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サ松氏のことなど

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月21日(土)05時11分53秒
  以前にはいたが、最近はほとんど見かけなくなった
サ松氏であるから、少し解説が必要であろう。

他には某早稲田卒の数学氏もいたが、あれほど目立
ちがり屋にも関わらず全く書き込みがないところを
見ると、ネットから引退したか、現世から引退した
か、或はネット禁止を言い付けられたか、というと
ころであろう(彼のオヤジさんは大学教授だったの
で、世間体を気にすればそれは十分に考えれれるこ
とである)。

さて、サ松氏であるが、彼は盛んに湘南卒を自慢し
ていた「インテリ」である。それからも判るように
彼の書き込みはインテリ風である。こうした学歴に
弱かったのが天井氏であったから、彼等は同士とな
っていった。お互い哲学的、衒学的であったから、
似た者同士ということなのだろう。天井氏は常に
権威に弱いようであり、それを仄めかすことによっ
て他者よりも優位な立場にいると考えていたように
も思える。しかし、そうした根拠については殆ど
まともに答えた試しはない。常に仄めかしによって
相手を愚弄するのを唯一の楽しみとしていたようで
あった。
ただ、私が彼が権威として信奉しているヘーゲルを
何の気なしに批判したら、かなり憤慨したようであ
り、それからは私とはほとんど敵対的となった。
つまらぬことでいがみあい、それが継続するという
のはよくありがちで、私の方もそれを解消するとい
う気がないため、彼とは疎遠になった。彼は強硬に
出ることによって、日本人特有の傾向である、その
ような相手に対しては下手に出るというような習性
はほとんど持ち合わせていないため、彼の思惑は
外れたものと思える。彼らがなぜ意味のないことに
執着するのかということは、おそらく彼等のサル山
のボスに対する憧れが強いからではないかと思える。
サルの世界においてはサル山のボスが最終的な目的
であり、そうした本能・目的を満たすことこそが
生において最も重要なことであると考えるのではな
かろうか。
もちろん、人間においてはお金を得ること、高い
地位に就くことなど様々な価値観があれど、本能と
しては他の人間よりも優位に立つという、生物的
欲求に勝るものはないのだろう。か弱き存在と見ら
れている女性においても同様である。彼女らも自己
が強い立場にあると考える場合には、他の人間より
も優位に立とうとするものであり、それこそが唯一
の幸福の源泉であるようだ。他の人間よりも優位に
立っているかどうかを明確に示すものとしては、
他者の支配がある。つまり、他者を支配できるとい
うことによって自己の優位性を認めるのである。

そうした点から考えれば、何故サ松氏がことさら
湘南卒を自慢したかであるが、これは学歴において
は君等よりは僕の方が上だよ、ということを言いた
かったのであろう。(湘南高校は神奈川県トップ
の公立高であるから、大概の田舎の高校よりは上と
いうことになるのである。ここはどうせ田舎者の
集まりだろうという自負から彼が現れたのだと推測
する。しかし、明大卒ということは自慢し得なかっ
た。何故なら、田舎の高校卒でも明大卒は少なくな
いからである。そうした田舎者に対して明確に大卒
を自慢するなら慶応・早稲田卒以上でないと無理だ
ろう。もちろん、東工大というような国立校でもよ
いわけであるが、これは少し知名度的にはマイナス
であり、慶応・早稲田のブランドには負けるという
ことになると思われる。一般人たる相手が知らなけ
れば、「何それ」という事態に陥るからである。つ
まり、それではカッコウが付かないということであ
る。名前を聞いただけで恐れ入る、或は震え上がる
というのでなければ意味がないのである。しかし、
当方は田舎者であるから、湘南高校?、何それという
ことであったから、彼の高校ブランド攻撃は全く意
に介さなかったという訳である。このブランド攻撃
はやはり神奈川県においてのみ絶大な威力を発揮す
るものと思われる。)

さて、そのように湘南高校に強いプライドを持つサ
松氏であるから、常に知性をひけらかす必要がある
ということになるが、そのためには文章をヘーゲル
の如く難解にするのが効果的であると考えているも
のと思われる。もちろん、当のヘーゲルは彼固有の
哲学的思考によってそれに昇華したという訳だろう
が、弁証法なるややこしい思考形式を持たない一般
庶民(や科学者)は「何それ」と思うに違いないの
である。

