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大鼓と同様に

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月23日(金)00時42分46秒
  アンプで歪ませた音も、「音痴さ」を生じさせる
のだろうと考えられる。これも綺麗な波形ではな
いからである。
 
 

フーリエ展開

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月23日(金)00時38分19秒
  任意な波形をフーリエ級数に展開する場合、波形が
正確でないとこの各係数値が異なることになる。
つまり、周波数がずれるという結果にもなる。

デジタル離散値をただ単純に台形補正した波形では
元の波形と異なることから、おそらく高周波成分が
ずれるという結果になるのではないだろうか。
周波数がずれれば不協和音のような音になってしま
い、これがデジタル的音の「音痴さ」を招くのでは
ないかと考えられる。
ただし、弦の振動の場合には、基底周波数の倍音成
分から成ることから、それほど周波数ずれがあまり
気にならないのではないかと思われる。
一方、膜の振動の場合には、多様な振動成分が生じ
ることから、弦に比べればフーリエ展開が難しくな
り、大鼓の音はあまり良くないという結果になるだ
ろう。
このフーリエ展開はどこかで必ず為されるものと考
えられる。

そういえば、CD時代になってから音痴さが気になら
なくなったようにも思える。この結果、歌謡曲から
J-POP全盛時代を迎えたということになるだろう。
言い換えれば、過激な不協和音が好まれるという
傾向が生じたのだろうが、最近はデジタルの音がよく
なり、この傾向の減退を引き起こしていると考えられ
る。昔はどこでもJ-POPが流されていたものであるが、
最近はあまり聴かない。もちろん良質なものもあるが、
店で流されるのは大概…な音楽だったのである。
 

CDの音

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月21日(水)19時52分11秒
  これの最大の問題点は高域の問題ではなく、中低域が薄くなる
ということではないかと思われる。(だからハードロックは迫力
が欠けるということになるのではないだろうか。)
確かに、周波数分解は高域よりも中低域の方が難しいように思わ
れる。スピーカーの振動に周波数は関係ないものの、やはり振動
はsinカーブにしたがって為されるだろうから、物理的には周波数
分解されるのだと考えられる。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月20日(火)00時50分0秒
  レコード針ではなく、この発電方式がMC型のものであったね。
(説明が長くなるのでレコード針と簡略したが、誤解する人
がいるかもしれないので。)

なお、クレルのプリアンプは外見こそ素気ないものであった
が中の実装は整然としていて驚いた。大抵、アンプの中とい
うのは配線等でごちゃごちゃしているのが常であったから。
高級品になるとその辺まで考慮するということだろう。中を
開けられて、ぞんざいな造りであったなら、評判に傷が付くと
いうことになるのだから。高級品の場合にはそれにもコストが
かかっていることになる。ケースでも意外に高いのである。
 

ハードロック

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月20日(火)00時13分9秒
  若い時はハードロックもよく聞いた。
クリームとか、ツェッペリンとか、パープル、
ジミ・ヘン等である。
これらは全てレコードで聴いたものである。
当時はCDはなかったのであるから。
それから、80年代中頃にCDが出てきて、レコード
からCDへの置き換えをすることになった。
なにしろレコードはかさばるし、ノイズが入り易い
からであった。レコードに比べてCDはコンパクトで
ラクチンであったのだ。だから、都内在住でない
賃貸者は大体レコードからCDへの置き換えをしたの
ではないかと思われる。
しかしである、ハードロックは大概音が悪過ぎた。
もともとハードロックは大音量で誤魔化すことが
多かっただろうから、多少音が悪くても許容された
のであろう。

しかし、私の場合はオーディオにも金をかけていた
わけである。
プリアンプはクレルであったし、レコード針はMCで
もあった。クレルはまぁ、なかなか良い音だと思って
聴いていたが、実はボリュームを通して聴いていたの
であった。しかし、これが音を悪くする一大要因でも
あるという記事を読んで、さっそくこれをスルーして
(当然フラットアンプ部もである)パワーアンプに繋
いだのだが、大層音が良くなった。
これと当時のCDプレーヤーでの音と比較したら、まさ
に天と地の違いほどもあった。レコードの方は実に緻密
で立体的であるのに対して、CDの方はまるっきり能面の
ようであったからである。
そのような状況で、パープルの"in rock"を買って聴
いたわけであるが、これが実に音が悪いのである。
現在でもそれほど改善していないようである。

一般的に言って、ハードロックのCDは音が悪いと言え
るのではないだろうか。何故だろうか、AD変換技術の
稚拙さとはあまり関係ないようであり、これはハード
ロックの音、つまりギターの歪んだ音に問題があるの
ではないかと思われる。そうでない通常の弦楽器の音
はそれほど悪くはない。ギターアンプで歪んだ音が悪
いように思われる。この音はCD再生には向かないとい
うことであろうか。
おそらくこの原因はCDフォーマットにあるのかもしれ
ない。つまり、フーリエ級数的には20kHzまでの周波数
展開によっては元の音を正確に表現できないというこ
とではないかと思われる。
人間の耳はせいぜい20kHzまでしか認識できないとして
も、蝸牛の中は「アナログ状態」であり、その以上の
周波数が混在しているわけである。
似たようなことはバイオリンについても言えるのだろう。
どうもCDでのバイオリンの音は悪いように聞こえる。
ギター(エレキを除く)やピアノ(エレキを除く)は悪く
はないのだが、バイオリンの場合には高い周波数成分が
多く、そのため20KHzまでの音では正確に再現できてい
ないのだろう。正確に表現できないのであるから、音が
丸くなったり、余計な成分(不協和音になってしまうの
であろう)が生じるのではないかと思われる。
したがって、CDはハードロックには向かないという結論
となるだろう。もっともヘビメタはそれが狙いでもある
だろうから対象外であるが。
その意味でハードロックこそハイレゾにするしかないと
思われるが、私は聴いたことがないので実際どうなのか
結論を出せない。

