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>てまもtさん
『善の研究』のどの章を細かく読むか。そうですね。第二編「実在」の章は埴谷の存在論と関係している部分もあるかもしれませんね。ぼくもこの書を読み返してみましたけれど、愕然として、本を取り落とすような、感動的な文章がいたるところにありました。はじめて読んだときは、ほとんど、ひっかかるところもなく、ぼんやりと読み下していましたけれども。
ぼくはこの書を宗教書という意識で読んではいません。ただ「神」という言葉が、後半では頻繁に出てきて、それが普通の日本人にはよく分からない、躓きを与える言葉であるということは、もちろんあると思います。西洋の近代哲学は「神」の影響下にある。日本には、西洋で確固としたものとしてあるようには、明確な論理も、「神」もいないのでしょう。
『善の研究』前半部は存在論へと、認識主観の側を精査することでアプローチしていることかと思います。カントの『純粋理性批判』との関わりが深く、また、「純粋経験」をどう評価するかが難しいです。後半部は倫理学の問題を扱っていて、ヘーゲル『精神現象学』、カント『実践理性批判』にヒントを得ている面があるのでしょう。神、ロゴス、普遍の問題が考察されています。
日本はお米を食べる文化だけれど、西洋は血のしたたるステーキを食らう文化で、それが彼我の圧倒的体力さを生み、思想の規模において、日本人は西洋にかなわない、ということも疑われますが、『善の研究』は、日本人にとって、なんとかついていける、コンパクトな思想書であるかもしれません。西田はこの書で、西洋哲学史を弁慶の八艘飛びのごとく、切り貼りした、などと批判もできるのかもしれませんが、ここにある思想の凝縮度は凄いと思います。
えらそうなことを言いましたが、ぼくもろくにこの書を理解できてはいません。なので、この書の高名な、前書きにある次の言葉だけでも味わいたいと思います。
「思索などする奴は緑の野にあって枯草を食う動物の如しとメフィストに嘲らるるかも知らぬが、我は哲理を考えるように罰せられているといった哲学者(ヘーゲル)もあるように、一たび禁断の果を食った人間には、かかる苦悩のあるのも已むを得ぬことであろう。」
>kiteさん
M・ヂュラス『モデラート・カンタービレ』の良さってなんなんでしょうね。ぼくもよく分からないです。よく分からない作品は、ほうっておくのがよろしいのじゃないでしょうか。この世には、ヘンテコな文学作品が山ほどあるかと思います。どちらかといえば、自分が面白いと思ったある作品が、他人も面白いと思うということ、そのことの方が珍しく、人と人とが分かり合えるということは、とても稀なことなのだと思います。
ぼくは日本の近現代の女性文学を系統的に、いくらか読んでみているのですが、日常というもの、生活の幅を超えないものが多いことに不満を感じます。政治的、社会学的、文化史的には興味の対象となりますが、そこで提示されている美の観念が、しばしば貧困で、げんなりしてしまいます。あるいは、美的でないものへと日本の近代制度により押し込められてあることに、彼女らの悲劇があるのかもしれないと、疑われるほどです。
それらにくらべれば、『モデラート・カンタービレ』は、ぼくは、面白いと思いました。内容も筋もほとんど意味不明ですけれども、そこに表示されている狂気の表現の仕方は、隅々まで細かく気遣われていて、普通の紋切り型の物語から、常に逸脱してあるよう一言一句丁寧につむぎだされているようで、美的なものだと思います。読み終わったあと、「モデラート・カンタービレ」、「普通の速さで、歌うように」と、ぼくも心の中で繰り返してみたくなりました。この感覚は、春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』を読んだあと、「踊りつづけるんだよ」と、自分に向かって、言いたくなるような感じと、いくらか似てあるように思います。
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