアの本は、カントの物自体とドストエフスキーのキリストを攪拌したような所からきているように思いました。このエッセイでは認識の問題を述べていて、そこの部分では明瞭にカント哲学の色彩を帯びています。また別のエッセイで埴谷は、ドストエフスキーの描いたキリストには明瞭な顔立ちがあった。しかし本当の神の顔立ちとは実はのっぺらぼうだと、ドストは気付くべきだったのだ、とも述べています。埴谷は「神とは便利な概念だ」ということも、しばしば述べます。神という概念に対立させ、それを否定すべく作った言葉でもあるようです。『死霊』五章では、宇宙史の始まりは「のっぺらぼう宇宙」なのだ、という件があります。各々の「個」へと、主客が未だ分化していない「源初の存在」を指しているのでしょう。
「不可能性の作家」ではハブロック・エリスの『夢の世界』を引用しています。夢を合理化して可能的に解釈してしまうのではなく、そこに不可能性を見出していくような作家に私はなりたい、という主張が軸になっているように思いました。また一方で、自然主義的なリアリズム文学を可能性の文学とし、ドストエフスキーやポオなどに含まれる虚構性と形而上学性に不可能性の文学を見出し、後者を持ち上げるということも主題となっているようです。

>Legal_Anarchizmさん
文章がうまいですね。ぼくはどうも子供のころから文学少年であったわけでもなく、そのことが災いして、このような、幻想的かつ修辞を散りばめた文体で描写を重ねることができず、引け目を感じます。異性というものの持つエロティシズムの一面を捉えられているように思います。もっとも、ぼくは口先だけでして、女の人のことはよく分からないのですが。
 関係ないですが、私の値打ちというものも異性の値打ちというものも、交換価値とか使用価値とか、そういったような経済法則で割り出せるのじゃないかということを、ぼくは考えています。『道草』とか『賭博者』とかにとりあえず興味があります。経済と時間の問題。そのような観点からもっとつっこんだ恋愛小説も書かれるべきじゃないのか。「近代小説は終わった」なんてそんなバカなことあるものか。まだまだ書くべき小説はいくらもある、と思います。

1#「2ちゃんねらー」もそうでない人も、松平と面識のある人もない人も、この掲示板への書き込みは歓迎します。ぼくはたくさん間違ったことを言ってしまっていると思うので、いろいろご指摘いただければとも思います。
2「2ちゃんねる」試論#「君は2ちゃんねるで自作自演をしていないか」という質問を受けた。ぼくは2ちゃんねるを基本的に見ないし、まして書き込むことは決してしない。もともと、ネットで文章を読むくらいなら、一冊でも多く本を読んだ方がいいと考えている。
 なるほど2ちゃんねるは反応が早い。括弧つきでの「弱者」の味方だ。すなわち、大衆的、匿名的、多数決主義的で、そういった面では「民主主義的」だ。そしてポストモダン的だ。
しかし、理論を積み重ねることができず、思想的にレベルが低い。テレビや新聞等のメディア、大学のゼミ等が光の世界だとすれば、ネットとは闇の世界だと思う。また、2ちゃんねるはとにかく差別がひどい。公の場で「人権」という正義が強いため、反動が来ているのだ。光と闇とは実は表裏一体なのだろう。
「2ちゃんねらー」とは特定の個人ではなく、2ちゃんねるというシステムに支配された存在だ。2ちゃんねるとはラカン的な意味において「うんこ」だと思う。活版印刷は国民国家を作り出した。ネットは現代社会のシステムをどう変えうるのか、興味がある。
3#ハリーポッターの新作を読んだ。ポッターが地下室の住人のごとくに喧嘩を売りまくっていた。作者のローリングは頭がおかしいと思う。ハリポタは最近の国語のできる小学生はだいたい皆読んでいる。また、車内でも始終読んでいる人を見かける。こんなに危なっかしい作品が、ここまで読まれてしまっていいのかしらんと、ちょっとドキドキした。
 