世間一般の通念では、ハードロックのような歪んだ音の
ものをハイレゾで聴くというのは馬鹿げたことであると
考えているかもしれないが、歪んでいるからこそ良い音
で聴く必要があると言える。その意味ではクラシックよ
りも(ちょっと)高価な装置が必要なのがハードロック
ということになるだろうか。

例えばビートルズなんかもあまり音がよくない音源と思
われているが(私がそうであった。編集過多が原因のよ
うであるが)、高価な装置(クォードの平面型SPとゴー
ルドムンドのアンプの組み合わせであったが。もちろん
レコードプレーヤーも高価なものであった)で聴くと
非常にリアルで感動したことがある。
 

連環の計の原理

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月19日(月)22時38分19秒
  からは、天才は貧乏人の家柄(しかも大都会よりは田舎)
から生じることが多いだろうと言える。ガウスはそうだっ
たね。
一方、ユダヤ人の場合は金持ちが多いようである。これは
ユダヤ人の場合には孤立的であるだろうし、であれば教育
の面で優遇を受ける金持ちの方が良いというわけである。
一方、周りとの関係が良い一般的な金持ちの場合には、
連環の計や出世が容易という条件により、金持ちの家に
天才が生じる可能性は低くなると考えられる。
(ユダヤ人の場合には金持ちでも努力しなければならな
いということである。似たような状況は在日中国人等に
ついても言えることだろう。少数側の金持ちは努力が必要
だということである。)
特に日本社会では連環の計が非常に多いと言える。まぁ、
将棋のように特殊なものは影響が少ないだろうと考えられ
る。因みに、天才打者として名を馳せたイチロー選手もど
ちらかと言えば孤立を好む方だと言える。しかし、連環の
計に嵌れば、その才能が低下するのではないかと思われた。
 

多くの事象から推察

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月15日(木)22時42分43秒
  するに、個々人は独立的に存在しているように見えない。
意識的には連環しているのである。したがって、連環の
計に嵌ることは避けるべきだろう。他方が愚かになれば
それは自己にも反映されるということになるからである。
(旅行は日々の連環の計から逃れる良い方法であるのだ。
だから、暇とお金をかけて行う価値があると言える。そ
のような価値がなければ家で寝ていた方が良いだろう。
それこそが気学でいう方位効果というものだろう。)
この点が、唯物論では絶対に説明できないことである。

物理学はその点が欠けているだろうということで、別に
批判されるべきものではないが、逆に物理学のみで完全
であると考えること自体が問題なのである。
この不完全性が問題とされることはあまりないのである
が、実は重要なことである。
 

他者批判

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月15日(木)22時25分11秒
  は、相手へ感情移入すれば、相手のレベルと同じになる
のであるから、ほどほどにするべき。
相手をバカと言っている奴こそバカ、という「名言」が
あるが、その通りなのである。そのように感情移入すれ
ば相手と同じレベルに落ちてしまうのである。
その点、ノイマンは違ったな。ノイマンはそうした相手
は無視するだけであった。
 

レス

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月15日(木)22時21分15秒
  レスすべきものが見当たらなかった、というだけ。
君自身で展開すればいいだけと思うが。(他者批判
は客観的な観察的意見であり、その相手に関心を持つ
ことはあまりない。)
大体、全て説明不足であり、そこまで尊宅は無理、
というわけだ。
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年 6月15日(木)17時07分48秒
  レスなしか  

日本女性について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月15日(木)05時04分32秒
  我々からすれば女性とは日本女性のようであるべきだと
考えるものであるが、この観点からすれば欧米女性は
男性的であり、少し違和感がある。

外見は確かに欧米女性の方が整っていて魅力的であるこ
とが多いのだが、話し方は男性的であり、むしろ男性を
喚起させるものとなろう。
例えば、ロミオとジュリエットで、ジュリエット役を演
じたオリビア・ハッセーは実に可愛らしい女性だったが、
声は少しダミ声であり、その話し方は女性的魅力を減じ
るものであった。

一般的には、日本女性の方が女性像としては特殊なのだ
ろう。この理由は主に2つあるのだろう。一つは言語的
なものであり、もう一つは人種的特徴によるものだろう。
日本語に関しては言語の非論理的構造と、大和言葉によ
るものが関係していると考えられる。
人種的特徴では、鋭角的ではなく丸みを帯びた容貌と、
発達が途中で止まったことによる(これは古代には
東アジアは寒帯であったことが関係しているようでも
ある)、声帯の未発達が関係しているのだと考えられ
る。(このために発声が少女的なのだと考えられる。)
また、儒教的伝統もあり、女性はあまり自己主張せず、
奥ゆかしくあるべきだという集団意識が働いているから
であるだろう。(これは単に外的制約であり、内在的
性質でないことは、結婚すれば分かることだろうが。)

日本女性と良く似ているのは韓国女性であるが、日本
女性の方が品があるように思えるのは、明治時代に制定
した標準語によるものと考えられる。これは江戸の上流
社会の言葉を元にして定めたものであるから。もし関西
弁を元にして標準語を定めた場合には、韓国女性とあま
り大差のないものとなったかもしれない。

以上のように、我々が当然と考えている女性像というの
はかなり特殊なものと言える。日本の閉鎖性はこの特殊
な状況と無関係ではあるまい。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月13日(火)02時09分19秒
  最後の一発ツモは最後の一枚だし。→ 最後のリーチ一発は
最後の一枚(5索)だし。

