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>蔵田君
いつもまっすぐで誠実な蔵田君の姿勢には、つくづく頭が下がる思いがします。野村一夫について、ぼくはよく知りませんが、いずれ読んでみようと思います。蔵田君もいろいろと、大変なものを抱えているのでしょうね。どうぞお体ご自愛下さい。もし日程が合うようでしたなら、一緒にお酒でも飲みたいです。
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“天国に行こうとしているのに、いつも地獄の門をくぐってしまう”という文章には、はっとさせられるものがありました。ちょうど、ぼくはこのところ、「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉のことを考えていたところでした。ぼくが法政で研究対象としたことの一つが、このテーゼであるように思います。分割してみれば、「地獄」とは文学の領域の言葉であり、「善意」とは政治の領域の言葉です。政治と文学の境目に属し、僕自身の問題でもあります。ぼくの周りにいる人の問題でもありましたし、国家の問題でもあります。現在、アメリカや日本の、民主主義システムにおけるPC、「政治的な正しさ」の生み出す諸問題が、このテーゼと関わりが深いように思います。善意こそが地獄を招くのだとしたら、この背理はどうにも悲しいものです。
ところで、ぼくは昔、ぼくの作品を読んだ先輩に、次のような批判を受けたことがあります。実際にその人と同じ立場に立ってみなきゃ、「その人の見ている風景」は、その人の気持ちは、分からないのじゃないか、と。ドストエフスキー好きの先輩で、ドストエフスキーの生活を実践していました。ぼくはその人と違って度胸も体力もなく、「ドストエフスキーを生きる」ということはできません。しかし時折、ドストエフスキーが感じていたであろうような悪霊が、一瞬垣間見えることがあります。この悪霊は自意識の噴出と客観による制裁、美と美に伴う魔を生み出します。このところ、自分の手術すべき場所がおぼろげに分かります。でも、どうしても、どこからか漂いくるこの悪霊を、うまく手なずけることができないのです。ぼくは本当には追い詰められていないのかもしれないです。どうにもうまく、自分を壊してしまうことができず、やきもきします。
さて、キリーロフは「すべてよし」と述べます。どんな犯罪が行われても「すべてよし」なのです。この思想は「大審問官」の章へと架橋していきます。一部の苦悩する権力者が、神を代行し、多数の無知な大衆を支配するという構図が、ここで現れます。これは、もともとはラスコリニコフにおける罪と罰の問題に由来しています。「地獄への道は善意で敷き詰められている」という言葉は、この過程をオーバーラップしているように思うのです。大審問官に近い位置に日本の歴史上において、信長が存在し、この問題は「文化防衛論」へとつながっていくのかもしれません。
ハウル 美しさこそが全てである
小林 美しい花がある 花の美しさというものはない
瀬芹 愛せるものが花である
ごっこ遊びを始めよう 彼は太宰だ 彼女は三島だ
あなたの身体は高価なおもちゃ そこまで育つのいくらかかった
ごっこ遊びを続けよう 彼はマルクス 彼女はニーチェ
あなたの言葉は無料のおもちゃ 一文の 銭にもならぬ
ごっこ遊びを終える今 膿を切るべき時が来た
うどの大木砕け散る 最後の石を どこ投げる
あなたの心は他人のおもちゃ 奉仕せよ 奉仕せよ 奉仕せよ
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