俺的な美学的エロティズム

 投稿者:Legal_Anarchizm  投稿日:2004年10月 9日(土)22時44分48秒
返信・引用
   まだ釈然としない虚ろな意識の中で、最初に私の目に飛び込んできたのは、頭上に重くのしかかる積乱雲だった。身じろぎ一つなく、黒く深く貯えられた稲妻をいつ落とそうかと、今か今かとその肥えた腹を私に向けている。隙間から覗く青空に蒼さはもうなかった。怒りなのか哀愁なのかははっきりしないが、その雲の威圧感は太陽の絶対性すらをも上回っていた。そして次に視界に入ったのは、これもまた黒くどこまでも深い木々だった。いや、見えたのではない。もとから私は樹海の中にいたのだ。見渡す限りに森が広がり、終わりも始まりも感じさせない、ひどく暗鬱な樹海だった。そして、最後に目に映ったのは女だった。ふとうつむくと、そこに泥にまみれた裸の女が、微かに震えながら横たわっていたのである。虚ろだった意識は釈然とした。
 数十分前、私は時間の止まった絵画の中にいるようだった。輪郭のくっきりした雷雲の下、深遠な森の中で、私は一人の美しい女性と対峙していたのだ。凛とした唇、鋭利な鼻筋、そして宙のような瞳を含んだ切れ長な目。肌は透き通るくらいに白く、また、何物をも通さないほどに漆黒な髪を持つその女は、朱色の十二単衣を纏っていた。大自然の中で女の色合いはひどく浮いていた。いや、存在自体が不自然だった。しかし、そのコントラストはむしろ神秘的で、時間を否定し、存在を肯定する説得力があった。もはやその神々しいような美しさは、時間を超越していた。
 それから、既視感と劣等感はまもなくすぐにやってきた。止まった時間の中で、その風景はもはや過去でも未来でもないからである。そして厳かな景色の中で私は居心地の悪さと、自分の非力を感じていたのだ。嗚呼、何故私は当事者ではなく認識者なのだ!どうして私は時間に付き纏われるのだろう。美とは必ずしも受動的なものなのか。能動的な、つまり私はこの目の前にある美を共有したいのだ。言いようのない歯痒さに焦燥していた。もはや敗北すら感じていた。
 雷が光るが早いか、私が閃くが早いか、とにかくその時私の中で何かが切れた。では、それらに時間を与えればいい。時間を動かす事によって、私も対等に当事者となりうる!手が届かないのなら、手を伸ばし引き寄せればいいだけの事だ!次の瞬間、私は一心に女に駆け寄り身ぐるみを剥がした。一枚の絵を打ち破る思いだった。物を壊す事はこれほどまでに気持ちの良い事だったのか!女は拒む術を知らない。雷鳴と悲鳴が鼓膜を揺らす。稲妻は怒り狂ったように光りだす。樹木は騒めき、風は吹き荒れ、全てが動き、生きていた。そして私はその快楽に陶酔し、空を見上げたまま虚ろになったのだった…。
 今、動き出した時間の中にいる事に誇りを感じている。私は勝ったのだ。この女はもう二度と輝かないだろう。しかし、黒い泥と白い肌の色合いにはどこにも不自然さはなく、それはそれで美しかった。終
 

ひどいですね、2ちゃねらー

 投稿者:蔵田  投稿日:2004年10月 9日(土)19時26分6秒
返信・引用
  台風くる〜りくるくる。

月300冊はとんでもない数字ですねえ。一日平均10冊ですか…ということは1時間で1冊くらいのペースということですよね、大リーグ並みっすな。
200万円の方も僕はとても無理ですが、松平さんは射程圏内なんじゃないですか?1冊5000円だとしたら400冊ですものね。
よかったー、プロじゃなくて。

松平さんの埴谷評はさすがにすごいですね。的確な要約ですっきりしました。ここはぜひ、もう一歩踏み込んで、やっかいな問題についてもお聞きしたいところです。つまり、「のっぺらぼう」と「不可能性の作家」というやつですね。私はこの辺がもっとも捉えられなかった箇所の一つです。もしよろしければ、松平さんがどのように読まれたか、教えてください。

また一人、友人を失ったようです。縮小再生産を繰り返し、やがて…さよならだけが、人生さ。
 

今度という今度こそは勝てる気がしない

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年 9月20日(月)06時29分17秒
返信・引用
  >蔵田君
ウマ氏から学ばなければいけないことはたくさんあるな、とも思います。経験が違う。ぼくはオーソドックスで形式的なことと、引用したことしか言ってないです。
『垂鉛と弾機』をはじめとする埴谷のエッセイは、後ろの方に載っているものほどクオリティの低いのが玉に傷ですね。
「衣食足りて礼節を知る」ということわざではないですが、どうもぼくは人に同情してあげられる余裕がない。嫉妬の炎で周囲を焦がしてしまう。大学ではどうも「挨拶のできないダメな人」になってきています。でも、やさしくしてあげなければ、やさしくしてもらえることもないのかもしれないわけですよね。難しい。