混乱するかもしれないので、一応訂正した。
ツモれば、ツモ・三暗刻になった(+3翻)わけであるが。
 

さて

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月12日(月)23時11分6秒
  麻雀では、何故弱い人間が必ず居るか、という理由であるが、
これは要するに人間は欲が強いものであるから、高い手を無理
してでも上がろうとすることによるものだろう。また、そのた
めには振込みの危険を回避しようとしないものだからだろう。
しかし、実際の麻雀では確率計算と読みの技術とツキ以外にも
重要な要素がある。それは度胸である。
 

そういえば

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月12日(月)22時52分20秒
  初期の麻雀ゲーム(この卓上ゲームを知っている人はかなり少ないと思われるが)
は非常に弱いというのもあったが、一度上がったら、何度も上がり続けて終わらな
くなったということがあった。ただで遊べるのも、なんか仕事みたいになり、辛く
なってきたということがあったな。
以下の東風戦でも、コンピュータ側が如何にも弱そうだと思うかもしれないが、
確率計算はコンピュータの方が人間よりも上なのである。
おそらく、初心者の方は上がれなさすぎて、ムカっと来るのではないかと思われる。
これは麻雀ゲームではなくて、麻雀道なのである。
 

補足

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月12日(月)22時43分35秒
  以下の東風戦では、その前にも満貫を上がっていた。
だから、満貫以上が三回あったわけである。
 

麻雀道

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月12日(月)22時37分13秒
  今日の麻雀







久々に大勝であった。いつもこんなに楽だと良いのだが、麻雀というの
は腕が大事だとも言われるが、結局ツキがないと勝てないのだ。振込ま
ないという技術があっても上げれないことにはジリ貧になってしまうの
である。
麻雀では確率計算と振込み防止の技術論のみが交わされるが、最も重要
なのはツキを呼び込むことである。相手が強い場合ほどそれが重要とな
る。というのは、上がろうとしても相手が強ければなかなか上がれない
からである。しかしながら、一般的には必ず弱い人間がいるもので大概
はツキがなくても勝てるということになる。
さて、ツキを呼び込むにはどうすれば良いかということになるが、これ
は自己暗示なのである。つまり、自分は今ツイているという自己暗示に
かけるわけである。しかし、ただそのように思っただけでは実感が伴わ
ない。そこで、安い手でも上がることが重要となる。決して始めから、
高い手などを上がろうとしないことである。重要なことはツキを呼び込
むために自己暗示にかけることなのである。
しかし、その反対に上がりたいと思うほどにツキから見放されることに
なる。故に、餓鬼道とは失う道のことでもある。

と、説教くさくなってしまったが、要するに「なかなかこうはいかない
んじゃないの」という自慢であった。最後の一発ツモは最後の一枚だし。
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年 6月10日(土)13時55分52秒
  ポパーは、19世紀のマルクスを至らぬと批判していたが
国家がなすことを信じない

また、ポパーは、マルクスの経済決定論を批判したが、
実はマルクスはそんなことは言っていない
元「今こそマルクスを読み返す」廣松渉

 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2017年 6月10日(土)13時51分23秒
  風俗のが、アルコールとエタノールは別と思っていた
所で、爆薬は、フェノール性ヒドロキシル基だと金属溶かすのでTNTになたらしひな

所で、池田信夫のブログにあったが
「ポストモダンは飽きられたニヒリズム」
なるほど

実在論が見直されてるらしい
メイヤスーやらガブリエルだか


それから、マルクスの実像は社会民主主義を批判していて、グローバリストで、
「リバタリアン社会主義」

 

飲酒について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月 8日(木)21時13分45秒
  アルコールとは炭化水素の水素を水酸基で置換した分子の総称でもあるが、
一般的には単糖の分解より生じるエチル・アルコールのことを言う。これ
と分子的に似ているメチル・アルコールもあるが、これは毒物であり飲食
には適しないので除外される。(果物を発酵させて酒を造る場合には、
よくメチル・アルコールができるという。インドなどでは勝手に造ること
がよくあるようで、その事故(失明や死亡)が発生していた。現在はどう
であろうか。日本では昔は個々の農家で酒造りが行われたわけであるが、
酒を税の財源とするために現在は許可制となった。したがって、メチル・
アルコールによる事故は日本ではあまり聞かないといっても、海外では
注意が必要である。もちろん、販売している酒にもメチル・アルコールが
微量に含まれることがあるが、かなり大量に飲まない限り、そうした事故
は起こらない。)

エチル・アルコールは分子が小さいために血液脳関門をすり抜けて、脳内
に浸透することになる。それがニューロンと結合して、塩素イオンの透過
を促進することになる。塩素イオンは負電荷であるから、これはニューロ
ンの興奮を低下させるものとなる。ニューロンには抑制性神経伝達物質を
放出するものと興奮性神経伝達物質を放出するものとの二種があるわけだが、
一般にある興奮性は側抑制により速やかに鎮まることになるのだろう。そ
の結果、明瞭な認識性が生じるわけであるが、抑制性ニューロンの興奮性
が低下すれば側抑制は減退し、この結果、認識性の低下が生じるというこ
とになるだろう。しかし、興奮性の持続性が高まり、結果として脳の興奮
性が持続するということになるだろう。これが飲酒によって快楽性が生じ
ることの理由であると考えられる。(また、この快楽を引き起こすために
他の意識を「利用」するということもよく為されるのだろう。つまり、ほ
どよく酔うと、他人に絡もうとする傾向がよく見られるのだが、これは
他人と関わることによって脳の興奮性を高めようとするのだろう。或は、
単に自己での感情的などの興奮性を高めるためかもしれない。何れにして
も他者と絡もうという傾向はよく見られる。他人との「絡み合い」を高め
るには「因縁」をつけるのが効果的であるのだが、そうした意味もなく
他人に絡もうとする人は少なくなく、おそらくその性質は飲酒によって
学習されたものかもしれない。子供では他の子供を罵倒するというのは
よく見られても、因縁をつけるという悪質な性癖はあまり見られない。)

