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スレッド一覧

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(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年11月24日(金)22時11分8秒
  マートンは、とにかく伊藤清の書いた論文を読んだとか

ちなみに、マンデルブロはそれの批判者だったが
きれいな正規分布でないモデルは計算しにくく、数学者から好まれないとか

 
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年11月24日(金)22時07分21秒
  先の数理ファイナンスの歴史少し読んだが面白い
ブラックショールズは、サミュエルソンが考えついていたのに、ポートフォリオを加えた点で新しいとか
ポートフォリオ=期待収益率とリスクをとるやつ

しかし、ギルザノフの定理って分からん
確率解析難しい
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年11月21日(火)02時00分57秒
  しかしながら、善悪を判断するのは知性の働き
によるものであり、これはその者の見識や知性
と関係することである。
 

小人(しょうにん)について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年11月21日(火)01時59分19秒
  しかしながら、善悪というのは相対的でもあるから、
それは明確に定まるというわけでない。
例えば、誰かに善を為すという場合、相手が悪人で
あればそれは善行とは言えない。なぜなら、それは
悪に加担するものでしかないからである。
しかし、そうしたことは連鎖的なものであるから、
連鎖全体について把握することは難しい。したがっ
て善悪の判断は難しいということになる。
つまり、善人や悪人というのは客観的には定まらな
いということである。
そうした相対性や曖昧性を排除するために法律が
定められることになり、善悪はそれによって判断さ
れることになるが、このことは状況を細分して個々
に善悪を定めようというものであり、したがって
大局的観点から言うものではない。つまり、それは
真なる定義とは言えない。
では、何によって善人や悪人が定まるかといえば、
それぞれの心情によって定まるものと言える。
これは自己規定によるものであり、AはAであるとい
うのと変わりがない。したがって、これは客観的に
善悪を定義するものではないが、善人と悪人とを
明確に定義し得るものである。つまり、その者が
悪を為しているという認識があれば、それが悪人
ということであり、善を為しているという認識に
あれば善人ということになる。
しかしながら、善悪を判断するのは知性の働きに
よるものであり、これは者の見識や知能と関係す
るものである。
小人ほど悪を為すようになるのは、見識や知能が
足りないが故に、事の善悪を判断できないからで
あろう。それができないが故に、悪を為している
という認識を持つことができないことから、その
者は容易に悪を為すということになる。
というのは、どんな人間も自分については正しい
者と考えるものであり、自発的に悪を為そうとは
しないものだからである。彼の者が自発的に悪を
為すという場合、それは誰かからそうするべきで
あるということを吹き込まれるからだろう。その
結果、自己の行為を正当化するということになる。
 

悪人の存在について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年11月20日(月)04時08分37秒
  悪人の存在性は、全ては自然に生じたものと考えれば
極当たり前のことであるが、全ては神より生じたもの
と考えれば、悪人を意図を生じさせる筈はないのであ
るから、悪人の存在と神とは無関係であると考えるだ
ろう。つまり、全ての認識や思惟は神より生じている
と考えることはできないという結論に至ることだろう。
したがって、悪人の存在性は神の全知性や全能性を
否定するものということになる。
このことは善的なる神は悪人を拒絶するという前提に
立ったものであるが、この前提は正しいとは言えない。
悪人が存在するようになるのは必然的であるから(こ
れは人間等は不完全なものであることによる)、それ
に対抗するためには悪人もまた必要ということになる
のである。
もし善人のみしか居ないのであれば、悪を懲らしめる
ということは難しいだろう。善人が多いからこそ、悪
も栄えるということになる。
その結果、悪人が増えることになれば、悪人に対抗す
るために悪人を必要とすることになる。
つまり、悪人は悪人に対抗するために神に許容され得
ると考えられるのである(それは人以外でもよい)。
この意味において、悪人もまた神の僕ということにな
る。もっとも悪人同士は対消滅のような事態を迎える
ことになるわけであるが。
これは自然に物質があれば反物質もあるということで
説明し得る。
 

とはいえ

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年11月18日(土)17時57分28秒
  ボーアのような例外もある。彼は「天才」としては
珍しく「社交的」であった。これは量子力学の形成
においては非常に有効であったと考えられる。彼が
居なければ、科学・技術の発展はもっと遅れたこと
だろう。
この点において、近代科学において重要な人物を
上げるととすれば、アインシュタイン、ボーア、
ノイマンということになるのではないか。
ノイマンはコンピュータによってであるが。
また、彼は原爆の推進者として大きく寄与した。
(長崎の原爆、つまり爆縮タイプのものは彼の
発案によるものであった。これをさらに進めて
水爆も完成された。)原爆は大きな悲劇と苦痛
をもたらしたが、しかしこれによって国際社会
は戦争に対して非常に細心となった。結果とし
ては、核の冷戦状態によって擬似的平和が保た
れる結果となった。
もしそうした脅威が存在しなければ、もう一度
世界大戦が起こったことだろう。そのように
しばらくの平和がもたらされているわけである
が、人類がもう少し進歩しなければ何時かは
この均衡が敗れて最悪の事態をもたらすことに
なるだろう。全ては人類の進歩に関わっている
わけであるが、現在のところこれは難しいよう
に思われる。TVは社会全般の知性を映す鏡とも
言えるが、人類が進歩したというようには見え
ない。