一方、数学者は昇華ではなく天下りが得意である。
それは初めから公理として相手に要求するからであ
る。しかし、数学の初心者にとっては、やはりそれ
は「何それ」という事態に陥る。天下の公理も彼等
には何の威光もないというわけである。かくして
数学者は世間では日陰の下で生きているというよう
な事態となるのだろう。もちろん、世間の人はお世辞
として、「まぁ、随分と賢い方ですね」と言うかも
しれないが、心の中では「数字の計算ばっかりやって
どこが面白いのかしら」と思っているに違いないので
ある。一般人は高校数学でその知識が止まっているだ
ろうから、数学なんてどうせ大したものでないと考え
ているのである。小学校の鶴亀算よりは少し高尚なも
の、つまり代数によって簡単に解けるという程度の認識
しか持っていないのではないかと推測する。(これは
論理を記号化し、その代数的操作によって簡単に解ける
ということを意味するものであるが。したがって、一般
的には方程式を立てることができれば、後は代数的操作
によって簡単に解けるということを意味する。これは物理
も同様である。もちろん、積分や微分方程式を代数的に
解くということは簡単にはできないが。これは代数演算が
一意的に定められないことに因る。一方、微分は演算が
一意的に定まるので計算が面倒になるということを除外す
れば簡単なのである。)
 
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年10月18日(水)15時59分18秒
  サマツ懐かしいw
 

教育

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月16日(月)04時21分37秒
  これはトータル的観点から進めていくべきものだろう。
つまり、最終的目的地を定め、全てはそこに収斂する
ようにすべきであると言える。
これが最も効果的な方法であるが、問題は幼児にその
適性があるかどうかがわからないという点に尽きる。
初めからあまり見込みがないのに最終地をそこに定め
たのでは大失敗に陥ることになる。
例えば、親が数学者ならその体系的教育が可能であり、
子供にそれを教育するのは効果的であるが、子供自身
が数学に興味がないのであれば、それは徒労に終わる
ことになる。
したがって、最も良いのは外部から子供に適した専門
家を付けることだろう。そうすれば一般的には中学生
でも大学レベルに到達可能だろう。
そうしない限り、酔っ払いの千鳥足の如く、その進み
は緩慢なものとなるだろう。そこで、それを解消す
るために塾で勉強するというハメに陥ることになる。

そうした実験は興味深いが、誰がその失敗の責を負う
かという問題がある。
 

もっとも

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月16日(月)03時39分6秒
  日本というか、東京に限って言えば、これは絡め手文化
であると言える。特に相手に用があるから話すというわ
けでなく、誰でも良いから自分の相手をして欲しいとい
うような文化(風習)と言える。
したがって、直接的動機はないのであるから、物事を
曖昧にして絡んで行くというわけである。
例えば、ストーカーの仄めかしというような言動とな
るわけである。ストーカーというのは特に相手との
直接的関わりはないわけであるから、直接的言動を
行うことはできないわけであり、そこで間接的言動
によって相手の注意を惹こうとするわけである。
そうして相手との関わりを形成しようとすることに
なる。
そうしたことが習慣となれば、言動にもその傾向が
生じるということになるだろう。彼らが直接的表現
をあまり好まないというのはそこにも原因があるの
だろう。
もっとも直接的批判はケンカの元になるという懸念
もあるのだろうが。これはそうした習性そのものを
修正するべきであり、直接的言動を控えるべきとい
うことにはならない。
彼等は表面上は愛想良く振舞っていても、心の底は
それとは違うということがよくあるが、それでは真
の信頼関係を築くことはできないのである。
おそらく、そうした基本的習性は幼児期に形成され
ると考えるのである。知能が発達していないからと
言って何も判断し得ないと考えるべきではない。
思考は言語のみによって推し量られるものであると
は言えない。幼児は発話者として幼いために思考も
幼いものだというのは大人の固定観念にすぎないだ
ろう。おそらくその幼稚さは大人自身にあるのだと
考えられる。なぜなら、幼児はその鏡にすぎないも
のだからである。大人が幼稚であれば、幼児もまた
幼稚になるのである。このことは大人についても
同様である。
 

基本的に

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月16日(月)03時20分5秒
  論を展開するという文章が好みであって、散文を
展開するというような小説的文章はあまり好みで
ない。
基本的に私は小説を好まないのだ。だから、
ノーベル賞受賞者の小説にも興味はない。
 

論理的に意味不明

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年10月16日(月)03時17分33秒
  な気がするので、もう少し論点を明確にすべきであるな。
一体、何を言いたいのだろうか。
文句や自己主張があるなら、もっと明確に述べるべき。
相手の機嫌を伺うというような尊宅は、このような場所
には必要のないものだろう。
 