さて、アルコールは脂溶性でもあるから、これがニューロンの死滅を促し、
脳を萎縮させるのだろう。因みに博識で有名だった南方熊楠氏はかなりの
酒豪であったが(ビールは1ダース以上飲むことができた)、それにも関わ
らず晩年になっても研究意欲は衰えなかった。このことはアルコールは脳
にはあまり影響を与えなかった、ということであろうか。尤もいつも貧乏
であったことから、毎日大量に飲むことができたわけでなかったが。

なお、飲酒と脳萎縮の関係の統計データによれば、非飲酒群と1日1合以下
の飲酒群ではそれほど大きな差はなかったが、1日2合以上飲むグループで
は明らかな差があり、飲酒が脳萎縮と関係しているようだ。もちろん、脳
萎縮の因子は飲酒だけとは言えず、他の要因も関係しているのだろう。
一般にストレスが高いほど酒で発散する傾向が高いと考えられるから、ス
トレスも関係しているのだろう。

また、常時飲酒していると脳の活動性は低下するわけであるが、一般に刺激
が途絶されたシナプスは退化して接続が切れることになる。これは脳のネッ
トワークが退化するということであるから、飲酒は知性の劣化を促す筈であ
る。もちろん意識して読書などを行っているのであれば別であるが…
 

悪を為すこと

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月 3日(土)22時17分26秒
  一般庶民の行動性を見ると、それぞれは悪人であるように
はあまり見えない。ところが、個々に関係や認識が生じる
ようになると、途端にそうした傾向が顕在してくることが
少なくない。
遠くから見る限りにおいて、彼等は何の関係もない人々で
あるから、意図的に悪を為そうということは根っからの悪人
であるか、脳の機能に障害が発生しているのでもない限り、
ほとんど無いことである。
つまり、客観的には悪を為そうという意図がないにも関わら
ず、彼らとの認知的関係などが生じると、悪的事象或は不快
感を与える事象を生じさせるのは何故かという大きな問題が
ある。
そうしたことは、一般的には田舎よりも都会の人々の方が多
いと言える。このことは単に人が多いことによる事象発生率
の違いからではなくて、人々の性質として明らかな相違があ
るからだろうと思われるのである。
なぜそのような性質の相違が生じるのかということになるが、
基本的には田舎の人も都会の人も同じであり、これらには大
きな相違というものはあまりないだろう。大きな違いは人口
密度の相違である。より人が多いほど、人間に対する価値観
は低下することになると考えられる。このことは人的事象に
対する情報量の低下からである。つまり、人が多いほどその
情報生成の確率は高くなるわけであるから、その情報に対す
る価値観は低下することになる。この価値観の低下は即ち、
人に対する価値観の低下につながることになるだろう。
つまり、都会では見知らぬ他人に対する価値観が低下すると
いうことであり、これが他人に対して悪的行為を為すことに
対する抵抗性が低下する原因の一つと考えられる。このこと
は、しばしば悪人に対して為される悪的行為の増大性と同じ
ものだろう。相手が悪人であるという認識が生じた場合、
そうした人間に対しては悪的行為に対する抑制性は大きく
減少するということである。彼等は悪人に対しては何をして
も許されるという見方をしがちである。これは「善人」にお
ける「悪人」に対する特権意識のようなものかもしれない。

他人に対する価値観の低下が悪的行為の増大性の端的な例は
戦争であろう。一般に文化や言語、人種が異なる場合には、
その人間に対する価値観が大きく低下することになる。
その価値観の低下により、相手は犬・猫と同等の存在と見な
されることになるだろう。そのような傾向は戦争などでは
よく起こることである。最も顕著な例は北米や南米での侵略
戦争であっただろう。その頃の原住民は文化レベルも低く、
言葉も違い、また人種も違っていたために、その人々に対し
て価値観をほとんど持ち得なかったと考えられる。それが
野蛮な侵略を引き起こした理由と考えられる。同様なことは、
太平洋戦争でも言えることだろう。

特に相手に対して何も敵意や恨みがないにも関わらず、悪的
行為を為すことの理由の一つとして価値観の低下が挙げられる
わけであるが、それとは別の原因も考えられる。それはエネル
ギー・バンパイアと呼ばれる人々の行動性である。これは単に
脳の活性性を増大させることを志向するものであるといえ、
何も特殊な人々が該当するわけではない。そうした状況が生じ、
かつ悪的行為を為すことに何も抵抗性がない場合にはよく生じ
ることである。
一般に快楽というのは、脳の興奮性が高まった場合に生じるも
のと考えられる(性的快楽も刺激によって脳の興奮性が高ま
ったためと考えられる。そして実際に快楽感というのは脳の
活動性と大いに関係しているようである。眠い場合には快楽
性は大きく低下することになるものである。また、性的快楽も
青年期に増大するようであることも、脳の発達と関係している
のだろうと考えられる。しかし、その情報に対する慣れが生じ
とその情報に対する価値観の低下が生じ、今度は逆に低下する
ということになるのだろう。夫婦の倦怠期もそれによって説明
され得る)。
そのように、人間というのは快楽を求めて行動するものである
と言える。(様々な行動は快楽志向性によって説明されること
が多い。例えば、高価なステレオ装置を揃えようとするのも、
聴覚的快楽を高めようとすることで説明できる。)
したがって、脳の興奮性が増大し得るような状況が生じる場合
には、快楽志向性によって、その行動が為されるのだと考え
られる。