それから、トランジスターを発明したショック
レーも挙げる必要があるかな。
 

生物学

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年11月18日(土)17時43分39秒
  これは本来は有機化学の後に学ぶべきものであるから、
これを知っているかと問う前に、有機化学はできるの
かという問いを発するべきであるな。
この答えは言わずとも判る筈だ。これは私の専門外で
ある。化学科でも医学部でもないから。
専門外でも暇があれば覚えられるが、それほど暇人で
はないのである。
結論は、無駄な問いを止めて、君が勝手に話せば良い
ことである。独りで研究もしくは勉学できないようで
あれば、何事も為すことはできないだろう。
この点が、高校生と大学生の本質な違いだろう。
高校生はつるんで学を為すのであるが、それは学が
共通の話題となっているからなのである。
 

あまり意味のない問い

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年11月18日(土)17時32分43秒
  だと思う。
生物学の場合、出来るかとは言わず、知ってるか
という問いになるな。
それは単に知識的なものであるから。
数学の場合は技能的なものもあるから、出きるか
という問いにはなる。
ま、単語だけの問いならネット検索でどうにでも
なるのだ。それをするのが面倒かどうかというこ
とになる。
もっとも生物学の場合、生化学的なことは出きる
かという問いにはなるかな。生半可には理解でき
ないものであるから。
例えば、TCAサイクルを知っているかというような
問いである。解糖系の話であるから、よく聞くと
思うが、この実際の仕組みを知っている人は少ない
のではないだろうか。
因みに、生物学の本も持っていて、これは岩波の
生物学の全集であるが、大分昔の版になるものの
なかなかしっかりした内容のものである。ただ、
決して読みやすい内容とはいえない。この意味で
哲学書に通じるような趣がある。
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年11月16日(木)17時15分8秒
  p53はDNAに傷が付くと細胞周期を止める
Rbタンパクを活性化して次に行けなくする
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年11月15日(水)23時26分35秒
  所で生物はできるん?
細胞周期とかp53遺伝子とか分かる?
 

集団ストーカーの目的

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年11月11日(土)03時47分13秒
  これは対象に圧力等をかけて、社会的風評を損ねたり、
精神的ストレス(多くは騒音であり、車の騒音、サイレン
の音、ヘリの騒音等が代表的なようだ)を加えて精神的や
肉体的な害を与えること、またそれに対する苦情に対して
精神病扱いにしたりすることも多いようである。後者は
集団として結託しているようであり、初めからそれが目的
なのであるから、公的に被害を訴えても逆に精神病扱いの
口実を与える結果となるようである。
社会全般を見ても嘘は蔓延しているのであり、彼らから
真実を得ることはできないだろう。「弱者」の最強の武器
は嘘なのであるから、彼等から真実を引き出すことは難し
いのである。
もし強引に真実を引き出そうとすれば、相手と対決せざる
を得ず、それは人間関係の亀裂を決定づけるものとなるだ
ろう。
彼らは情念の人であり、理性によって動くということはな
いのである。一度感情を害すれば、理性的解決は困難とな
るだろう。
つまり、現状は感情的社会であり、したがってこれから生
じるのは支配構造から生じることになるピラミッド型社会
である。
これは優れた順によって構築されるものではなくて、支配
関係から構築される社会である。したがって、社会は忖度
やゴマすり、奴隷的態度に終始することになる。また、表
立って批判することができないために内輪で批判すること
も多いが、これには大いに問題がある。というのは、支配
者側によく思われようとして密告がよく為されることにな
るだろうからである。表向きは仲が良さそうに見えても、
嘘が得意な者達であるから、全く信用のならないものであ
る。例え、本当に仲が良いとしても、自己の利益のために
仲間を「売る」ということも少なくないだろう。
したがって、社会は時間の進展と共に腐敗、堕落が嵩じて
いくものであるから、最終的にはカタストロフィが起こる
ということになるのだろう。多くは内乱や戦争によって、
そうした奴隷社会の崩壊が生じることになる。
ある社会が長く続いたという背景には何らかの弾圧があっ
たという例が多い。江戸時代が長く続いた背景には各藩に
対する弾圧があった。