因みに

 投稿者:sirmatu  投稿日:2017年10月14日(土)17時50分10秒
  高校の無償化なら"高等教育"と言うだろう。
なんたって神奈川県立〇×高等学校などというのが正式な名称。法的な概念と合致しているはずで、一応大学の場合は最高学府。されでも一般教養課程とは一般教養の次元として必須科目。そこからの話をしている連中にとって、18歳から政治という一般教養の次元での話を判断することができるだろうか。懐疑的。身の回りのお友達たちでも見てみればよい。最高学府とは言えない専門学校を入れても、未だ50%らしく。しかも一芸入学の割合が急増。更に少子化により定員割れ。と、ここまでは応用問題で、まずは中二病だかなんだかのころでも18、19、20歳あたりの近しい年齢なら、覚えているだろうよ。高齢者はすっかり忘れている筈。パパやママは銭金勘定に忙しく、そんなこと知ったこっちゃなく犯罪だろうがなんだろうが兎に角何やってでもこずるくとも賢く銭金の中に我が子もともにあればそれでよし、とそんなところで成立した法律てなもんだろう。
 

幼児教育

 投稿者:sirmatu  投稿日:2017年10月14日(土)17時31分46秒
  しかし係る教育も幼児期において当人は口に入れて試してみることから口唇期などと呼ばれる。

保育とは「毒を口にすればそこで死んでしまい教育の成果もクソもなきところ」から出てきた概念、とは理解できないものなんだろうか。

監護権・親権をもって権利だと勘違いしている連中がまだいるような今のご時世。あれは半分以上が社会的未熟性に対する養育・管理監督の義務。色々な意味をもって社会性とは何かを係る義務履行者が、あれでは、まぁ保健所でのママちゃんパパちゃん教室の次元でアタッチメントの理解が履行義務者の自己愛や"どこの家のもん"的な所在に係ると感覚されているようでは、お郷の次元もそこまでなんだろう。
 

自発的意識

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月28日(木)00時31分0秒
  は幼少期を通じて形成されるものだろう。
その意味で幼児教育は重要と言える。
大天才(真の天才とも)として名を馳せた
ノイマンも幼児期から高度な教育を受けて
きた。
スポーツも同様だろう。才能は必要である
としてもそれは十分条件ではない。才能に
加えて幼少期からの研鑽が重要なのだろう。
そのように幼児教育は重要であるからと言っ
てそれを過大評価するのは誤りだと思われる。
つまり、大方の幼児教育は幼児的知能に合わ
せて行われており、それは幼児に単なる知識
や行動様式を形成させるものにすぎないので
はないかと思われるからである。
それは社会性を持たせるためには重要である
としてもそれぞれの個性を開花させるもので
はないと思われる。
むしろ自発的意識の形成を阻害するものにな
りはしないかと危惧するのである。
つまり、一般的には幼児教育は幼児の安全性
を最重視するために幼児をある枠に閉じ込め
ることになるものである。したがって、それ
は幼児の自発的意識の形成を阻害するものと
なるだろう。
ノイマンは非常に優秀であったものの、彼自
ら発想を展開するということはあまり無かっ
たのではないかと思われる。他人が抱えてい
る難問を片っ端から解くということはあって
も、自ら何らかの理論を発展させるという傾向
は少なかったように思われる。世間が問題に
していることを見つけてはそれを解くという
行動性が多かったように思われる。
したがって、彼自ら量子力学を創造すること
はなかっただろう。こうした特性は他の大天才
であったアインシュタインとは性質を異にする
ものと言える。
幼児教育はノイマン級の天才を生む可能性はあ
るものの、アインシュタイン型の天才を生む
可能性は低いのではないかと思われる。
もし早期幼児教育が幼児の知能に合わせたも
のにすぎなければ、世間並みかそれより少し
賢い人間を生むことはあっても、それ以上の
効用はないように思われる。
もしそうであるならば、真の天才にとっては
有害無益となるだろう。なぜなら、それはそ
の才能を抑圧するものになるだろうからであ
る。もし子供が真に優れていて、それに幼児
教育を行おうとするならば、他の幼児とは
独立に高度な教育を行うべきだろう。
人間は徐々に知能を高める生物というよりは
もともとある知能を持って生まれていると考
えるべきものだろう。したがって、幼児教育
その本来の知能に合わせて行うべきであると
言える。もしそれができないのであれば、
親などは余計な干渉をするべきでないと言え
る。
近年は自発的意識の形成があまり出来ていな
い人が多いためか、他人の命令に唯々諾々と
従う人が多いように思われる。それが単なる
処世術であればまだ良いとしても、そうでは
なくて、それが行動様式となっているのであ
ればそれは単なるロボットにすぎないのであ
る。見た目は人のようであっても、実質的に
はロボットであるということである。
そして、ロボットにすぎないのであれば他人
の意志によって容易に解体や遺棄されること
にもなる。
 

