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>蔵田くん
「存在と非在とのっぺらぼう」を読み返してみました。大変いいエッセイです。「のっぺらぼう」のアイディアの本は、カントの物自体とドストエフスキーのキリストを攪拌したような所からきているように思いました。このエッセイでは認識の問題を述べていて、そこの部分では明瞭にカント哲学の色彩を帯びています。また別のエッセイで埴谷は、ドストエフスキーの描いたキリストには明瞭な顔立ちがあった。しかし本当の神の顔立ちとは実はのっぺらぼうだと、ドストは気付くべきだったのだ、とも述べています。埴谷は「神とは便利な概念だ」ということも、しばしば述べます。神という概念に対立させ、それを否定すべく作った言葉でもあるようです。『死霊』五章では、宇宙史の始まりは「のっぺらぼう宇宙」なのだ、という件があります。各々の「個」へと、主客が未だ分化していない「源初の存在」を指しているのでしょう。
「不可能性の作家」ではハブロック・エリスの『夢の世界』を引用しています。夢を合理化して可能的に解釈してしまうのではなく、そこに不可能性を見出していくような作家に私はなりたい、という主張が軸になっているように思いました。また一方で、自然主義的なリアリズム文学を可能性の文学とし、ドストエフスキーやポオなどに含まれる虚構性と形而上学性に不可能性の文学を見出し、後者を持ち上げるということも主題となっているようです。
>Legal_Anarchizmさん
文章がうまいですね。ぼくはどうも子供のころから文学少年であったわけでもなく、そのことが災いして、このような、幻想的かつ修辞を散りばめた文体で描写を重ねることができず、引け目を感じます。異性というものの持つエロティシズムの一面を捉えられているように思います。もっとも、ぼくは口先だけでして、女の人のことはよく分からないのですが。
関係ないですが、私の値打ちというものも異性の値打ちというものも、交換価値とか使用価値とか、そういったような経済法則で割り出せるのじゃないかということを、ぼくは考えています。『道草』とか『賭博者』とかにとりあえず興味があります。経済と時間の問題。そのような観点からもっとつっこんだ恋愛小説も書かれるべきじゃないのか。「近代小説は終わった」なんてそんなバカなことあるものか。まだまだ書くべき小説はいくらもある、と思います。
1#「2ちゃんねらー」もそうでない人も、松平と面識のある人もない人も、この掲示板への書き込みは歓迎します。ぼくはたくさん間違ったことを言ってしまっていると思うので、いろいろご指摘いただければとも思います。
2「2ちゃんねる」試論#「君は2ちゃんねるで自作自演をしていないか」という質問を受けた。ぼくは2ちゃんねるを基本的に見ないし、まして書き込むことは決してしない。もともと、ネットで文章を読むくらいなら、一冊でも多く本を読んだ方がいいと考えている。
なるほど2ちゃんねるは反応が早い。括弧つきでの「弱者」の味方だ。すなわち、大衆的、匿名的、多数決主義的で、そういった面では「民主主義的」だ。そしてポストモダン的だ。
しかし、理論を積み重ねることができず、思想的にレベルが低い。テレビや新聞等のメディア、大学のゼミ等が光の世界だとすれば、ネットとは闇の世界だと思う。また、2ちゃんねるはとにかく差別がひどい。公の場で「人権」という正義が強いため、反動が来ているのだ。光と闇とは実は表裏一体なのだろう。
「2ちゃんねらー」とは特定の個人ではなく、2ちゃんねるというシステムに支配された存在だ。2ちゃんねるとはラカン的な意味において「うんこ」だと思う。活版印刷は国民国家を作り出した。ネットは現代社会のシステムをどう変えうるのか、興味がある。
3#ハリーポッターの新作を読んだ。ポッターが地下室の住人のごとくに喧嘩を売りまくっていた。作者のローリングは頭がおかしいと思う。ハリポタは最近の国語のできる小学生はだいたい皆読んでいる。また、車内でも始終読んでいる人を見かける。こんなに危なっかしい作品が、ここまで読まれてしまっていいのかしらんと、ちょっとドキドキした。
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