さて、集団ストーカーというのは、怨恨対象に対して直接的
には相手を害することができないことから間接的に攻撃する
という手法を取ることになるものである。
間接的攻撃としてよく用いられるものが騒音である。大声、
拡声器の音、車やバイクの騒音、ヘリの騒音、ドアの開閉音、
階上からの騒音、ステレオの音など多くのものがある。
他には進路妨害もよく為される。例えば、道路上での車によ
る道塞ぎ、多人数による道の占有などである。これらは間接的
攻撃を目的とするよりは、対象との意識的連環を形成すること
を目的にすると考えた方が正しいことも多いだろう。という
のはそうした事例は多く、全ての者が怨恨を抱いているとは考え
られないからである。また、それを単なる偶然とみなすことも
できるだろうが、そうした事例が多発することも多く、全てを
偶然によるものとは考えられないのである。
また、近年では電磁波攻撃もよく為されているとされる。この
電磁波というのは大抵がマイクロ波のようである。紫外線以降
ではエネルギーが強すぎるためにこの影響が顕著になるだろう
からである。マイクロ波の場合には比較的エネルギーが低いも
のの水の分子に吸収されやすいため、人体にも顕著な被害を与
え得る。これは電子レンジがその良い例である。また、直進性
も高いため、遠隔からの攻撃にも向いているようだ。

さて集団ストーカーの目的は間接的攻撃ということになるが、
社会全般から見れば、これには別の目的があるということに
なるだろう。つまり、そうした行為によって全体的な意識的
連環が図られるということである。こうした観点はストーカー
被害者からの報告には全く見られないが、これがこの目的の
もう一つの真相に近いだろう。

現在のところ、意識的連環はまだら模様となっていると考え
られ、これを平均化しようという「圧力」が内在的に生じる
ようになったのだと考えられる。このことは全体が一つのも
のであると考えれば必然的に生じてくる観点であるが、こ
れは現在のところ証明されていないことであるし、したがっ
て大衆に認知されているわけのものでない。これよりそうした
ことを述べる者はいないということになるが、真実はこれに
近いだろうと考えられる。

私の場合、妙な偶然的会合などが多いことから、集団ストー
カー被害についての例を熱心に調べるようになったが、全て
を集団ストーカーによって説明することは難しいように思わ
れる。このことは時間的な精密さによるものである。内通に
よっては時間を正確に合わせて行動調整することは難しいと
いうことが多いからである。
 

集団ストーカーとの会合について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年11月 2日(木)22時24分19秒
  集団ストーカーとの考察は重要かもしれない。
実際には、偶然的会合はそれとは無関係に生じ
ているものと考えられるが、集団ストーカーと
の混同があると考えられるからである。
例えば、特定の場所で誰かや何か(多くは車)
と出会うという場合、それが内通によるものな
のか偶然によるものなのかが判断しずらいこと
だろう。
しかしながら、内通による場合には精密な制御
は不可能であるということが言える。つまり、
時間的誤差が生じるということである。
これに対して「意識的結合」関係にある場合の
「自動制御的会合」の場合には、時間が精密に
合うという傾向がある。
このために、複数の無関係な人々がある地点で
同時的に会合するということがよくある。これ
により、会合誤差時間を判断することによって、
集団ストーカーによるものなのかを判断できる
だろう。

なお、現代は携帯などが普通になったため個々
の連絡が容易となったことから、内通は普遍的
な状況だろう。したがって内通によるものなの
か、それとも偶然によるものなのかの区別は
難しいのが現実と言える。
また、単なる偶然的会合との区別も難しいのが
現実である。一般的には確率的に起こりにくい
事象も多数行われれば、その実現性が高くなる。
したがって、ある場合には極めて偶然的なこと
も必然的に生じるようになり、その結果その事象
を極めて意味のあるものと考えることになるので
ある。(それに該当する無意味な事象は全て捨て
られるが故に、その生起性を偶然以上のものと
捉えることになる。しかしながら、そうした全体
事象を捨て去らないで、全体的に判断するように
すれば、何が偶然で何が「必然」なのかを判断
できる。もちろん、この必然性は単なる蓋然性に
すぎないものであるが。)
さらに言えば、集団ストーカーも全体の一部を成
すにすぎないものと捉えることもできるだろう。
つまり、全体的結合性を補完するような動態と捉
えることができる。この意味ではそれとの混同性
は曖昧であると言える。つまり、何が真の原因か
ということはよく分からないということである。

また、行為者と受益者という区分は逆転し得ると
いうことでもある。したがって、支配と被支配と
いうのも逆転し得る。支配している側も被支配側
の暗黙的影響(意識を全体的なものと捉えれば、
動機はそれ自身のみから生じるということにはな
らないからである。欧米人の場合にはこうした傾向
は弱いと考えられるが、集団性の強い民族の場合
にはその限りではないだろう)を受けると考えれ
ば被支配側の行動性も矛盾なく説明できるだろう。
この点において人間の行動性は合理的に捉えきれ
ないということから、現在は科学の埒外にあると
いわざるを得ないだろう。それは全体的視点を喪失
していることからの必然ということになるのである
が。
 

集団ストーカーその2

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月28日(土)20時21分0秒
  話によると、コンビニには防犯カメラが設置されて
いるが、それによって顔認証が行われて、該当の
人物が現れたかどうかが判断できるとされる。
もっともそれはそのデータベースに登録されている
人物に限るということであるが、全ての国民に対し
ても拡充は可能であるから、全員の行動監視も可能
ということになるだろう。まさに監視社会の到来で
ある。

