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  1. 全力全開(1)
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同一認識を生じさせる場所

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月23日(火)02時50分31秒
  としては、テレビの置いてある場所が挙げられる。

ある程度行動性が相関する複数の人間がいるものとし
よう。この中の何人かが同一のテレビ番組を見ると、
他の人間もやはり同じテレビ番組を見ようとするだろ
う。このことは誰が見るかということや、全体の何%
が見るかなどによって異なると考えられる。
百匹目のサルという例が挙げられるようだが、これは
そのことを示したものと考えられる。集団の中での認
識がある閾値を越えた場合、それは全体に波及し得る
ということである。宗教はその良い例だろう。また、
科学的知見についてもしばしばそのようになるものだ。

また、騒音や嬌声などに対する嗜好性が生じる理由も
同様である。実際、人々のそれに対する過度な依存性
(執着性とも)はよく認められることである。彼等は
それを学習するとそれを何度も繰り返すという行動性
がよく見られる。通常、その行動には何の意味も認め
られない筈なので、普通はそんなことはしないのであ
るが。
 
 

超弦理論での物理空間

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月23日(火)02時45分31秒
  超弦理論において高次元空間が仮定されても問題がない
のは、核力のような強い力は到達距離が著しく小さいこ
とによる。つまり、原子核という球状の空間(3次元空間)
は巨視的には1点、つまり0次元と見なすことができるのと
同じである。そのように小さな高次元空間は0次元に縮退
するということであるから、マクロ的には通常の空間と
同じものと見なすことができる。

では、そうした空間が現実の空間を正しく表しているもの
かどうかが問われるわけであるが、これは単に力学的定式
化の問題と言える。力と空間とはペアで考えるべきものと
いえ、力学が変わればこれを記述する空間もまた変わる、
ということになるだろう。重要なことは力学そのものが
現実を正しく表すことができるかどうかである。これは
実験によって検証されるものであるが、超弦理論の場合に
は実験によって検証され得ないので、その正しさを立証で
きないのである。
 

絶対空間

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月22日(月)02時31分8秒
  ニュートンは力学を定式化する際、絶対空間と絶対時間を
仮定して構築した。これは定式化における必然的要求と
言える。始めに計測の基準となるものが決まらないならば、
何も計測できないことになるからである。
したがって、計測の基準となるものが力学の定式化に先立っ
て定められることになる。このため、絶対空間と絶対時間は
全く正しいものとして仮定されることになった。
しかしながら、力学においては第一前提は力そのものであり、
計測の手段の方ではない。この意味では、絶対空間や絶対時間
は重力に付随するものということになる。
絶対空間や絶対時間は共に線形空間であるが、これは常識に照
らして当然のことだろう。例えば、物理空間を非ユークリッド
空間にしたならば、力学の定式化は複雑化するだけである。
この意味で、初期の力学は絶対空間や絶対時間を採用すること
になった。
ところが、光速度の実験をすることになって、そうした物理空間
は正しいものではないことが明らかになった。これはそうした空間
が正しくないということではなくて、力学的に正しくないという
ことである。物理空間は重力や電磁気力に従って定められる必要
があるということである。
なお、素粒子の研究の発展によって、近年では超弦理論が提唱され、
物理空間はさらに高次元の空間であることが仮定されている。
つまり、我々が認識している物理空間は3次元空間+時間次元の空間
ではないということである。
そのように、空間というのは力に付随するものとして考えるべきも
のと言える。つまり、力に対して空間が定まるということである。
或は、そのよううに定式化されるべきである、ということである。
 

情報体の定義

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月19日(金)21時29分1秒
  これは認識情報を生成可能かつ自己認識を持つ
ものということになるだろう。
例えば、蚊のようなものは認識情報を生成し得
る筈であるが、自己認識は持たないと思われ、
これは除外できるだろう。
 

情報力学について(試論)

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月18日(木)22時28分51秒
  重力によって物理空間(これは相対論的距離によって定められるものであるが)
が規定されたように、ある力に対してその空間を定義することができるだろう。
この力としては情報的引力を考えることができる。
情報的引力とは情報体同士の情報的距離を縮めるものである。
この場合、情報的距離は空間的距離によって定められるものではない。
もっと抽象的なものである。
これは空間的距離は同じであっても、情報的距離は異なるとするものである。
情報的距離によって定められた情報空間は、一種の距離空間(数学用語だが)
と考えることができるだろう。