脳の興奮性が増大するような状況としては、これまでは外部
からの感覚刺激によるものだけが考えられてきたわけであるが、
それとは別な要因として、意識による脳の覚醒性もあると考え
られる。朝、目覚めるのは何も脳での自発的なものではなくて、
意識による覚醒性が関係しているのだと考えられる。脳が眠る
というのは脳の活動性を正常状態に戻そうということだけであ
り、眠ることが脳の覚醒性を引き起こすのではないと考えられ
る。また、飲酒による覚醒性というのは単に脳の抑制性を抑制
することによる、興奮性の増大によるものと考えられる。この
抑制性は興奮性ニューロンも同じく抑制することになるから、
過度な飲酒は逆に脳の興奮性を低下させることになる。したが
って、「賢い」人は過度な飲酒を避けようすることになる。
飲酒を続けることの意義は単に酔ってする状態を継続させるこ
となのであるが、その状態コントロールは一般に失敗すること
も多く、その結果、彼らは逆に不快感を強めることにもなるだ
ろう。つまり、酔って悪態を為すというのは、日頃の鬱憤を晴
らそうというよりは、脳の興奮性の低下によって快楽感が低下
したためとも考えられるのである。
さて、そのように意識が脳を覚醒するということであれば、
しかも意識が特定の脳に限定され得ないということであれば、
認知性によってその脳の覚醒性が増大するということが考えら
れる。エネルギー・バンパイアというのはそうした傾向を言う
ものであると言え、そうした行動性は一般的に認められるもの
と言える。(彼らの思考や感覚については私自身は何も知りえ
ないが、行動性からはそれが推測される。おそらく実際にそれ
は研究によって検証できる筈である。)
 

補足

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 6月 1日(木)21時34分18秒
  下記で邦楽ではラブソングが少ないというのは、
男性からの場合ということである。女性からの
場合は対象外であるため、暗黙的に除外してい
た。
なお、日本では男性のラブソングが少ないのは
男尊女卑の伝統からであろうか。男子たるもの
女性に頭を下げるのは沽券に関わるということ
かもしれない。しかし、結婚すると意外にも、
女性の方が優位に立つものであるが。やはり、
家庭は女性の勢力内に収まるものであるから。
子供もペットも皆、主婦たる女性側に付くの
である。夫が偶に子供のご機嫌を取ったとこ
ろで、所詮限界がある。
したがって、男尊女卑というのは実質的には
家庭外の一般女性が対象ということになろうか。
 

愛の告白

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月31日(水)20時41分11秒
  例えば、長年好意を寄せていながらも、恥ずかしくて
愛を告白することができない、ということは日本男子
としてはよくあることだろう。
外人ならば、気楽に"I love you"と告白することがで
きるかもしれないが、これを日本語にすると、"貴方
を愛しています"となり、非常に畏まった表現となり、
後が続かなくなるのではないだろうか。これは表現の
問題であろうか。
一般に、日本人は面と向かって貴方が好きですとか、
愛してます、とは言いにくいものだろう。これは一体
何故であろうか。
おそらくその理由の一つとしてうそ臭いということが
あるのではないだろうか。それを言われた相手にして
みれば、何か裏があるのではないだろうかとか、どう
せ付き合ったり、結婚したりすれば態度を豹変するに
違いないなどと思われがちだろう。
そこで、嘘も百回言えば真実になる(相手の認識として
であるが)とはいえ、愛の告白を何度も云うことはかな
り難しいことだろう。したがって、この手も使えないと
いうことになるだろう。
大体、日本人とは疑り深い性質であると考えられるが、
これはおそらく言語的慣習によるものだろう。直接的
表現はあまり好まず、間接的或は婉曲的表現を好むの
が我が邦の慣習であろう。
例えば、土産の物を「これはつまらないものですが」
と言ったりするのは直接的表現を避けるという心理が
働いているものと言える。(そのようなわけで、気を
読むということが求められるわけである。当然的な事
は言わなくても、察して欲しいということであろう。)

以上、前振りはこれくらいにして、本論に入ることに
しよう。愛の告白を自分で言うのは難しいということ
になれば、誰かに言わせるということになろう。しか
し、嘘っぽくなっては裏目に出ることにもなるだろう。
また、その適当な相手を探すのも苦労することだろう。
そこで、音楽の詩の中にそれを含めるのが効果的とな
ろう。しかし、あくまでもそれは愛の告白としてでは
なく、音楽を聞かせるということを目的としなければ
ならないし、また相手も好かれているということが
察知できるようでなければならない。そうでなければ
気まずい雰囲気が流れることになるだろう。
ある程度、愛の告白ができるような雰囲気を盛り上げ
てから音楽を聴く体制に入るべきである。しばらくは
世間話などをして、少し間が空いたら音楽をかけると
いうわけである。
愛の告白としての音楽というのは非常に多いものであ
るが英語は論外であろうから、これは邦楽のものに限
るということになる。
邦楽にもそうした類の音楽は少なくない筈だが、意外
にも洋楽に比べると極端に少ないように思える。そう
した中では傑出したものがある。それはGAROという
グループの"GARO 2"のアルバムに入っている、
"ベイビー・アイム・ウォント・ユー"という曲である。
間違ってもこのヒット曲の「学生街の喫茶店」から聴か
せてはなるない。一気に通俗的雰囲気になってしまうか
らである。それよりはまず手始めに"美しすぎて"から
始めるのがよいだろう。なにぶんにも性急に事を進める
のはよろしくない。そして、その次に先の曲を流す、と
いうようにするのである。そうすれば、相手は非常に
意外に思い、こちらの気持ちを察することだろう。
(情報量は確率が小さいほど大きくなるものだからで
ある。だから、相手には決してそれを悟られてはなら
ないのである。)
さて、"ベイビー・アイム・ウォント・ユー"というの
は、ブレッドの名曲"Baby I'm a want you"のカバー
であるが、GAROの方もこれに劣らず名曲と言える。
少なくとも「学生街~」よりは何倍も良い筈である
が、庶民というのは分かり易いものを好むものである
から、学生街の方がヒットしたというわけである。
おそらく愛の告白としては元の曲よりも良いと思われ
る。これは日本語の特性もあるのだろう。情緒を表現
するには日本語の方が適しているだろうからである。
もちろん歌も秀逸と言える。しかしながら、この曲を
知っている人は少ない筈である。それもこの曲がそれ
に相応しい理由である。
当方も若い時分にこの曲を知っていたらこの手を使え
たかもしれないと思うと残念に思うことがある。
 