科学や技術の発展は必ずしも望ましい結果とはなる
わけではないようで、今では江戸時代の方が良かっ
たという面も多いようだ。特に町並みは自然との調和
が取れていて、これは石造りの多い欧米とは異なる。
確かに後者は壮麗であることが多いが、自然と調和
しているとは言いがたい。これは現在の街風景とし
て一般的なものである。人が少なくなると、直ぐに
ゴーストタウン化してみるも無残な姿を晒すように
なるのだろう。誰もそれを世話する者がいなくなる
からである。現在の街風景はそれを維持する者が
存在することによってのみ保たれている。
したがって、街は人口の多い場所だけが威勢を保つ
こととなり、それ以外は寂れていくという、しかも
ゴーストタウン化に陥り易いのだろう。
地方の街を歩いてみると、人通りの少ないシャッター
通りが少なくないようであり、これは誠に侘しい感じ
がする。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月28日(土)00時54分57秒
  そして、現在はそれらに加えてインターネット及び
携帯電話等の普及がある。
 

因みに

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月28日(土)00時52分17秒
  最近は集団ストーカーというものがよくあるとされる。
これまた、「ファン・デル・ワールス力」の一種と言える。
これは通常の人間関係による「結合」ではない。
曖昧な結合関係であるから、弱い人間結合関係である。
しかし、それは衆を成すのが一般的であるから、結構強い
結合力になり得る。
そうした無関係な人間に対するストーカー性は芸能人には
よく見られるものであるが、現在はそれが一般人に対して
もよく為されるということである。
こうした風潮が強まってきたのは、現在の情報社会と無関係
ではあるまい。
人々は他人との結合性に飢えているだろうからである。
また、他人と結合することにより、思考エネルギーが自生
または流入するようになるのだと考えられる。
情報社会はまず印刷の発明から生じたと考えられるが、
これは限定的であった。
それが広範なものとなったのは、新聞やラジオの普及
だろう。世界大戦の発生もそれと関係していると考え
られる。人間同士の結合性は情報の共有が第一に必要
とされるからである。
次の転機はテレビの普及だろう。
そして、現在はそれらに加えてインターネット及び
携帯電話等の普及している。
このように人間同士が情報的結合関係にあることから、
結合関係の増大性が人間社会に求められているという
ことになるのだろう。
人間は利には聡いものだからである。

しかしながら、情報的結合関係は全て同様ではないの
で、それには濃淡が生じる。それを一様にしようとい
う企ての一つとして集団ストーカーというものがある
のではないかと考えられる。その動機は一般に個々の
恩讐が元になっていると考えられるが、それは動機で
あって本来の目的ではないのかもしれない。つまり、
人間社会全体からすればそれは単なる動機であって、
目的ではないということである。個々人からすれば
それは目的であるが、社会全体としては違うという
ことである。
集団ストーカー行為という意味のない行動性は、人
間社会における目的ということを考えた場合にのみ
合理的に説明されるだろう。
例えば、バイクによる爆音でも全ての人間が拒絶す
るものではなくて、少なくとも当人はそれを肯定し
ているわけである。そのように、一般に騒音とされ
ているものでも、人によってはそれを好ましいもの
と思うということである。これは人間同士の情報的
結合関係ということにより説明されるものだろう。
ある人はそれによって「エネルギー」を得るという
ことなのだろう。或は情報的無から開放されるとい
うことだろう。
実際、よく「エネルギーを貰った」という表現がな
されるから、実際そのような感じとなるのだろう。
普通、思考的エネルギーは脳自身によって生じるも
のであるから、そのようなエネルギーを貰うという
表現にはならない筈なのである。それが合理的な
考えというものであるが、彼らはそうではないと
主張しているように思える。
 

ファンデルワールス力

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月27日(金)21時43分5秒
  これは密着するほど強くなるのであるから、
男女関係もしくは一般に人間関係のような
ものと言えるだろうか。(同性であっても
微妙に男性性や女性性が異なるということ
になるり、一般にそれらの間には「引力」
が働くと考えられる。)
根性が曲がった者同士は密着性が弱いので
あるから、この男女関係は弱くなると考え
られる。
ひねくれた思考性は高知能型の特徴である
といえ、この男女関係等は一般に弱くなる
と考えられる。
だから、衆を為すのは大衆ということにな
るだろう。(したがって衆を成すなら、そ
の知能を推定し得るということになるかな。
もちろん、金属結合のように同種の集まり
ならば衆を成すこともよくあるだろう。こ
れは優秀な高校や大学にありがちなことで
あるが、一般社会ではは珍しいことだろう。)
 

最充填性は

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月27日(金)21時32分35秒
  金属結合であったね。
イオン結合は異種同士の結合であるから、
一松模様となる。だから、これは金属に
比べて脆いということになると考えられ
る。
金属結合は同種同士のものに限って非構造
的となるのであるから、横滑りが効くとい
うことになる。つまり、曲げに強いという
ことになる。しかし、不純物が混じると構造
が発生して曲げにくくなることになる。
 