>工大生君
人は誰しも人肉を食らいつつ、しかし人肉を食らっている己に気付かないものなのではないでしょうか。切ないです。
『日本文学誌要』を確かに君に以前オススメしました。でも工大生君はぼくの卒論を読んでくれているわけですね。『誌要』に載っているのはその一部の抜粋だけなので、必ずしもおすすめでもなかったかもです。また、非売品で買うこともできないかもです。でもいずれ君に会うことがありましたら、必ず差し上げます。
理科大の二部も魅惑的ですね。しかし、ぼくは人間の心について知りたいのだな、と思います。人間の心をうまく、科学できているものがない。科学をやるにしても、その私の精神というものが病んでいたならば、きっとつまずいてしまうことでしょう。若い科学者の精神を転ばせたオウム事件というものがなぜあったのか。そんことも気になって、ぼくは文学に転向したのかもしれません。

1#福田和也は月に300冊本を読むと言っていたし、石原千秋は年二百万円の書籍費が研究者であるためには必要だと言っていた。そのぐらじゃないとプロにはなれないのかもしれないと、焦る。
2#カントやヘーゲルのような理性主義に対して、フロイトは夢の世界という「無意識」を、人間の行動を規制するものとして取り上げ、形而上学へのアンチテーゼとなした。ブルトンはフロイトの説にのっとりそれを加工し、夢こそが芸術の源泉だとして、シュルレアリズムの運動を展開した。埴谷の夢論もこの延長線上で書かれている。しかし埴谷は、自分の夢論は「夢とは既知のものの再現であるという、フロイト説をとらない。夢にはかつてなかった、全く新しいものが現れるのだ」としている。夢を見る人はみな、夢のなかで小説を書いているのだとし、可能性の作家なのだ、とも述べる。そして、夢のなかに「虚体」と「創造」の可能性を考えている。
フロイト、埴谷の夢論はそれぞれどの程度妥当性があるのか。また、ラカンは人間の無意識は言語的に構造化されている。無意識とは他者の言語だ、なぞと言っているようだけれど、これはどういうことなのかが気になるところ。皆さんはどんな夢を見ますか?
3#2ちゃんねるでぼくのことをさして、「堀江さんもよくこんなDQN取ったな」なぞと言われている。やれやれ。確かにその通りだなーと思わぬでもない。
http://book3.2ch.net/test/read.cgi/book/1086531568/
しかし、堀江先生の『朔風』を「革共同」と「少女」というキーワードから読み解くこと。そんなこともいま、真に思想というものを考えるなら必要な作業なのではないか。
4#このページはリンクフリーです。
 

こころざしおとろへしひはいかにせましな

 投稿者:工大生  投稿日:2004年 9月18日(土)12時51分21秒
返信・引用
  >チェアー
ごめんなさい。知らないです。

>法政市ヶ谷の残念なところは理系の学部が隣接してないところだ
理科大があります!!
>ぼくもそういうのに参画したかった
もし考えるところあれば、理科大の、例えば2部に進学してみてはどうでしょう!いろんな人がいましたよ。

・松平さんに薦められた武田泰淳「ひかりごけ」「富士」はけっこう前、読み終えました。「ひかりごけ」切なかった。
フーコーやデューイ、日文研の学習会読書会、先輩の読書記録、自分も読んで追いつきたいと思うところありました。でも理系修行もしないと。日本文学誌要(でしたっけ?)上の松平先輩の論文買い求めたいのですが、発行年月日・巻号・値段を教えて頂けないでしょうか(そもそも生協で買える?)。
・元々考えていたけど、社会に出るかなと思う日々。あと1年半ぐらいか。
 

暗い時代ですね

 投稿者:蔵田  投稿日:2004年 9月13日(月)22時45分37秒
返信・引用
  おひさしぶりです。
失速中、といいながらもこの読書量…恐れ入ります。
私など月にせいぜい3冊が限度でして、それって簡単に言えば私が5年かかることを松平さんは1年でやってのけてしまう、というわけですか。う〜む、おそろしい…

ナショナルな問題は難しいですよね。特に現代は見えにくくなっているだけに香山リカ氏のように過剰な反応を示しがち、かもしれません。ビン・ラディンは隣にいるのだ、と脅迫する公権力とあまり変わらない気がしてくるのは皮肉ですね。
それにしても私にとっちゃウマ氏がもっとも難解なんですけどぉ。