教育とは

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月17日(日)21時59分58秒
  生徒に教え込むことではない。
教示することであろう。
この点でスパルタ教育は正しくない。
これはスポーツ教育のやり方を真似たもの
と言えるが、頭脳に対しては正しくはない
のである。頭脳は筋肉と違って鍛えるもの
ではないから。

一般に賢い人間というのは大概母親が優れて
いるものだろう。母親が教育において重要で
あるのは、脳の発達が最大となる幼児時代を
密に接しているからと言える。
もっともアインシュタインのような例もある。
これは元々天才的資質のある者が家庭内から
の悪影響を避けるためであったとも考えられ
る。殆ど彼が話さなかったのは、俗的精神か
らの影響を避けるのに効果があったと言える。
そうした認識は幼児にはまだ分からないもの
と思われ、大人になって初めて理解されるも
のだろう。
また、ガウスも親からはあまり期待されてい
なかったようで、親からの悪影響はあまり無
かったと思われる。
そのようにすべからく強制による教育という
のは真の意味で知的発達を促すものではない
だろう。
スパルタ教育或は詰め込み教育はあまり正し
いものとは言えない。これはスポーツについ
ても正しいだろう。他からの強制によるより
自ら努力する者だけが真の高みに到達し得る
だろう。これは野球でいえば、王氏やイチロ
ー氏が典型的である。しかし、それはマスコ
ミの賞賛を得るために自ら努力するというも
のではない。それは見せかけの努力である。
他からの賞賛を得ようとする努力はすべから
く偽りの努力と言える。
したがって、テストの点数を気にしたり、親
や教師の評価を気にして勉強しようとするの
は誤った努力と言える。親は子に勉強させる
ために金品で釣ったりしてはいけない。
 

中学受験

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月17日(日)02時12分14秒
  中高一貫校なら仕方ないだろうと思う。
ま、単なる選別であって学力を調査する
ものではないとも思われる。
しかし、近年は学力低下が言われている
ことでもあるし、読み書きソロバンに難
がある生徒もいるかもしれないから仕方
ないのでは。最近は恐ろしいことに大学
で算数を教えることもあるようだし。

それに優秀な者同士は集まるのが効果的
だろう。でないと、村八分になるのだ。
東京辺りでは生徒の選別は必須だろうか
ら、当然的だろう。勉強それ自体にはさ
して意味があるわけではないだろうが、
選別という意義は大きいのである。
一方、村八分を回避するために、わざと
「阿呆」を演じるという手もあるかもし
れない。ま、単に学校の勉強はそこそこ
にして、他のことを熱心にやるというこ
とであるが。
例えば、中学で大学の微積分を理解する
というのも良いかも知れない。数学の理解
は大変なので、早くから始める方が良いの
だ。少なくとも高校数学は中学生の時に
終えているべきだ。無駄な問題解きに明け
暮れているべきでない。
 

所で

 投稿者:なし  投稿日:2017年 9月16日(土)22時52分8秒
  中学受験てどう思う?
無駄な努力のようにも思うが
小学生に徒らにガリ勉させてるだけw
地方の教育受けた者からすると

本当に優秀なやつはさして労せずに灘とかに入れるんだろうが
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月12日(火)21時33分39秒
  手塚治虫であったね。マンガという、一般的には低俗と
思われていることから偉人とは見なされないが、その
実態は偉人というべきものに相応しい。或は、驚異的
人物と言うべきか。
 

偉人その2

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月12日(火)21時29分53秒
  世間ではその実態があまり知られてないが故に
偉人と見なされていない人がある。
南方氏もその一人と思われるが、他にはマンガ
の「神様」と言われた手塚治もそうだろう。
個々のマンガは主に少年向けに書かれたもので
あることから、最近の劇画調のものに比べれば
画のタッチや内容が少し安易な印象を受けたり
もするが、少年の認知・理解能力を考慮しての
こととすれば妥当なものだろう。もっとも近年
の安易すぎるものに比べれば十分に高度である
と言える。
手塚氏のマンガといえば鉄腕アトムが代表的だ
ろう。私の氏に対する印象はそれである。内容
は少年向けであることから、それほど高度な
内容というものではない。少年にも容易に理解
されるものである。
そのため、私は氏を単なるマンガ家の一人と思っ
ていたわけである。
しかし、彼の実態を知って驚いた。彼は医学部に
合格し、医者の資格を得ているわけであり、確か
に頭の良い人という認識はあった。しかし、これ
はマンガ著作の合間に勉強してのことのようであ
るから、必死に勉強しての結果ではない。
だから相当に頭が良いと思われる。おそらく天才
級だろう。(IQ150以上が天才級ということのよう
だが、これは単なる閾値にすぎず、天才を定義す
るものではないが)。
それに、不眠不休で複数の連載を同時に進めてい
たのであるが、これは常人の為せる業とは言えな
い。そんな状態が何年も続いていたのである。
彼がマンガの神様と呼ばれたのが、それで納得す
ることができた。
また、彼の下で多数のマンガ家が輩出し、それぞ
れがその道の大家となっていったのであるから、
この功績も大きいだろう。私がその時代に生きた
ことは大きな幸運であったと言える。
現在は情報的やモノ的に幸福な時代であるが、そ
れとは別の幸福である。情報的幸福という意味で
は似ているが、それらには質的相違がある。
 