それは

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月27日(金)00時09分24秒
  水の場合には水素結合により固体化するからだろ。
つまり、構造的になるということである。
しかも、この場合には六角形を形成することになる。
つまり、隙間ができやすいということ。
他の場合には(液体と個体との相転移が普通のものだ
が)、イオン結合や金属結合が固体として一般的であ
るが、これらは最充填構造をとることになるので、
固体の方が液体よりも密度が高いということになる
だろう。
因みに脂の場合は水素結合によるものではない。
これはファンデルワールス力によるのである。これは
分子同士が密着しているほど強くなる。
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年10月26日(木)12時50分17秒
  氷は水より密度が低いのはなぜか?
 

貧乏人で優秀な人間は

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月25日(水)02時50分5秒
  数学者になるに限ると言える。なぜなら、数学は
紙と鉛筆があれば良いだけであるから。もっと
優秀ならそれらさえ要らないだろう。
とはいえ、パソコンは必要だろう。ま、現在は
それほど高いものではないので、誰でも買える
ようなものである。(30年前とは隔世の感があ
る。30年程前は画期的なゲーム機として登場し
たモノクロ仕様のマックが40万ほどしたのであ
るから。しかもFDDであったし。私は仕事仲間
であった中国人の家に招かれた際に触ることが
できた。彼は実に優秀であったから、中国の発
展は単にインフラ等が解決されればすぐに可能
だろうと予測し得た。彼以外の人も一般的に
利発であった。日本人同士でしばしば見られる
仕事の遅滞性はあまり見られなかった。この理由
はおそらく日本人における意識的集団形成性が
関係しているのではないかと思われる。これに
より以前は集団としての強みを発揮できたわ
であるが、現在ではこれはネットによって代替
可能になった。)
さて、私も物理ではなく、数学をやった方が良
かったと思える。大学では数学の方が自分に合
っているように思えたからである。物理はなに
しろ実験があるし、面倒くさい。それに最先端
のものは数学ができないと話にならないからで
ある。
したがって、物理で頭角を現そうとすれば大学
院に進む必要があり、これは金持ちでない限り
難しいのである。もちろん、アルバイトをすれ
ば可能であるが、物理というのはそういう生易
しいものではないのである。
したがって、貧乏人で物理等の応用科学方面に
進むならば生活の心配のない高校生までの間
に大学レベルに到達する必要があるというわけ
である。(ま、大学は地方の国立大学で良い
だろう。優秀な人間でもわざわざ東京大学等
に入る必要はないだろう。自宅から通えるので
あれば別であるが。最終学歴となる大学院だ
は東京などの有名大学に入れば良いだろう。
大学とは教えて貰う場所ではなく、自ら学ぶ
場所であり、これは高校までとは本質的に異
なる点である。ただしこれは日本の場合である
が。だから、中間はどこでも良いわけである。
以前は高校が最終学歴であることが多かった
わけであるから、高校の格が重視されたわけ
であるが、現在ではこれは単なる足がかりに
すぎないと考えられる。もちろん優秀な人間
だけであれば、優秀な者に対する妬みや疎外
が起き難いという利点はある。)
部活などというやらんでも良いことに精を出し
ている暇などないというわけである。
しかし、運動神経を鍛えるという必要はあるか
もしれない。現実はどこにも危険が潜んでいる
ものであり、それを回避するには運動神経を鍛
える必要があるからだ。(都会は人が多いため
に意外に危険が多い。彼らは実に奇妙な行動性
を示すのである。このため極めて偶発的な事故
が起こり易いのである。しかも極めて正確に
起こり得るのである。このため任意の状況に対
して0.5~1秒未満に反応できるようでなければ
ならないのである。これはブルース・リーが
言う通りであろう。つまり、考えるな、感じろ
というわけである。考えたのでは遅すぎるから
である。鈍くさいということは他の如何なる
優位な点とも相殺し得るものではないと言える。)

以上のような考えは、人生は一回限りであるとい
う観点からは到底容認し得ないものと考えられる
が、逆にそのように考えるからこそ、苦難に陥り
易いのである。したがって、細いルートを辿って
目的に邁進するというのが賢い選択であろうと
思われる。その結果、人生を謳歌し得るというこ
とになるだろう。何事も単純ではないというわけ
である。他人が羨むような人でも彼ら自身は苦悩
に満ちているということは少なくないだろう。
実際そのような例は少なくない。
そのように考えれば、人生というのはゲームその
ものである。ただ漫然と他と同じように生きたの
ではそのゲームに負けることになるのである。
しかしながら、社会はそれを求めているのであり、
それにどう対処するかが常に問われることになる。
人は「ぬるま湯」に浸かりたいがために同和を求
めるのであるが、この同和性におけるぬるま湯に
は大いに危険が潜んでいるのである。例えていえ
ば、ぬるま湯に潜んでいるマムシのようなものと
言える。
 

