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>midoriさん
丁寧な、心のひだに入り込む、きめのこまかなアドヴァイスを、どうもありがとうございます。midoriさんは優しい方でいらっしゃいますね。会話の途中で、「でも」という言葉をさしはさむことには、ぼくも心当たりがあります。ぼくもそんな子供でした。「でも」「なんで」「どうして」を繰り返して、大人を困らせてばかりいました。そのころ、ぼくにとっての疑問の中心は、なぜ人は生き、なぜ人は死ぬのかということと、なぜ勉強をしなければならないのかということでした。大人になったいま(ぼくは自分のことを大人だとは思っていませんが)、大人自体、そのことがあまりわかっていなかったのだろうなと、何か安心した気持ちになりはじめました。
さて、大人と大人の関係でも、大人と子供の関係でも、心を開かなければ他者を動かすことはできない、ということがあるかと思います。そのことを踏まえたとしても、しかし、対人関係において、そして自己と世界との関係において、他人とのあいだで、傷つけあわないような、適度な距離をとれるようになるために、ある種のアイロニーの意識をもつことが、子供が大人になる過程で、必要となってくるのかもしれず、その結果としてほとんどの人が、この「なぜ」という言葉を封印してしまうようになるのかなとも思います。
「読み手の政治思想がどうであるかが大きく反映する」というくだりに注目なさったのはお目が高くてらっしゃいますね。ぼくは学部のゼミや、サークル活動の中で、何人かの先生と学生に、『死霊』と現実の「政治」は無関係ではないか、との指摘を受けました。ぼくはそれが不服でした。何か、臭いものにフタをしているかのような欺瞞を感じ、あえて、アンチテーゼとしてその文句を盛り込みました。ぼくの政治思想はちゃらんぽらんで八方破れのものですが、midoriさんは何か、政治について考えるところがおありなのでしょうか。あるいは、それとは別のこととしてよろしいのですが、最近読んだ面白い本なり、関心のあるニュースが何かございましたなら、教えてください。
>旧知君
孫悟空とピッコロは敵どうしであった。しかし、べジータを共通の敵にすることにより、二人は仲間になった。ベジータと悟空は敵同士であった。しかし、フリーザを敵にすることにより、悟空とベジータとピッコロは仲間になった。これらが繰り返されることにより、ゼット戦士たちは誕生した。限りなく続く螺旋の戦いの果て、悟空は死んでしまった。
ぼくは弁証法と価値形態論についてぼくなりに考えていましたが、人気アニメ『ドラゴンボール』から引用することで、ぼくの言いたいことを、こんなふうに簡単にいいかえてもよろしいかもしれません。
しかし、旧知君の指摘にはぎくりとさせられました。ぼくは自分が嫌な奴であること、口が悪いこと、自己中であることに辟易していますし、他人にご迷惑をおかけするぐらいなら、首をくくってしまいたいとも思います。何か、もっとぼくに対する批判があれば、お聞きしたいです。すでに刀折れ、矢もつき、奇跡の力が世界を革命しない限り、来年には他の業界へと敗走してしまうかもしれないぼくですが、一方で旧知君はこれまで旧知君が作り上げてきたワークの総体というものをどう自己評価なさっているのか、どのような美意識をお持ちなのか、あるいは、旧知君は自己の将来を、どう組み立てていきたいとお考えなのか等について、うかがってみたくも思います。
さて、古来より、詩と散歩は、手に手をとりあってすすむ、似たような側面を持つものだと評されてきました。説明的文章が一つの主張に主題をしぼり、具体例と引用を重ねることで、説得的な論を積み立てることを目指すのとは異なり、抒情詩は、特定の実用的な目的地へといたることをめざした統一的な行動をおこなう、商用の旅行のようなものではありません。ビジネス旅行では簡潔さと確実さが求められますが、抒情詩は、踏みしめた地面が返す反響を身体で受け止め、体内の微細なリズムを感じ、周囲をぼんやりとながめつつ内的な夢想をおこなう、歩くことそれ自体が目的である、「散歩」に比せられます。散歩においてゴールの旗は、すでに出発地点に立っています。外部への行動のアウトプットと、外部からの情報のインプットをもっとも素朴な形で行うことにより、散歩はその過程において、精神的な統合を行いなおす行為ともなります。それは矛盾自体であり、無駄自体であり、生の過程の全体ではないかとも思います。ぼくは「知的交流」という看板を取り下げてもいいと思っています。ぼくはこの場に散歩を求めていますし、どなたにでも、散歩的な文章を気晴らしに書き込んでいただけたら嬉しいと思っています。
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