専門書の値段

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月12日(火)21時02分57秒
  としては少し高い程度だが、専門的内容があまり
ないだろうという意味で高すぎ、と言ったまで。
数学的読み物ならば高くても3千円程度が相場だ
ろうと思った。
専門書ならば4,5千円くらいのものはよくある。
(珍しい中古本なら1万近くするものもある。)
必要ならば購入するだろう。
それに本は1冊だけ買うものではなくて、何冊
も買うものであり、1冊がそれほど高くなくと
も何冊にもなれば相当の金額となるだろう。
その意味で妥当な値段というものがあるという
ことである。
ま、ソープなどに行く金にしたらお安いものか
もしれない。しかし、これは価値観の問題であ
る。
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年 9月12日(火)19時32分20秒
  つっても、飲み屋・料理や一回分
でも、皆何故か、本には金かけない
何故だろう

経済学などの歴史もある
数学は伊藤清やウィーナーのモデルの周辺ばっか
少し立ち読みしたが
 

科学の発展は

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月11日(月)20時03分5秒
  人類を幸福にするかという大問題があるかと思う。
学者はこれには全く配慮せずに発展させるわけで
あるが、この成果は他の人々と共有される。
一般に知的に発達すればそれなりに常識というも
のを備えることになるものだ。その意味で、学者
が学問の研究をすることはある程度の常識を持っ
て活用されるものだと考えるだろう。
しかし、現実はどのような国家にも活用され得る
ものであることが露呈してきた。
したがって、核の相互報復ということによる安定
は継続し得ないものだろう。何れ地球は核戦争に
よって滅ぶことになろう。(国家間の憎悪は決し
て解決されないもののようである。これは個々の
人間関係と同様である。この理由は人間というの
は理性よりも感情の方が上回るものだからである。
つまり道理によっては決して解決されることがな
いというのがその理由である。所詮、人間はサル
よりは少し賢いという程度の生き物なのである。)
 

数学の読み物

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月11日(月)19時48分0秒
  としては高すぎ!!
中味を知らないので何とも言えないが、歴史という
くらいだから、専門的な内容はあまり書かれていな
いのでは。
ま、ブルバキのようなものもあるから、高度な内容
ということもあるかな。これは数学の歴史の読み物
としても素晴らしいものであった。これは本論の
オマケであったが。
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年 9月10日(日)19時00分12秒
  https://www.amazon.co.jp/dp/4322128629

★んとこ(数学)出たのが書いてる どう思う?
読み物としてはいいんでは
バシュリエはポアンカレの弟子?
 

人間社会などの雑感

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月 2日(土)03時51分10秒
  人間社会が何故高度に発展し得たのかという根底として
は、ヒトにおけるしがみつき性質も大いに関係している
と考えられる。これはサルが樹上で生活するために小猿
が獲得した本能と考えられるが、この性質があることに
よって、人間社会は高度に組織化されることになったの
だと考えられる。
つまり、この性質は同類に対して意味はなくともしがみ
つくという行動性を生じさせることによって、任意な集団
において結合性を生じさせるだろうからである。
もちろん、ヒトが二足歩行を獲得することによって頭蓋が
安定することになり、脳が大きくなり得たということも大
きいだろう。
また、唇等の進化によって発声が高度になり、言語を発達
させることが可能になったことも大きいと言える。
さらには、二足歩行によって尻の下部が隠れることになり、
雄の尻に対する性的関心は低下することになったと考えら
れるが、これは女性の胸の発達によって擬似的尻となって、
(ヒト科の)雄の関心の強さは背面から前面に変わってき
たのだと考えられる。この結果、前面にある大きな形態特
徴である顔に対する認識能力が高まったのだろう。これより、
顔が個体を識別する大きな特徴になり得たのだと考えられる。
(同じヒト科でも白人と東洋人とでは顔認識が異なるよう
で、白人の場合、東洋人の認識が難しくなるようである。
これは種における顔認識の発達性の違いに起因するものだ
ろう。つまり、ヒトが顔を認識することができるのは自明
ではないということである。)他には太っているか痩せて
いるかということも個体識別として大きな要因となるだろう。