数学者のこと

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月24日(火)23時37分10秒
  数学者は数字の計算ばかりしているというのは、単に
誇張して述べたわけでなく、実際その通りだという
人物がいるのである。代表的なのはラマヌジャンだろ
う。
彼は適当な数字を見て、それがどういう意味を持つか
ということをすぐに言い当てることができた。
また、ノイマンは数学の計算を頭の中だけで行うこと
ができたことから、数字の計算もお手のものだったろ
う。この頭の中だけで行うことの利点は、問題を見た
だけですぐに解けるようになることである。
したがって、今では時代遅れのものとみなされている
ソロバンはこの意味で有用だろう。後は、代数的操作
に慣れれば、数学の問題は全て頭の中だけで行うこと
が可能というわけである。
これは将棋で何手先も読むというのと似たようなもの
である。これができるようになれば、局面を見ただけ
でそれがいいかどうかすぐに判断できるということに
なるだろう。
 

サ松氏のことなど

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月21日(土)05時11分53秒
  以前にはいたが、最近はほとんど見かけなくなった
サ松氏であるから、少し解説が必要であろう。

他には某早稲田卒の数学氏もいたが、あれほど目立
ちがり屋にも関わらず全く書き込みがないところを
見ると、ネットから引退したか、現世から引退した
か、或はネット禁止を言い付けられたか、というと
ころであろう(彼のオヤジさんは大学教授だったの
で、世間体を気にすればそれは十分に考えれれるこ
とである)。

さて、サ松氏であるが、彼は盛んに湘南卒を自慢し
ていた「インテリ」である。それからも判るように
彼の書き込みはインテリ風である。こうした学歴に
弱かったのが天井氏であったから、彼等は同士とな
っていった。お互い哲学的、衒学的であったから、
似た者同士ということなのだろう。天井氏は常に
権威に弱いようであり、それを仄めかすことによっ
て他者よりも優位な立場にいると考えていたように
も思える。しかし、そうした根拠については殆ど
まともに答えた試しはない。常に仄めかしによって
相手を愚弄するのを唯一の楽しみとしていたようで
あった。
ただ、私が彼が権威として信奉しているヘーゲルを
何の気なしに批判したら、かなり憤慨したようであ
り、それからは私とはほとんど敵対的となった。
つまらぬことでいがみあい、それが継続するという
のはよくありがちで、私の方もそれを解消するとい
う気がないため、彼とは疎遠になった。彼は強硬に
出ることによって、日本人特有の傾向である、その
ような相手に対しては下手に出るというような習性
はほとんど持ち合わせていないため、彼の思惑は
外れたものと思える。彼らがなぜ意味のないことに
執着するのかということは、おそらく彼等のサル山
のボスに対する憧れが強いからではないかと思える。
サルの世界においてはサル山のボスが最終的な目的
であり、そうした本能・目的を満たすことこそが
生において最も重要なことであると考えるのではな
かろうか。
もちろん、人間においてはお金を得ること、高い
地位に就くことなど様々な価値観があれど、本能と
しては他の人間よりも優位に立つという、生物的
欲求に勝るものはないのだろう。か弱き存在と見ら
れている女性においても同様である。彼女らも自己
が強い立場にあると考える場合には、他の人間より
も優位に立とうとするものであり、それこそが唯一
の幸福の源泉であるようだ。他の人間よりも優位に
立っているかどうかを明確に示すものとしては、
他者の支配がある。つまり、他者を支配できるとい
うことによって自己の優位性を認めるのである。

そうした点から考えれば、何故サ松氏がことさら
湘南卒を自慢したかであるが、これは学歴において
は君等よりは僕の方が上だよ、ということを言いた
かったのであろう。(湘南高校は神奈川県トップ
の公立高であるから、大概の田舎の高校よりは上と
いうことになるのである。ここはどうせ田舎者の
集まりだろうという自負から彼が現れたのだと推測
する。しかし、明大卒ということは自慢し得なかっ
た。何故なら、田舎の高校卒でも明大卒は少なくな
いからである。そうした田舎者に対して明確に大卒
を自慢するなら慶応・早稲田卒以上でないと無理だ
ろう。もちろん、東工大というような国立校でもよ
いわけであるが、これは少し知名度的にはマイナス
であり、慶応・早稲田のブランドには負けるという
ことになると思われる。一般人たる相手が知らなけ
れば、「何それ」という事態に陥るからである。つ
まり、それではカッコウが付かないということであ
る。名前を聞いただけで恐れ入る、或は震え上がる
というのでなければ意味がないのである。しかし、
当方は田舎者であるから、湘南高校?、何それという
ことであったから、彼の高校ブランド攻撃は全く意
に介さなかったという訳である。このブランド攻撃
はやはり神奈川県においてのみ絶大な威力を発揮す
るものと思われる。)