唯物論者

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月28日(日)00時50分39秒
  というよりは、現代物理学信奉者というべきであろうか。
物理学は非常な成功を収めたことから、誰もがこれを絶対的
な真実であると思い込んでいることだろう。もっとも、この
基本的な科学である量子力学では未だに粒子性と波動性との
大きな問題が解決されていないのであるが、定常問題だけを
考えるならば波動性によって考えればよいだけである。
つまり、シュレーディンガーの波動方程式だけを考えれば
よいのである。だから、そうした問題があるとしても大概
はあまり困ることはないのである。
結果的だけを見れば、物理学の大勝利である。素人がそれ
に異を唱えることなど不可能だろう。
したがって、多くの人は現代物理学という「神託」を受け
入れざるを得ない。しばしば、大病などの非常に困った事態
が起こった時だけ神仏に対する願掛けをするものの、そうし
たものを心の底から信じているわけではあるまい。もしその
おまじないが効けば儲けものくらにしか思っていないと思わ
れる。もしそれで救われた後は、神仏のご利益などすっかり
忘れているに違いない。何となく助かったけど、多分運が良
かったんだろうくらいに考える筈である。そして、また元の
唯物論者に戻るというわけである。
この唯物論者の特徴は現世が全てであるということだ。こう
した死生観では現世利益のみを求め、自分さえ良ければそれ
で良いのだという考えが生じやすい。傍目にそのように見え
ないかもしれないが、それは周りの目を気にしているだけに
すぎないだろう。もし他の者に知らなければ、自分さえ良け
れば良いのだと、なりがちだろう。
しかしながら、輪廻転生における霊的成長こそが、自己の
存在目的であるとする考え方からすれば、自分さえ良ければ
という考え方に堕するのは全くの堕落以外の何物でもないの
である。つまり、現在の人々によく見られる唯物論的考え方
というのは、霊的堕落を引き起こすことになる筈である。
しかも、そうした考え方は現世でさえも堕落を引き起こすこ
とになるものだろう。何故なら、精神的に堕落すれば思惟的
退廃を引き起こし、凡庸なる生き方をせざるを得ないだろう
からである。そうした凡庸なる生活環境の中で他者と比較し
て自分は恵まれているという相対比較によって自己を慰める
以外にはないのである。であるから、彼等は常に他人と比較
しようとすることになる。もし自分が他人よりも恵まれてい
ないと感じるならば、大いに不幸を感じるということになる。
(自分が身近な他人よりも賢いからといって、何ほどのこと
があろうか。そのように彼等は他人を見下して自己を慰めて
いるだけなのである。嘲笑の目的はそれである。)
そのように唯物論者は現世でも救われないばかりか、来世で
はもっと悪くなるという悪循環に陥ることになるだろう。
 

学問の勧め

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月26日(金)21時20分26秒
  学校では先生が黒板に書き、それを生徒が「写経」する
のが一般的な授業風景であった。これはアメリカ式の
授業風景とは全く異にするものであろうが、どちらも
それほど大差がないようであるところを見ると、日本の
「前近代的」な授業風景にも何らかの利があるものと
考えられる。
私が高校の頃は、数学の授業などはノートには何も取ら
ず、それをただ見聞きしているだけであったが、内容は
ほぼ理解した。だから、必ずしも写経の功徳があるとい
うわけではないだろう。写経は学問の王道の唯一の
ルートではなかろうというわけである。
写経の功徳がそれほど大きな効果がないようでもあると
ころを見ると、その効能に疑念を持つ人もいることだろ
う。私などはそうである。真面目に書き写したという経験
はあまりないのである。授業では何もすることがなく暇な
ので、写経に精を出す他なかったというのが実情でもある。
しかしながら、確かに自分で書くとそれが身に付くとい
うことがあり、何かを覚える際にはよく「写経」を行った。
調べればすぐに分かることでも写経には記憶するという効能
があるのだ。特にコンピュータ関係の資料は、それ自体が
内部で閉じた体系をしており、外部の者が読んだのでは全て
が何のことやら理解しかねるということが少なくない。
しかし、写経することで内部関係について知れば、それが何
を言おうとしているのかが大体分かるようになってくる。
物事というのは内部的な相関関係によって成立しているもの
だからである。つまり、理解とは内容の理解ではなく、内部
の関係を知ることによって為されることがよくあるのだ。
これは哲学書でもそうだろう。個々の用語は難解であっても、
それが意味するものは個々の用語の内部関係を言うものであ
ることが少なくないだろうからである。そのように内部関係
を理解することで恰も理解したかのような気持ちになるのだ
が、本当のところは何も理解していないである。理解したの
は用語間の論理的関係であり、それが何を意味するかなどは
何も分かっていないということが多いのである。数学でも
似たようなところがある。数式間の関係付けは分かっても
それが何を意味しているのかさっぱり分からないということ
が少なくないのである。分からない乍も、何度も繰り返せば
記憶として定着し、恰も理解できたような気になるのである。
例えば、AはBである、BはCである、…、CはAである、と理解
したものとしよう。結局のところ、これはA,B,C間の関係を
理解したにすぎず、本当のところは何も分かっていないので
ある。A,B,Cはα,β,γであっても良いわけである。理解した
のは単にA,B,Cという用語(単なる名前と言っても良い)と、
これらの論理的関係にすぎない。
そのようなことを写経しても学問が身に付かないのは当然の
ことである。