とすれば、他の部分は隠しても何も問題がないわけである。
この結果、体全体を衣服で覆うことが可能になるというわ
けである。(もちろん、1個体だけを考えれば、他の個体の
認識は必ずしも必要ではないが、そうなると種の繁栄が
困難となるわけであり、それは種の衰退を招くことになる
だろう。)
このことによって、ヒト科の生存性が高まるということに
なる。また、それによって熱帯から寒帯にまで生息域を拡大
することが可能となる。
なお、ヒトやサルの場合、ビタミンCを体内で作ることができ
ないため、これは食物から摂取する必要がある。熱帯では果物
が豊富にあるため、その摂取は容易であるが、寒帯ではそれが
難しい。このため、果樹や野菜の栽培を必要とすることになる。
つまり、熱帯以外のヒト科では農耕が必ず必要になるというこ
とである。農耕は一般に個体では無理であるから、必然的に
社会を形成するということになる。その意味で社会性はヒト科
にとって必要欠くべからざる特徴と言える。
ただし、この社会性は黒人・白人と東洋人では少し異なる。
東洋人の方が社会性が強い。これは何故かといえば、昔アジア
地方は寒帯だったということである。したがって、農耕が必要
となり、社会性を強めていったのだと考えられる。
因みに、DNA的には白人は東洋人よりは黒人に近い。したがって
彼等は結構仲違いしているようでも、相性は良いということに
なるのだろう。双方の繁殖性は弱いが(皮膚の色が正反対であ
るから)、社会生活においてはそれほど違和感はないと考えら
れる。(見た目の違いは慣れによって容易に緩和されることに
なるものである。またそうでなければ夫婦仲は継続し得ない。
つまりそうでなければ種としての継続が難しくなる。)
西洋人が南米大陸を発見した際、この土着民族である東洋系の
人々との相性が良くなかったのは社会性の違いに起因していた
とも考えられる。彼等は白人に使役されることを拒否していた
ようであるから。
一方、近年においては東洋人である日本人とアメリカ人とは仲
が良くなったが、これは文化的類似性によるものだろう。なに
しろ、日本は明治時代に旧暦から西洋の暦である新暦への大転
換を行ったからである。暦は農耕などにおいて非常に重要なも
のであり、この転換は社会的に大きな困難を伴う。しかし、こ
の大転換は新たに発足した明治政府の財政事情による苦肉の策
であったのである。旧暦では13ヶ月になることも多いが、新暦
では常に1年は12ヶ月であるから、差分の一ヶ月を誤魔化すこと
ができるというわけである。
しかし、結果的にはそれが西洋文化との親和性が高められるこ
とになって、科学的発展に寄与することになったのだろう。
ただし、親和性が高まったのは西洋文化に対してであり、西洋人
に対してではない。これは日本人の母音に対する認識性の違い
に起因するものだろう。つまり、英語の母音の数は日本語のもの
よりも多いために、英語の聞き取りに苦労するということになる。
したがって、英語を聞き取ることができないということは話せな
いという結果になるのであるから、西洋人との親和性は低いとい
うことである。こうしたことが太平洋戦争に結びついて行ったの
だろう。国力を考えれば、先進国の大国であるアメリカと戦争す
るというのはあまりにも無謀であるのは容易に理解できたにも関
わらず、それに向かって行ったのは人種的親和性に大きな問題が
あったからと言える。言語としては英語の方が日本語に対する
親和性が高いと言える。ただし、単語の発声認識としてであるが。
文字認識ということでは逆になる。ここから奇妙な事態が発生す
ることになるだろう。文化としては日本→アメリカとなるが、
人的親和性ではアメリカ→日本ということになろう。単語の発声
認識は日本語の方が遥かに容易であろうから。とはいえ、この
人的親和性も矛盾した事態を抱える。容姿的嗜好では、日本→
アメリカであるから。したがって、人的親和性は一方通行のもの
ではなくて、双方向のものと言える。このことが、戦後において
日本とアメリカとが同盟関係を形成・維持することになった理由
の一つと考えられる。日本が中国大陸の獲得を放棄することにな
った以上、敵対関係を継続する必要がなくなったというのも大き
いだろう。現在では、中国の方が日本よりも経済的などに大きく
なり、日本はその野望を達成することは単独ではもはや不可能と
なった。
しかし、アメリカとの同盟関係を継続すれば、その可能性は無き
にしも非ずであるが、それを容認するほどアメリカは甘くはないだ
ろうと思える。したがってその野望は叶わぬ夢になったと言える。
(もし日本が中国大陸を獲得することができれば、現在の中国が
世界を制覇できるような状況に近づいたことから見ても、日本が
世界を制覇するということも可能であったろう。したがって、
中国大陸の制覇は秀吉時代からの日本の悲願であったのだろう。
日本統一が成れば、次はそれになるのは必定であったのかもし
ない。しかし、中国大陸は日本とは違い、あまりにも広すぎた
というのが、大きな誤算であったと言える。元から、中国は国
が発生してはまた新たな国が生じるというように、一つの国が
これを維持するのは難しいものだからである。)
 