そして情報空間における実体は情報体(霊体でも良い)ということになる。
(因みに、霊界では相手のことを考えるとすぐにその相手と会えるようだ。
現世でも同様である筈だが、この場合霊体は肉体に付随しているために、肉体
も移動する必要があり、したがって相手との物理的距離が離れていれば、そん
なことは不可能である。)
この質的量は、情報量として定義できるだろう。情報量はシャノンの情報量に
よって定義するものとしよう。これは状態の生起確率pによって定義され得る。

一般に、情報的引力は情報量が大きいほど強くなると考えることができる。
形態が複雑なものほど情報量は大きくなるものであるから、形態の複雑性が高い
ほど、情報的引力は強くなると考えられる。

さて、ここで情報的距離とはどのようなものになるかであるが、これは相似性が
高いほど距離が小さいとできるだろう。全く同一の場合には、情報的距離は0と
なる。
したがって、この情報力学によれば、形態の複雑なものほど、より相似性が高く
なるということが言える。このことは生物が何故、高度な形態、しかも同一的形態
を生成することができるのかを説明することになる。

情報体が自立的可動物体であるとき(生物が代表的であるが)、情報的引力は実際
に空間的距離を縮めるような行動を示すだろう。これは行動意志の生成によって生
じるものであり、物理的力によるものではない。この場合の情報とは、外界の認識
情報ということになるだろう。一般にこれらの相似度が高い場合というのは、両者
が同じ場所に居る場合ということになる。もちろん、同一の場所である必要はない。
もし全く同じような場所があるならば、互いに異なる場所に移動するということも
考えられる。この場合もやはり情報的距離は小さくなるのである。
 

万物は一体である

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月18日(木)01時07分24秒
  という前提が正しいものと考えれば、全ての事象は
全体として意味を為す、ということになるだろう。
局所的にはその必然性や正しさは分からなくとも、
関係する全体を俯瞰すれば、物事は正しく生じる
と考えられる。
それは全体として正しいということであり、個々
に限ればそのようには思われないことも多いだろ
う。もちろん、個々の錯誤もあるわけであり、
全てのことが正しいというわけではないが、個々
の錯誤や作為を除けば、全体としては正しいとい
うことになるだろう。これは一種の諦観である。
占いの必然性はそれによって説明され得る。
 

実際

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月12日(金)03時12分42秒
  周りとの調和や融和を求めず、自らの主張や願望を
周りに強制しようとするのが普通である。(洗脳と
も言える。言葉遣いは丁寧であっても、その目的は
強制的同一化にあり、そのために非常に煩わしさを
覚えるのである。しかし、その洗脳を受容する者は
湯に浸かるかのように自ら率先してそれに身を委ね
るのだろう。それで夢見心地となるのだろう。)
これは世界を自己化しようということの表れだろう。
世界と一体化するよりは、世界を自己化することで、
自己を正当化し、かつ世界との一体化を図れること
になり、その世界に安住できることになる。
そのようになるのは、それが最も容易な方法である
からだ。彼等は改善・改革よりも思考停止もしくは
現状維持を図ろうとするのである。
 

世界は全体として意味を為すこと

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月11日(木)04時03分47秒
  個々の物事は個々独立に生起しているものと考える
のだが、それらの必然性は全体を俯瞰して初めて
意味を為すということが少なくない。
実際、個々の相関性は非常に高いように見える。
このことから、個々の意識は独立的ではなく、全体
として相関しているものと考えられる。
この相関性は殆ど無関係と思われる人々に対して
も認められることから、それは一般性のあるものと
考えられる。したがって、それは一般的原理から
説明されなければならないものだろう。

しかしながら、認識とは個々の相違に着目するもの
であるから、一般に共通性よりも相違性の方を重視
することになるものである。そのため、統合性より
も分断性を見ることになる。これは究極的には自身
にまで分断され、世界と切り離されることになる。
そのように、自己と世界は対立した見方となる。
こうした観点は唯物論的観点からは必然的なもので
あるが、世界に対する認識を全く誤ったものにして
しまうだろう。世界と共に存在している筈のものが
自己と世界は全く異なるものとして認識するので
ある。どのような個人も世界に埋没しているにすぎ
ないのであるが、認識が当人を主体とすることから、
自己と世界という対立した物の見方となってしまう
のである。これが自己以外の全ての破壊性を正当化
している理由だろう。或は、人間以外(党類以外が
現実的であるが)の全ての破壊性を正当化している
理由だろう。