さて、そのように湘南高校に強いプライドを持つサ
松氏であるから、常に知性をひけらかす必要がある
ということになるが、そのためには文章をヘーゲル
の如く難解にするのが効果的であると考えているも
のと思われる。もちろん、当のヘーゲルは彼固有の
哲学的思考によってそれに昇華したという訳だろう
が、弁証法なるややこしい思考形式を持たない一般
庶民(や科学者)は「何それ」と思うに違いないの
である。

一方、数学者は昇華ではなく天下りが得意である。
それは初めから公理として相手に要求するからであ
る。しかし、数学の初心者にとっては、やはりそれ
は「何それ」という事態に陥る。天下の公理も彼等
には何の威光もないというわけである。かくして
数学者は世間では日陰の下で生きているというよう
な事態となるのだろう。もちろん、世間の人はお世辞
として、「まぁ、随分と賢い方ですね」と言うかも
しれないが、心の中では「数字の計算ばっかりやって
どこが面白いのかしら」と思っているに違いないので
ある。一般人は高校数学でその知識が止まっているだ
ろうから、数学なんてどうせ大したものでないと考え
ているのである。小学校の鶴亀算よりは少し高尚なも
の、つまり代数によって簡単に解けるという程度の認識
しか持っていないのではないかと推測する。(これは
論理を記号化し、その代数的操作によって簡単に解ける
ということを意味するものであるが。したがって、一般
的には方程式を立てることができれば、後は代数的操作
によって簡単に解けるということを意味する。これは物理
も同様である。もちろん、積分や微分方程式を代数的に
解くということは簡単にはできないが。これは代数演算が
一意的に定められないことに因る。一方、微分は演算が
一意的に定まるので計算が面倒になるということを除外す
れば簡単なのである。)
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年10月18日(水)15時59分18秒
  サマツ懐かしいw
 

教育

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月16日(月)04時21分37秒
  これはトータル的観点から進めていくべきものだろう。
つまり、最終的目的地を定め、全てはそこに収斂する
ようにすべきであると言える。
これが最も効果的な方法であるが、問題は幼児にその
適性があるかどうかがわからないという点に尽きる。
初めからあまり見込みがないのに最終地をそこに定め
たのでは大失敗に陥ることになる。
例えば、親が数学者ならその体系的教育が可能であり、
子供にそれを教育するのは効果的であるが、子供自身
が数学に興味がないのであれば、それは徒労に終わる
ことになる。
したがって、最も良いのは外部から子供に適した専門
家を付けることだろう。そうすれば一般的には中学生
でも大学レベルに到達可能だろう。
そうしない限り、酔っ払いの千鳥足の如く、その進み
は緩慢なものとなるだろう。そこで、それを解消す
るために塾で勉強するというハメに陥ることになる。

そうした実験は興味深いが、誰がその失敗の責を負う
かという問題がある。
 

もっとも

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月16日(月)03時39分6秒
  日本というか、東京に限って言えば、これは絡め手文化
であると言える。特に相手に用があるから話すというわ
けでなく、誰でも良いから自分の相手をして欲しいとい
うような文化(風習)と言える。
したがって、直接的動機はないのであるから、物事を
曖昧にして絡んで行くというわけである。
例えば、ストーカーの仄めかしというような言動とな
るわけである。ストーカーというのは特に相手との
直接的関わりはないわけであるから、直接的言動を
行うことはできないわけであり、そこで間接的言動
によって相手の注意を惹こうとするわけである。
そうして相手との関わりを形成しようとすることに
なる。
そうしたことが習慣となれば、言動にもその傾向が
生じるということになるだろう。彼らが直接的表現
をあまり好まないというのはそこにも原因があるの
だろう。
もっとも直接的批判はケンカの元になるという懸念
もあるのだろうが。これはそうした習性そのものを
修正するべきであり、直接的言動を控えるべきとい
うことにはならない。
彼等は表面上は愛想良く振舞っていても、心の底は
それとは違うということがよくあるが、それでは真
の信頼関係を築くことはできないのである。
おそらく、そうした基本的習性は幼児期に形成され
ると考えるのである。知能が発達していないからと
言って何も判断し得ないと考えるべきではない。
思考は言語のみによって推し量られるものであると
は言えない。幼児は発話者として幼いために思考も
幼いものだというのは大人の固定観念にすぎないだ
ろう。おそらくその幼稚さは大人自身にあるのだと
考えられる。なぜなら、幼児はその鏡にすぎないも
のだからである。大人が幼稚であれば、幼児もまた
幼稚になるのである。このことは大人についても
同様である。
 

基本的に

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月16日(月)03時20分5秒
  論を展開するという文章が好みであって、散文を
展開するというような小説的文章はあまり好みで
ない。
基本的に私は小説を好まないのだ。だから、
ノーベル賞受賞者の小説にも興味はない。
 

論理的に意味不明

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月16日(月)03時17分33秒
  な気がするので、もう少し論点を明確にすべきであるな。
一体、何を言いたいのだろうか。
文句や自己主張があるなら、もっと明確に述べるべき。
相手の機嫌を伺うというような尊宅は、このような場所
には必要のないものだろう。
 