さて、写経の功徳は絶大なものであろから、それの何が問題
かということになるだろう。これは写経するものに問題があ
るのだと言える。通り一遍の知識を写経したところで何も身
に付かないということである。
一方、驚異的な記憶力を背景に膨大な知識を蓄えた南方氏の
場合、もっと高度な写経を行っていたのである。彼は10才の
頃、日本で最も古い百科事典である和漢三才図会(105巻もあ
る)を書き写し始め、5年をかけて完成したとされる。
このように大部な体系が構築されるならば、全ての物事は
収まるべきところに収まるということになるだろう。理解と
は基本的に内部関係の理解であるとすれば、それが最善とい
うことになるだろう。しかしながら、これは非常に難しい
ことであるので、一般的に専門化されることになる。この
ようにすれば、狭い体系内で閉じることができるからであ
る。しかしその結果、専門外については疎くなるという欠点
が生じる。
因みにブルバキの著者達は数学のノーベル賞に相当するフィ
ールズ賞受賞者を多数輩出したが、これも数学の体系的理解
によって為されたものだろう。それが理解されていれば、
全てが収まるべきところに収まるだろうからである。
さて、そうした高度なことを万人(生徒であるが)に言った
ところで、何の助けにもならないだろうと思われるので、
何かその参考になるものを挙げるとすれば、南方氏が研究
所設立の際に、寄付を募った日本郵船重役の矢吹氏に送った
「履歴書」なるものがある。誠に奇妙な履歴書であるが、
彼の生涯の概略を記したもので、非常に参考になるのでは
ないかと思われる。学問の勧め、などというと何か説教じ
みたものになりがちであるが、これは非常に興味深いもの
である。

しかしながら、世間では誰かが勝手に定めた「作法」を押し
つけて平然としている人が少なくないが、これは初等中等
教育における写経の弊害もあるのではないかと思われるので
ある。彼等は何も考えずに唯々諾々と他人の意見を受け入れ
るということになるのだろうが、それが万人にとっても当た
り前のことだと考えてしまうのだろう。彼らのその誤謬的
態度をさらりと受け流すと、思わぬ反撃の挙に出ることが
あるので注意が肝要である。彼らが当然と思っていること
が蔑ろにされると、大きな不満を持つようになるだろうか
らである。
 

天才について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月26日(金)00時22分13秒
  これは大概、驚くほど記憶力が良い人が少なくない
ようだ。代表的な人としてはノイマンが挙げられる
だろう。また、ブルバキの主要メンバーのデュドネ
もそうらしい。彼がこの膨大の全著作を記憶してい
たようだ。(だからこそ全体的な統一が取れていた
のだろう。理論を構築したのは主にヴェイユのよう
であるが、著作としてまとめたのは主にデュドネら
しい。この創作は始め誰かが草稿し、それを全員で
批評し断罪するというような形で行われたらしい。
それで次の者に再構成が引き継がれたようだ。)
南方氏も驚異的な記憶力であるし、これは天才に
特有な性質とも言える。(もちろん、そうでない
天才もいるが。この場合は、発想が常人を遥かに
越えている。)
また、米国史上最もIQが高い大統領とされたクリ
ントン氏(因みに推定IQはアインシュタインと同
じくらいだというのをどこかで読んだことがある
が定かでない)も驚くほど記憶力が良いようだ。
また、IQ200超の天才とされた矢野祥氏も驚くほど
記憶力が良いようだ。
 

情報ネットワーク

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月24日(水)21時41分20秒
  日本が誇る真の天才、というか真に傑出した博覧強記の人
と云うべき南方氏ご執心の研究対象であった粘菌は興味深
いものと考えられる。(そういえば三国志の中の奇妙な話
である、蜀の国を憂えた張松が、頼るべき盟主を訪ねて
魏の曹操に会いに行った所、話のはずみから孟徳こそが
文武両道の傑出した人物であることを自慢して、その
兵法書である孟徳新書を渡された際、これは故人の言の
羅列にすぎないと云って、これなら全て諳んじてみせる
と云って、一字一句間違わずにその内容を述べたと云う。
宴会の座興として一度読んだだけで全て記憶したという
話は眉唾もののように思ったが、南方氏の伝記を読んで
みると、確かにそのような人物はいるようだ。ノイマン
も読んだ本の内容を全て記憶していた、という例もある
から、まんざら後世の作り話とはいえないようである。)

