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さすがは松平さん。これだけの文章を見せつけられると、私の感想文の貧弱なこと…力量の差が切ないです。
恣意的な断片になりがちで反省していますが、松平さんは横着しても意味を的確に汲み取ってくれ、大変ありがたく思っています。どうも最近、わかりあえないことは沈黙するしかない、という処世術が習慣化したのか、断片すら抑圧しがちでして、松平さんの生き生きとした返答が心に沁みます。
ある過去の作品を的確に読もうとするならば、松平さんの言うように「私」から離れて、手の届くことのない現場に居合わせる必要があるのかもしれませんね。だけどこんなこと言ったら怒られるかもしれないけれど、作品なんてものは、作者の手を離れてしまえば無傷に済むのは法的に守られた著作権くらいなもので、あとは物理的な紙を含め、極めて恣意的で恩知らずな読者に、限度はあるにせよ好きなように汚される運命にあるのではないでしょうか。なので、「何が書かれたか?」というテーマと同じくらい、「どのように読まれたか?(もしくは読まれなかったか?)」というテーマも興味深いと少なくとも私は感じます。死んでしまった作品を行き返させるのは紛れもなく読者であり、その読者に向かって作品本人がお礼、もしくはお世辞をするなんていうこともありそうな話ではないですか?
戦争体験などというものも、若い人たちへの継承が常に問題になりますが、この議論で言うならば我々が的確に読むことは不可能ということになりましょうか(なぜなら体験したことがないのだから)。我々はアウシュビッツで起こったことを本当には知ることができない、のかもしれません。この簡単な事実にどんな反論が用意できるのか、考えてみる必要がありそうです。もちろん、私にはとても手に負えませんけど。
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