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たとえば、今日の夕ご飯はシチューでした、という言説ならば、誰かから批判を受けることは少ないでしょう。それは、「私」にまつわる私的なことで、誰にでもありうる一般的な話題です。もちろん、つまらない話だ、それがどうしたの、興味ないよと黙殺されることはおおいにありうるでしょうけれども。今日の夕ご飯はシチューでした、という日常的な話題を離れ、そうではないものに触れようとするとき、どうしても歴史というものを考察したくなります。そして、自己のルーツを文学作品の形で表現することは、それなりに有効な手段だと思います。「夜明け前」がどうだったかは知りませんが、自分より上の世代の時代を扱った小説が、自分より上の世代には批判され、自分より下の世代には受け入れられる、そんなこともあるかもしれません。しかし、「私」というものを空間的にはなれ、時間的に過去のものに言及しようとするとき、基本的に、文章に求められる難易度が上がるものでしょう。たとえば、まだ生きている人のいる時代についての判断を、その生きている人の前でしてみると、「お前はそこにいなかったじゃないか」と言われ、ぎくりとするわけです。その時代を生きている人が、その時代に対する圧倒的な情報量を持つのは当然なことでしょう。よほどうまくやらない限り、歴史を語るのは至難の業だと思います。一方で、時代とは流れ去り、決してもとには戻らないものではありましょう。去るものは日々に疎し。なかなか、生きている者は、生きているということについてしか、語れないものでしょう。連続する「今」を超え、いかに失われた「過去」のものを想像のなかで再構築するか。そんなことが論説文の一つの課題になることもありましょう。その場その場であぶくのように生まれ消え行く対他的な発話行為と異なり、書かれた文章というものには、本質的に、人間が「今」のなかに常に閉じ込められてあることを、理性の力で「未来」と「過去」へと自己解放しようとする営みが含まれるものかもしれません。しかし、そのような思惟のパターンは一方で、「内」に対して「外」、「今」に対して「過去」を肯定し、後者の立場から前者を批判する、月並みな二元論に陥ることもあるのかもしれません。
丸山真男と島崎藤村については、「必読書150を読む会」の読書会か掲示板で、もうちょっと細かく扱いたいかな、と思いました。中途半端に言いかけて、やめたりして、申し訳ございませんでした。とりあえず思いついたことがあったら、見切り発車で言うだけ言ってみよう。その結果、叱られたり顰蹙を買ったりして、落ち込んでしまう。それでも、思考停止を阻むべく、運動を続ける。ぼくは蔵田君と、志を同じくしてありたいです。
ハギノヤ君に続き、蔵田君もブログの所在を教えていただきうれしく思います。インテリの方や、活字での表現というものを真面目に考えている方のブログはできるだけたくさん知りたいです。知り合いのものや、よく行く面白いブログ、サイトがありましたら、是非どなたもお教えいただければと思います。どうも、ぼく自身は、ブログというものはどんなふうに利用できるものであり、どんなふうに文章を綴ればいいのか、テンションが分からずにまごついておりますけれども。
http://d.hatena.ne.jp/yamame1/
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