粘菌は単細胞生物と多細胞生物の中間的な生き物である。
餌が豊富にある場合、各個体は個々に生活しているが、餌
が少なくなったりすると、集合してキノコ状の個体となる
のである。この集合化は如何にして為されるのかという、
この原因についてはあまり知られていないようである。
この仕組みは多細胞生物と似たようなものとも考えられる
が、何れにしても集合化と機能分化の仕組みは不明だろう。
個々の細胞同士が何か連絡し合うわけでもないから、どの
ようにして集合化と機能化が為されるのか大きな問題が
残る。
おそらく、それは個々の細胞同士の情報ネットワークによ
るものではないかと考えられる。似たもの同士は情報ネット
ワークを形成するという考えである。そして、このことは
人間についても言えるということである。ある程度「同相化」
された集団は情報ネットワークを形成すると考えられる。
そしてこのネットワークは集団の意思を反映する、ということ
になるのだろう。(万物は一体であるという仮定が正しければ
このネットワークは存在し得る。個々に生じている認識という
のは何も個々の個体に限られる、ということにはならないだろ
うからである。認識は脳の働きによって生じるとしても、脳は
単に電磁場の状態変化の羅列にすぎず、それからは如何なる認識
も生じることはない。これは単に脳の状態と認識との関連付け
によって生じるものだろう。おそらくこの関連付けは基本的な
ものに限定されると考えられるが、この相関が為されるならば、
脳の状態変化によってある認識が自動的に生じる、ということ
になるだろう。この意味では、この認識は受動的なものであり、
第一原因は脳の状態変化ということになる。そして、このよう
なことは何も特定の脳と意識との間でのみ為されるわけではな
いだろう。これは一般化され得ると考えられる。)

そうした情報ネットワーク(情報網としても良いが)は人間の
様々な奇妙な行動性を説明する有力な概念になり得ると考えら
れ、この証明は非常に重要なものだろう。人間は基本的に個々
に独立に行動しているという強固な考えに囚われていると、
それでは全く説明できない現象に遭遇して、大いに悩み込むこ
とになるだろうからである。文系ならばそれを悪霊のようなも
ののせいにできるかも知れないが(人を困らせることに快感を
覚えるというのは大概、悪霊や凶霊といったものであるから)、
理系ならば安易にそんな因果関係をつけたりはしないものだろ
う。そこで、いろいろと考え込むという事態に陥ることになる
のである。
 

同一認識を生じさせる場所

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月23日(火)02時50分31秒
  としては、テレビの置いてある場所が挙げられる。

ある程度行動性が相関する複数の人間がいるものとし
よう。この中の何人かが同一のテレビ番組を見ると、
他の人間もやはり同じテレビ番組を見ようとするだろ
う。このことは誰が見るかということや、全体の何%
が見るかなどによって異なると考えられる。
百匹目のサルという例が挙げられるようだが、これは
そのことを示したものと考えられる。集団の中での認
識がある閾値を越えた場合、それは全体に波及し得る
ということである。宗教はその良い例だろう。また、
科学的知見についてもしばしばそのようになるものだ。

また、騒音や嬌声などに対する嗜好性が生じる理由も
同様である。実際、人々のそれに対する過度な依存性
(執着性とも)はよく認められることである。彼等は
それを学習するとそれを何度も繰り返すという行動性
がよく見られる。通常、その行動には何の意味も認め
られない筈なので、普通はそんなことはしないのであ
るが。
 

超弦理論での物理空間

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月23日(火)02時45分31秒
  超弦理論において高次元空間が仮定されても問題がない
のは、核力のような強い力は到達距離が著しく小さいこ
とによる。つまり、原子核という球状の空間(3次元空間)
は巨視的には1点、つまり0次元と見なすことができるのと
同じである。そのように小さな高次元空間は0次元に縮退
するということであるから、マクロ的には通常の空間と
同じものと見なすことができる。

では、そうした空間が現実の空間を正しく表しているもの
かどうかが問われるわけであるが、これは単に力学的定式
化の問題と言える。力と空間とはペアで考えるべきものと
いえ、力学が変わればこれを記述する空間もまた変わる、
ということになるだろう。重要なことは力学そのものが
現実を正しく表すことができるかどうかである。これは
実験によって検証されるものであるが、超弦理論の場合に
は実験によって検証され得ないので、その正しさを立証で
きないのである。
 

絶対空間

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月22日(月)02時31分8秒
  ニュートンは力学を定式化する際、絶対空間と絶対時間を
仮定して構築した。これは定式化における必然的要求と
言える。始めに計測の基準となるものが決まらないならば、
何も計測できないことになるからである。
したがって、計測の基準となるものが力学の定式化に先立っ
て定められることになる。このため、絶対空間と絶対時間は
全く正しいものとして仮定されることになった。
しかしながら、力学においては第一前提は力そのものであり、
計測の手段の方ではない。この意味では、絶対空間や絶対時間
は重力に付随するものということになる。
絶対空間や絶対時間は共に線形空間であるが、これは常識に照
らして当然のことだろう。例えば、物理空間を非ユークリッド
空間にしたならば、力学の定式化は複雑化するだけである。
この意味で、初期の力学は絶対空間や絶対時間を採用すること
になった。
ところが、光速度の実験をすることになって、そうした物理空間
は正しいものではないことが明らかになった。これはそうした空間
が正しくないということではなくて、力学的に正しくないという
ことである。物理空間は重力や電磁気力に従って定められる必要
があるということである。
なお、素粒子の研究の発展によって、近年では超弦理論が提唱され、
物理空間はさらに高次元の空間であることが仮定されている。
つまり、我々が認識している物理空間は3次元空間+時間次元の空間
ではないということである。
そのように、空間というのは力に付随するものとして考えるべきも
のと言える。つまり、力に対して空間が定まるということである。
或は、そのよううに定式化されるべきである、ということである。
 

情報体の定義

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月19日(金)21時29分1秒
  これは認識情報を生成可能かつ自己認識を持つ
ものということになるだろう。
例えば、蚊のようなものは認識情報を生成し得
る筈であるが、自己認識は持たないと思われ、
これは除外できるだろう。
 

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