会合性について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 9月 1日(金)19時57分49秒
  以下のようなことは、複数の人間による嫌がらせプレー
と考える向きもあるだろう(或は単なる絡みつき、しが
みつき行為とも言える。このような傾向はサルから進化
したものに特徴的なものなのかもしれない。幼猿が母猿
にしがみついて扶養されるということが、本能として人
間にも残っているのだろう。或は単なる嗜好性とも言え
る)。確かにそうした事例が認められるようである。
しかし、以下の会合性は極めて偶然性が高く、したがっ
てそれを意図的に引き起こすことは難しいのである。
この意味で、それは意図的なものとは言えない。
実に不思議な現象なのである。
しかも、法則性があり、これは人間の意図とは全く無関
系なものである。これは意図によらず認識によるもので
あるが。
 

補足

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 8月27日(日)04時54分59秒
  未来決定性は移動可能性や移動容易性と関係し、
したがってそれらが大きいものほど会合性が高
まるということになるだろう。実際、そのよう
でもある。
ただし、移動可能性が低い場合には、待ち伏せ
戦術が多く用いられることになるだろう。
共によく見られる傾向である。
 

しかし

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 8月27日(日)04時38分29秒
  確定未来は一方が知り、他方は知らないという
状況をもたらす。それを知るのは、未来を決定
する側、即ち行動する側である。
彼等は無意識にそれを知り、行動を決定するの
だろう。或は、そのように行動が操作されると
いうことになるだろう。
人間は自立的に行動すると考えられているが、
実はこの逆で大いなるものの操作下にあるのだ
と考えられる。或は、予兆や予測として各自に
示され、その啓示に従うということになるのだ
ろう。
 

確定未来について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 8月26日(土)22時58分9秒
  物質の状態は確率的状態にあり、未来は確定されていない。
これは物質的観点のものである。
物質の場合でも、多数の粒子からなるものの挙動は統計的
にほぼ確定的となり、これが古典的世界観を形成する。
巨視的にはミクロ的不確定さは実験誤差未満のものとなり、
したがってそれは検出され得ず、計測は確定的なものとな
る。
しかしながら、巨視的存在である人間などの場合、認識は
不確定的になると言える。なぜなら、例えば網膜上の反応
は量子的反応だからである。1光子が網膜上の分子と反応
して、神経インパルスを生じさせるものとなるからである。
また、脳内の反応も分子的反応であるから(金属の場合に
は電子的反応であり、これは多数の電子が関係すること
から統計的に確定的なものとなる。つまり、これは古典的
世界観に属するものである。同様に巨視的物体ながらも、
生物の反応と無機的物体の反応とでは物理的世界観は異なる
ものと言える)、 生物の行動は不確定的なものと言えるだ
ろう。
しかし、生物には意識が存在すると考え、これには意志が
発生することから、意志的に未来が確定されることになる。
この未来確定性は統計的確定性とは基本的に異なるもので
ある。
さて、人間の場合も意志によって未来が確定されるという
場合、確定未来に対してそれぞれの行動性が変化するとい
うことが考えられる。
つまり、ある時点である未来が確定したという場合、この
確定未来を認識し(これは無意識的なものだろう。この未来
は完全には確定的ではないからである。これに対する意志と
この時空点がある程度確定するというだけであるから。この
未来認識は物理的反応というよりは予想的なものと言える)、
それに向けて行動を開始するということになるだろう。
また、それが無意識的なものであるのは、その未来をそれぞ
は認識し得ないだろうからである。この認識は全体を認識
し得る存在だけが可能と言える。この存在が各自に予兆と
して知らせるということになるのだろう。
そしてこのことが、偶然的会合が何故必然的に生起され得る
のかという疑問に答えるものとなるだろう。
 

それは

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 8月26日(土)22時54分56秒
  集団心理だろうと思われる。
空気を読むという場合には、周りの考えを読むということ
であるが、先の戦争ではある考えが集団によって形成され、
それを多数の国民が支持したということだろう。
この背景には関東大震災等が大きな影を及ぼしていたと考
えられる。
これは博打の場合と同様だろう。負ける場合のリスク回避
よりは勝つことによる利益や高揚感の方を優先するという
のと同じだろう。それによる大きな苦痛や損害はまだ存在
しないものであり、したがってそれは考慮に値しないもの
となるのである。
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年 8月26日(土)15時45分16秒
  空気
単に心理学の影響は?