因みに

 投稿者:sirmatu  投稿日:2017年10月14日(土)17時50分10秒
  高校の無償化なら"高等教育"と言うだろう。
なんたって神奈川県立〇×高等学校などというのが正式な名称。法的な概念と合致しているはずで、一応大学の場合は最高学府。されでも一般教養課程とは一般教養の次元として必須科目。そこからの話をしている連中にとって、18歳から政治という一般教養の次元での話を判断することができるだろうか。懐疑的。身の回りのお友達たちでも見てみればよい。最高学府とは言えない専門学校を入れても、未だ50%らしく。しかも一芸入学の割合が急増。更に少子化により定員割れ。と、ここまでは応用問題で、まずは中二病だかなんだかのころでも18、19、20歳あたりの近しい年齢なら、覚えているだろうよ。高齢者はすっかり忘れている筈。パパやママは銭金勘定に忙しく、そんなこと知ったこっちゃなく犯罪だろうがなんだろうが兎に角何やってでもこずるくとも賢く銭金の中に我が子もともにあればそれでよし、とそんなところで成立した法律てなもんだろう。
 

幼児教育

 投稿者:sirmatu  投稿日:2017年10月14日(土)17時31分46秒
  しかし係る教育も幼児期において当人は口に入れて試してみることから口唇期などと呼ばれる。

保育とは「毒を口にすればそこで死んでしまい教育の成果もクソもなきところ」から出てきた概念、とは理解できないものなんだろうか。

監護権・親権をもって権利だと勘違いしている連中がまだいるような今のご時世。あれは半分以上が社会的未熟性に対する養育・管理監督の義務。色々な意味をもって社会性とは何かを係る義務履行者が、あれでは、まぁ保健所でのママちゃんパパちゃん教室の次元でアタッチメントの理解が履行義務者の自己愛や"どこの家のもん"的な所在に係ると感覚されているようでは、お郷の次元もそこまでなんだろう。
 

自発的意識

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月28日(木)00時31分0秒
  は幼少期を通じて形成されるものだろう。
その意味で幼児教育は重要と言える。
大天才(真の天才とも)として名を馳せた
ノイマンも幼児期から高度な教育を受けて
きた。
スポーツも同様だろう。才能は必要である
としてもそれは十分条件ではない。才能に
加えて幼少期からの研鑽が重要なのだろう。
そのように幼児教育は重要であるからと言っ
てそれを過大評価するのは誤りだと思われる。
つまり、大方の幼児教育は幼児的知能に合わ
せて行われており、それは幼児に単なる知識
や行動様式を形成させるものにすぎないので
はないかと思われるからである。
それは社会性を持たせるためには重要である
としてもそれぞれの個性を開花させるもので
はないと思われる。
むしろ自発的意識の形成を阻害するものにな
りはしないかと危惧するのである。
つまり、一般的には幼児教育は幼児の安全性
を最重視するために幼児をある枠に閉じ込め
ることになるものである。したがって、それ
は幼児の自発的意識の形成を阻害するものと
なるだろう。
ノイマンは非常に優秀であったものの、彼自
ら発想を展開するということはあまり無かっ
たのではないかと思われる。他人が抱えてい
る難問を片っ端から解くということはあって
も、自ら何らかの理論を発展させるという傾向
は少なかったように思われる。世間が問題に
していることを見つけてはそれを解くという
行動性が多かったように思われる。
したがって、彼自ら量子力学を創造すること
はなかっただろう。こうした特性は他の大天才
であったアインシュタインとは性質を異にする
ものと言える。
幼児教育はノイマン級の天才を生む可能性はあ
るものの、アインシュタイン型の天才を生む
可能性は低いのではないかと思われる。
もし早期幼児教育が幼児の知能に合わせたも
のにすぎなければ、世間並みかそれより少し
賢い人間を生むことはあっても、それ以上の
効用はないように思われる。
もしそうであるならば、真の天才にとっては
有害無益となるだろう。なぜなら、それはそ
の才能を抑圧するものになるだろうからであ
る。もし子供が真に優れていて、それに幼児
教育を行おうとするならば、他の幼児とは
独立に高度な教育を行うべきだろう。
人間は徐々に知能を高める生物というよりは
もともとある知能を持って生まれていると考
えるべきものだろう。したがって、幼児教育
その本来の知能に合わせて行うべきであると
言える。もしそれができないのであれば、
親などは余計な干渉をするべきでないと言え
る。
近年は自発的意識の形成があまり出来ていな
い人が多いためか、他人の命令に唯々諾々と
従う人が多いように思われる。それが単なる
処世術であればまだ良いとしても、そうでは
なくて、それが行動様式となっているのであ
ればそれは単なるロボットにすぎないのであ
る。見た目は人のようであっても、実質的に
はロボットであるということである。
そして、ロボットにすぎないのであれば他人
の意志によって容易に解体や遺棄されること
にもなる。
 

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