自己と世界という分断した見方から生じる孤立性を
回避するためには、他に対して自己を認識させ、関係
性の構築を要求することになるのだろう。自己の矮小
性を、他者を自己の影響下に置くことによって、自己
拡大を為そうということになるのである。それによっ
てのみ、自己という「世界」の拡大が為されることに
なる。もともと自己は世界と共に存在し、一体化され
ている筈のものであり、そうした一体性を求めるため
に自己的世界の拡大を為そうとするのだろう。両者は
一体性の追求において同じものであるが、個々には
同一であっても、全体として大きな違いが生じること
になる。一方は、世界を自己化しようとするものに対
して、他方は自己を世界に融和しようとするものだ
からである。明らかに、後者の方が正しい在り方だろ
う。前者は、自己以外のものに対して服従や破壊を
要請することになるだろうからである。したがって、
前者は支配と服従という、或は作為や欺瞞という醜い
世界の様相を呈するのみとなるだろう。

一方、世界が全体として意味を為すものと考えれば、
個々の事柄は何かしら意味を持ち、また自身の存在
性の意義をその中に見出しえるということになる。
或はその中に安住し得るということになるだろう。
 

プリンストン高等研究所のこと

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 5月 1日(月)23時30分38秒
  純粋研究の牙城であったプリンストン高等研究所が世間に対
して為した最も偉大なことはコンピューターを開発したこと
だろう。
この研究を主導したのは他ならぬノイマンである。
現在のノイマン型コンピュータの原型を作り上げた、という
ことである。
しかし、プリンストンの研究仲間には不評であった。
そんな単なる計算機など純粋研究には何の役に立たないと思
われていたのである。(数式処理では代数操作が主であるか
ら、単なる計算機などあまり役に立たないのである。)
あれほどの天才達を擁していながら、コンピュータの可能性
について全く理解が無かったのは不思議なことである。
また、当時は半導体の登場はなく、したがって真空管を使用
せざるを得なく、大規模なコンピュータを作ることは不可能
なことであったのも関係しただろう。それは初等的な計算機
に留まらざるを得ないという見方が支配的であったかもしれ
ない。(人間の高い知性も非常に多くのニューロンの集積が
可能になったことによるものである。どのニューロンも基本
的には単純な動作のものである。これからは通俗的精神の
発生以上のことはあまり望めず、したがって天才的知性の
発現はかなり困難なことのように思える。)

しかしながら、学問の一研究所にすぎなかったせいもあり、
資金難に陥り、コンピュータの開発は中止された。
そしてノイマンは無料でその技術を公開して、それは今日
の隆盛を見ることになったわけである。もちろん、そうしな
くても何れは開発されたことだろうが、何年もの遅れが生じ
たのは確かであっただろう。現在、やっと大型コンピュータ
が完成し、そのダウンサイジングが始まった、というところ
ではなかろうか。
小型コンピュータの基礎となるOSのUNIXやc言語の開発、また
Windows開発のビル・ゲイツやスティーブ・ジョブスのような
人々の登場が無ければ、現在のようなコンピュータ社会の到
来は無かっただろう。
極めて稀な偶然によって現在の社会が到来したということだ
ろう。今のような計算機が無ければ、気象計算はできないわ
けであるから天気予報などはなく、したがって毎日雨の心配
をしたり、或は常に傘を常備する面倒を強いられていたこと
だろう。日常の些細なことにまで、コンピュータの恩恵を受
けているわけである。(事務計算は煩雑であるから、膨大な
事務員を社会は必要とし、したがって社会はその人々を「扶
養」する必要に迫られることになる。つまり社会はそれだけ
貧困にならざるを得ないことになる。資本主義社会と技術的
断絶があった共産主義国が資金的に喘いでいたのはそのため
とも考えられる。インターネットと強力なパソコンの登場が
中国の驚異的発展を促した大きな要因であると考えられる。
もちろん、資本主義国による安価で膨大な労働力を求めての
中国への資本投下や技術移転も大きな要因であるだろう。
'90年頃に中国出身のプログラマーと一緒に仕事をした経験に
よれば彼は非常に優秀であり、そうした彼らに欠けているの
は単に環境的相違にすぎないだろうということが想定できた。
したがって、現在の中国の発展は必然的なものであったと云
える。しかし、一般的に西洋人や日本人は彼らを見下してい
たのだろう。彼等に足元を掬われることなどあり得ないと考
えていた筈である。私はそのようには思っていなかった。
むしろ、彼らの能力からすればなぜ発展しないのだろうと不
思議に思っていた。現在はその想定通りになったというわけ
だろう。)