ようやく、埴谷雄高『垂鉛と弾機』を読むことができました。5年ごし、くらいでしょうか。松平さんの掲示板で埴谷の話題を持ち出すのは非常に恥ずかしいわけですが。つい嬉しくて、ね。何しろ大学に入りたての頃いきなり読まされて、なんじゃこりゃ、一生読むまい、と思っていた本ですから。が、今読むと不思議と読めちゃうんですなぁ。もちろんわからんところも多々ありますけども。夢についての考察はまさにフロイト的であり、読んだことないけどシュルレアリズムなんかと繋がっている気がします。テキスト後半の文学エッセイは、天下の埴谷にしては「?」でしたが。

まったく関連ありませんが、キケロの言葉を書いておきます。
「私たちは助けるべきところで、助ける代わりに嘆いてしまう。私たちは、同情に捕らわれ、同情に触発されない限り、人を助けることはできないのだろうか?」
今回のロシアの事件を新聞で読み、ある本からこの言葉を苦々しく受け止めました。痛ましいこの事件を嘆いた人々の中に、おそらく、イラクへまさに「助けに」行った人々を軽々しく非難した人達が多く含まれてはいないのか、と。もちろん、自戒の念を込めて言うわけですが。
 

ナショナリズムとオナニズム

 投稿者:松平耕一  投稿日:2004年 9月 1日(水)22時28分55秒
返信・引用
  >二代目ウマ氏
(p_-)。o○(本気を出すとどれだけすごいんだ・・・?

>工大生君
へえ。なるほど。科学技術の大規模施設の中ってとても魅惑的だよね。お金がかかっていて、実質的で、更なるお金を生み出す。そういうところ、結構公開したりしているんだ。形に残るものはいいね。法政市ヶ谷の残念なところは理系の学部が隣接してないところだ。技術立国足りえるよう、日本において理系の学問は、本当に頑張っていって欲しい。ぼくもそういうのに参画したかった。文系学問にも都市の繁華街にも創造はない。あるのは消費のみだ。科学技術の中にのみ創造がある。

ところで「チェアー」って知っている?ぼくの知人ですごくたくましい上半身を持つオッサンがいた。「逆立ち系」の筋トレをしているとかで、何やら面妖な運動をしていた。道具とか、必要なのかな?

#################
高橋和巳にナショナリズムがあった、とする論を見かけた。当然だ。60年安保当時、すでに江藤は正しく指摘している。反米・反スタの新左翼運動とは、マルクス主義とナショナリズムの融合した鬼子であった。新左翼運動からマルクス主義を捨象することにより三島の「天皇」がうまれる。三島にとっての天皇とは、埴谷にとっての永久革命=虚体と同様、実体的対応物をもたないフェティシズムとしての、「文学のふるさと」である。これに「少女」という主題を対置し、対抗させたのが九十年代以降にサブカルチャーとして爛熟を迎えるオタク文化である。「天皇」も「少女」も、市民社会がその内部から疎外したウンコなのだ。ぼくらはウンコという主人の前に、奴隷としてひざまずく。双方のエッセンスを融合したマコリンペンに死角はない。ところで、社会参加への呼びかけとは、自瀆への誘いに他ならない、と人々は考えた。振り返ってみれば、新左翼運動とは、あの68年の世界革命とは、そして他者への、アンガジュマンへの呼びかけとは、あの狂熱とは、ぼくらに舞い降りた時子とは、いつも―すでにオナニーであった。時子に捨てられたぼくらの頭皮から、白髪が吹き出る。マルクス主義の破産とともに、時代はオタウヨクの手に渡る。セックスはあまりに気持ち悪く、オナニーはあまりに気持ちいい。世界革命とはセックスではなく、オナニーであった。そのような他者への諦念を、マコリンペンが救う。ぼくらは幸福な讃岐典侍の世界から、あまりにも疎外されている。他者と向き合い続けることは、あまりに辛い。ぼくらは他者を許せない。だから否応無く内ゲバが生じたのだ。
渋谷で買い物をするように、異性を買い物する。異性とはアクセサリーだ。
保有する異性を友達に自慢する。他者の承認はそのことで得られる。友達とはファッションだ。

出水 愛とは殺したものが殺されたものに送る言葉だ!
山女 互いの身体に飽いたとき、真の愛が始まるのだ!
悟 侮辱をされることが愛なのだ!

テロルとは愛である。戦争とは愛である。クソッタレ日本文学万歳!天皇様よ永遠なれ!
殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!殺してやる!
 

