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一生を沈黙して過ごせるなら、そちらの方がいいのかなと思うことがあります。しゃべる、ということは、不可避的に、他人の注目を集めることを求める行為であります。そしてそこには自己の保身や、人を傷つけてしまう可能性を不可避的に含むものでしょう。そしてまた、しゃべればしゃべるほど、他人にとって、自己は馬鹿に見えるのじゃないだろうか。そんな恐怖に駆られます。ネットでは匿名で文章を書くのが普通、という風潮ができているようですが、ネットの文章はまた、特殊なものかもしれません。ある言葉を発した当人の社会的立場や人間関係、身体的状況や精神状態はそのときどきにどんどんと変化していく。一方で、書かれた文章は変化をしない固着したものであり、それらの記録は何十年も、あるいは永遠に残り、あらゆる人に晒されてあるかも知れない。そして、ネットに接続しているときの世界と、その電源を落としたあとの世界にまたがる断絶もまた、大きなものだと思います。
昼の、松平耕一なら、松平耕一という固有名を持った公的、理性的存在と、夜の、匿名で私的な欲望のつぶやきを行うネットの世界は、截然と切り離されているのではないでしょうか。昼の世界で人は、できるだけ大人びてあらねばならない。大人びてあれば大人びてあるほど、その人は社会的に信頼される人となりうる。けれども、そこで抑圧された「私」や「欲望」は、夜の個人的世界へと逃れるかもしれない。近代的な人間観は人格の同一性を建前とします。昼の世界と夜の世界との非同一性をフォローするために、匿名や、ハンドルネームで発言がなされることになるのでしょう。
そもそも前近代社会から近代社会への移行はどのように起こったか。ヨーロッパで活版印刷機が発明され、これによる新聞と書籍の普及が近代国民国家と公的教育制度を作った、ということがあるかと思います。しかし、インターネットの登場は、これまでの国民国家と教育制度を揺るがすものではないでしょうか。ネットは、書籍を打ち滅ぼしはしないのか。ネットの文章は公的なものなのか、それとも私的なものなのか。ぼくはネットなり、匿名掲示板なりの「破壊力」を信じています。小中学生の間でもずいぶん匿名掲示板やブログの閲覧が流行っているようですけれども、公的教育における理念や理想というものと、ネットにおける「現実」というものは乖離してはいないか。
アウシュビッツでおこった「本当のこと」とは何か。戦争体験の継承とはどうあるべきか。永遠平和について。蔵田君はとてもいい話題提起をしてくれました。このあと、加藤典洋『敗戦後論』、アレント『イェルサレムのアイヒマン』、円地文子『食卓のない家』について語ろうかと思ったのですが、長くなりましたのでここまでにします。
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