社会学者で空気が先の戦争へと日本を導いた
と言った人がいるが
 

空気を読む

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 8月22日(火)19時50分16秒
  という妙な風潮が生じたのも(もっともこれは昔から
だったと思われる。以前は常識であったから、特に
言われることが無かったのだろうが、最近は自己中な
人が多くなったようでもあり、この当たり前のことが
世間的に主張されるようになったのだろう)、他者を
自己の世界観の中心に置くということから自然に生じ
たものと思われる。おそらく、中国人やアメリカ人で
は考えられない主張であると思われる。
なぜなら、周りの雰囲気に合わせる、つまり他人の言動
に合わせるということは自己の主体性を失うものとなる
からである。
それは自己の中心性を失っているが故に、外部的世界に
意識の関心が向かっているという状態にあるからだろう。
これは認識におけるカメレオンなのである。外部が変化
すればそれに応じて自己の意識も「色」を変えるという
ことになるからである。おそらくそうした傾向は後に
自己の意識を喪失するということになるのではないかと
考えられる。脳が正常であれば自己との関連性を維持し
得ているだろうが、脳は自然に退化していくものである
から(刺激がないとシナプスが縮退していくことから)、
ある限界を超えれば自己を認識し得なくなると考えられ
る。
 

自己中

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 8月20日(日)01時33分24秒
  これは人々に嫌悪されるべき性質と見なされて
いるが、自己中心性は重要であり、これが希薄
になるほどに自己の能力が減退するようになる
という意味では、「他者中心主義」もまた問題
がある。
他者を尊重するという態度が自分にとって望ま
しいことからそれを肯定することになるのだが、
一方では他者依存を強める結果ともなり、そし
てその欲求が満たされない場合、反感を覚えた
り、強圧的にその欲求を満たそうとすることに
なるものだからである。(基本的には人間も利
己的観点から行動するものである。そうでない
という場合、それは拡大された利己性から生じ
ていることが多いだろう。仲間の為と言うのは
拡大された「自我」における利己性から説明
できるだろう。少なくとも一方に利益があり、
双方に不利益が生じない限り「自我」は肥大
していくことになるだろう。知的に不活発な
人はこの拡大を望ましいものと認識するだろ
う。これは飲酒における酩酊の心地よさと似
たものだろう。知的能力は退化するものの、
脳の興奮性が増大することを望むというわけ
である。もっともこれには限度があるが。)
そのように全てのことには両面があり、この
バランスを保つこと、つまり中庸性が重要であ
ると言える。
 

自己認識の崩壊

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 8月17日(木)04時02分31秒
  以下より、自己を同定し得るのは自己認識という
ことになり、この認識が曖昧になるほどに自己と
の繋がりが弱くなるということになるだろう。
これが自己認識の崩壊ということである。
この端的な変化は容姿に現れることになるだろう。
一方、外面には現れにくいが心理的な変化はすぐ
に現れることになる。

特に美人においてはその変化が顕著に現れること
になると考えられる。また、人口密度の高い都会
ほど自己認識の崩壊が起こり易いと考えられる。
例えば、日本海側の方が美人が多いようであるの
は、気候も関係するのだろうが、冬は雪に閉ざさ
れるということが関係していると考えられる。
白人でも北欧に美人が多いというのと似ている。
また、言語でも相違があるだろう。自己を主体と
して見る言語とそうでない言語とでは自己認識の
強さの相違があると言える。
例えば、日本語は客体を主とみなす言語と言える。
そして、このことが言語的性質を変化させること
になるのだと考えられる。
また、構造的言語であるほど論理的思考を要する
ことになり、これは自己に主眼が置かれるという
ことになるだろう。なお、客体意識の強さは両刃
の剣となろう。
また、性別による相違もあると言える。一般的に
男性の方が客体意識が強いだろう。そして、これ
も容姿的な相違をもたらすのだと考えられる。
一般的には男性の方が「情報的エントロピー」が
高くなると考えられる。
 

ピラミッド

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 8月12日(土)20時20分57秒
  以下のような神の概念はピラミッド的なものと言える。
つまり、神とはピラミッド全体のことだということで
ある。
外からは荘厳なものに見えるが、それには最底辺のもの
も含まれるということである。したがって微生物も神的
構成物の一員ということである。また、任意な状況も神
的構成物を為すということである。
 

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