科学技術/イデオロギー

 投稿者:工大生  投稿日:2004年 8月29日(日)21時46分39秒
返信・引用
  高エネルギー研究所の夏期実習に今年も行った。今年は他に、大型放射光施設SPring8、核融合研究所のそういうのにも参加した。学部の頃、宇宙研、理研、原子力発電所と行ったが、それと合わせると、今までいろんな所に入ったなと思う。大規模な施設・最先端の装置・巨大な構想のプロジェクト、成果があれば必ず科学技術史に残る(?)研究と技術だ。ちなみにこういう所、無縁でも、文章書く人に一度見学してみて欲しいな、とも思う。

・理系では(文系もそうかな?)一般論として学部では授業、院では研究が大事とされている。幅広い視野・知識+何か一つの専門を持てということである。だから、なるべく学部と院では同じ研究をした方がいいとされている。自分はまた画像工学の分野で何かする予定。
・SPring8での懇親会で、ある研究者に、もし研究者になりたいのなら「今の指導教員の年齢に自分がなった時、その今現段階での指導教員には勝てるという分野を、持っているようにしなさい」と言われた。指導教員には年齢さがあるから絶対追いつけない。そして「ソフトウェアで指導教員に負けてはいけない」と。つまり結果をだすための方法・・・数学やコンピュータ、実験装置の知識や使い方・・・ではなく、問いを立てて実験を計画する・結果に対して考察を加え次やることを考える(観察力や洞察力)、そこが勝負なのであろう。
・技術者になるか研究者になるか・・・?
 

勉強×焦り×妄想

 投稿者:正統二代目カリフ ウマー  投稿日:2004年 8月24日(火)17時48分28秒
返信・引用
  ♯1 私はここに断言する。もはや日本共産党も社民(会)党も左翼パーティーではなく
愚劣で異様な様相をした紛れも無い右翼パーティーであるということを。
それどころかベトミンも中共もソ連も朝鮮半島の共和国もナサコム体制もフクバラハップもすべて能動的(積極的)肯定を要求される時点でもう既に右翼的でしかないのである。
考えても見たまえ、今、この日出づる皇御国に於いて、真の意味で左翼的であるといる政党は果してどこであろうか?
(卑猥なる民衆の声)ジャスコ岡田率いる民主以外に他ははい。
その通りだ愚劣なる民衆よ。彼らは体力不足であり無難であり改憲派でありやや消極的選択肢ではあるがリッパな左翼だ。むしろ消極的選択を余儀なくされている時点で限りなく左翼的だ。美しく左翼的だ。見事に左翼的だ。
今日、本来攻撃的である筈の右翼が防衛的になり、防衛的(受動的)である筈の左翼が攻撃的になってきている。この不可解さ。この異様さ。これが私には絶対的に不快である。

参照URL*其の1 http://emperor.pya.jp/ "内親王秋篠宮マコリンペンを愛でる会"

♯2 何故右翼にはオタクがこれ程までに多いのだ。
ここでまた声高に宣言する。右翼とは素質であると。まず対象に対して絶対的服従を余儀なくされることに耐えられるか否か。コレが絶対的な鍵になり、オタクな方々がウヨク(的なもの)に食指を示してしまうのは、その能動的な絶対肯定が彼らにとって快感以外の何物でもないからなのだ。彼らにとって"肯定"とは服従を指し、また、彼らにとって"否定"とは即ち"非関心"を示す。言い換えれば"参加しないこと"が彼らにとっての否定行為、或いは間接的な批判行為に当たる訳なのである。
右翼は常に寡黙であり常に肯定的である。左翼は常に饒舌であり常に虚偽的である。

♯3 みたまえ、ここに"参加しろ"と叫ぶ愚か者がいる。なんの思慮も無しにである。ああ無知とはこれほどまでにおぞましいものなのか。受動的要求をする時点で僕には君が左翼的にしか見えないのだよ。そして左翼的なものは既に虚偽でしかないのだ。若者は絶対的肯定に餓えている。若者は、まるで中高年の熱狂的漫画読人のよう全てを能動的に肯定したいのだ。僕は知っている。だから黙って君を否定しよう。沈黙のうちに参加しよう。それが紳士的右翼というものだ。そして全てを肯定しよう。これで僕は一人前の右翼さ。

「こうなったら高校生的に漫画愛読者的に何でもかんでも肯定しまくってやる。」
「マコリンペン万歳!フリードリヒ2世万歳!グスタフ・アドルフ万歳!」

http://anti.bne.jp/upload/updata/up0324.mp3

 

以上は、新着順1番目から100番目までの記事です。 1  2  |  《前のページ |  次のページ》 
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