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幸福な靖国のなかの私

 投稿者:松平耕一  投稿日:2006年 8月14日(月)23時09分44秒
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   柄谷行人は「埴谷雄高とカント 埴谷雄高追悼」(群像1997年5月号)で、埴谷雄高について次のように述べています。
「しかし、彼がついに見なかったアンチノミーがある。それは資本主義のアンチノミーである。彼が獄中にいた前後に、日本主義論争または封建論争として知られる論争が続いていた。コミンテルンのテーゼにもとづく講座派(共産党)は、日本社会を「封建遺制」が支配するとみなし、他方、労農派(猪俣津南雄)は、外見上いかに封建的に見えようと、それは支配的な資本制のもとで生じる形態にほかならないと主張した。そこから見ると、埴谷雄高が、丸山真男も同様だが、基本的に講座派の認識に立っていることがわかる。丸山の近代主義は、日本にはこの「封建制」が執拗に残り続けているという認識から来ている。一方、埴谷はそのような封建制を打倒しようとする革命政党が逆に形成する権力構造を批判する。それらが有効な意味をもつ時期があったし、今もあることはまちがいない。しかし、それらが不十分であることも疑いがない。
 彼らが考えていないのは、資本制経済、つまり、貨幣に媒介される人間の関係がとる支配形態、およびその両義性である。それは人を、直接的な人間の関係がもたらすむき出しの支配、あるいは家族・共同体における贈与―お返しという互酬性の支配から解放すると同時に、新たな支配関係をもたらす。それは媒介的な支配であるがゆえに、権力をどこかに実体化することができない。しかし、そのような媒介的支配=資本制を否定する体制、すなわち直接的な人間の関係を実現する体制は、あからさまな権力的支配に帰着するほかない。これが資本制のアンチノミーである。ブルジョア社会を最も肯定すると同時に最も否定するマルクスの「弁証法」は、このアンチノミーから考えられねばならない。そして、これを「越えた」かのように装う思想は、どんなものであれ、破綻するに決まっている。」
  前後の文脈が重要なので熟読して欲しいのですが、「埴谷雄高が、丸山真男も同様だが、基本的に講座派の認識に立っていることがわかる」という一節があります。一方、市村弘正・杉田敦による『社会の喪失』では、丸山について次のように対談がなされています。これは上の文章にあらわされた、柄谷がとらえている丸山のある傾向を、別の角度から語ったものです。
「市村 彼のなかには、ナショナルなものは明らかにあったでしょう。前期国民主義、つかの間の幸福なナショナリズム、といっていた時に、彼が何を想定していたのか、ですね。
杉田 ただ、自らが従軍させられていた戦争については、もちろんきわめて批判的であったわけですね。その理由は、まずは日本軍が近代的な軍隊としては考えられないほど組織として劣悪であった、というものでした。それに加えて、戦争そのものが、まさに正戦論的に見て正当化できない、と。
市村 それと、戦争に至るまでの外交が拙劣であったこと、などでしょう。
杉田 主権国家として未熟だった、という批判ですね。しかし、そうであるとすれば、近代国家として成熟すればいいのか、という話にもなりかねません。こういうことをいうと、ものには順序があり、きちんとした主権国家にならなければ、その次の段階に行くこともできない、という反論がすぐにかえってきそうですが、私はそういう「発展段階論」には違和感があります。」
 「講座派」の立場とは、日本はまだきちんとした「主権国家」になっておらず、それを最初に果たしたのちに、次の段階に進まなければいけない。日本には「ブルジョア革命」と「共産主義革命」の二つの革命が必要だというものです。「講座派」という言葉のもとになった、『日本資本主義発達史講座』を一九三四年の学部学生の頃、丸山が熱心に読んだということは定説です。そして、一九四〇年の「近世儒教の発展における徂徠学の特質」で、丸山は近世の思想を論じたうえで次のように述べています。
 「最後に、最も根本的な疑問がわれわれの観点に対して提起されるかもしれない。抑々この様にして儒教思想の自己分解のなかに近代意識を探ることに一体如何なる現代的価値があるのか、そうした近代的な思惟こそまぎれもなく現在「危機」を叫ばれているところではないのか。現代精神のあらゆる混乱も無秩序も遡って行けば、そこに源泉が見出されるのではないか――。われわれはこの疑問に対してこう答えるよりほかない。まさにその通りである。しかしながら問題は近代的思惟の困難性は果して前近代的なものへの復帰によって解決されうるかという点に存する。市民は再び農奴となりえぬごとく、既に内面的な分裂を経た意識はもはや前近代的なそれの素朴な連続を受け入れる事は出来ない。」「歴史も決して単なる過去の事実の叙述にはとどまらぬであろう。しかし歴史がなんらかの道学的規準の奴婢となっている間は、如何なる意味においても本来の歴史を語ることは出来ない。ヘーゲルのいわゆる実用的歴史叙述の徹底的な超克の後に、真の歴史叙述は始まる。」
 こういった歴史観は、ヘーゲルの『歴史哲学講義』とマルクスの『共産党宣言』を前提としなければ生じえないものでしょう。丸山真男と『歴史哲学講義』と『共産党宣言』に関する話はぼくの「『死霊』論1」にも含まれておりますので、あわせて参照してみて欲しいです。
 
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