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なるほど、midoriさんはそのように『死霊』を読まれたのですか。ある芸術作品からどのような感銘を受けるのかは人それぞれであり、その幅はしばしば驚くほどで、それでも客観的でありうるような批評を書くにはどうすればいいのかということは大変難しい課題だと悩んでおりました。今、『死霊』を読み返していたのですが、政治は実はあまり関係なくて、むしろ、ボケたおしの仕方を見習わなければならないのかなと、奇妙に反省しているところでした。
Midoriさんは研究者さんでらっしゃいましたか。すばらしいですね。何の研究をなさっているのですか?どうもそれともしらず、大変失礼いたしました。ぼくは研究者をめざしていたのですが、このところ雲行きが怪しくなってきました。学校では空気を読めず叱られ、職場では馬鹿にされ、家に帰れば親にニート扱いされて無視される。街で美しい女の人を見かけるたびに、ふらふらと近寄り、声をかけて口説いてしまいそうになる欲望をおさえにおさえて、ただひたすら孤独に考える単細胞として部屋にこもり勉強をしてきましたが、ぼくのハートはすでに血みどろです。ニートという言葉を作った奴を殺したいです。このサイトもいつのまにか消失しているということがあるかもしれませんが、そのときは、松平は新たな世界に旅立ったのだとお考え下さい。
ところで、異性とは映像であるとぼくは思います。さらに、セックスとは触覚を伴う映像ではないかと思います。三島の『金閣寺』はなかなか美というものについてうがった問題提起をしている。映像は人間を捉えて容易にはなさない。そして、映像に基づく芸術作品が、人を強烈に惹きつける力を持つのも必然だと思います。テレビにはしばしばアイドルであるとか女優であるとか、綺麗な女の人の映像が映る。その映像がぼくに与える圧迫感と劣等感に耐えられず、ぼくは一切テレビを見ません。
これに対比して、小説とはなんであるのか。ぼくは、文学とは真善美の融合であり、「永遠への憧れ」だと思います。文学が映像に勝つのは、真と善においての他はない。そしてまた、文学は、うつろいきえゆく刹那のものでしかない映像というものに、背反するものである。ぼくはそんなふうに考えています。
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