なお、Window型のOSの原型を作ったのはゼロックスの研究員達
であったが、小型コンピュータ化したのは彼らであった。
研究所員というのは潤沢な資金によって、その状況に甘んじて
いるか、資金不足であれば諦めるのが常であるから、小型化し
て庶民にも提供しようという意図はあまり持たないものである。
一方、UNIXというOSもパソコンよりは比較的大きなコンピュータ
であるミニコンクラスのものであり(サイズ的にはパソコンとあ
まり大差なかったが、搭載されているCPUやメモリ容量は大きく
違った)、個人が所有するには高価すぎた。だからこそ、パソコ
ンのOSは当初、非常に簡素なものとならざるを得なかった。
Window型コンピュータの先駆けであるアップルのコンピュータで
さえ、当初は何十万もした上、画面は白黒であり、実用上はまだ
まだであった。趣味としてのコンピュータとしては面白いもので
あったが、それに何十万もかける価値は一般人には無かった。
そのようにコンピュータ開発には長大な時間がかかっている。ノ
イマンの時代からすれば、スマホは驚異的なものであったろう。
彼でさえ、現在のコンピュータを想像し得たかどうかは疑わしい。
 

知性について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 4月30日(日)23時59分52秒
  天才の知性はどこから生じるのであろうか。通常、知性というのは
他の知識の集積であることが多い。ところが、独創的なものである
場合、その源は存在せず、したがって自分の頭で考え出す必要があ
る。例えば、ガロアの5次の代数方程式の代数的解法の不可能性であ
るとか、ゲーデルの不完全性定理とかは、元となるような理論がな
かったわけであるから、それらは自身で考え出したものと考えられ
るが、それにしてはあまりにも高度すぎるのである。
そうした知性の発生は常識では考えられず、その源はどこにあるの
かという疑問が生じることになる。それとしてはやはり神以外には
ないのだと考えられる。(この点が仏教思想とキリスト教思想の
大きな違いなのだろう。庶民にとっては後者は愛の思想ということ
になるだろうが、知性的にはそれは天才思想と結びつくものだろう。
ただし、現在はそれが減退しているように思えるが。)
つまり、知性は孤立性を高めて、神に近づけば非常に高い境地に
至るということである。
一方、通常の知性に対する観点は、他者との会話などにより知識
を獲得して、それを集積していくというものだろう。したがって
これは他者との関わりを強めていくという、前者とは全く逆の行
動ということになる。これは知性をある程度まで発達させるには
有効であっても、ヒステリシス曲線のようにその発達はある飽和点
に達しそれ以上向上することはないだろうと思える。もちろん、
知識の集積を進めることは可能であるが。
したがって、理想的には自我の形成の次に知識の集積を行い、
次に個として思想を深める、ということになるだろう。ちょうど
デカルトのようにである。哲学者は大体そのような傾向となるだ
ろう。数学者も一般人とは話が合わないだろうから、孤立性を
深めることになるだろう。そして、彼らは一般人よりも神に近づ
くということになるのだろう。もっとも俗な仕事から解放されて
いることが条件であるが。
ただし、天才達が象牙の塔ともいえるプリンストン高等研究所に
引き篭もってからは目立った業績を挙げていないという批判もあ
るようだが、これは研究に対するモチベーションの低下もしくは
研究対象の難解さにあったのかもしれない。(数学者としては
30才くらいがピークになるだろうということも考えられるが。)
因みに天才の知性がどのようなものかを知りたければ、例えば
ブルバキの数学原論を読んでみればよいだろう。これは一般人の
知性とはあまりにも違いすぎるということを実感できる筈である。
 

認識的接続性

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 4月30日(日)02時59分10秒
  意識が個々に独立的でないと考えることによって
認識的接続性という考えが生じることになる。
認識が物質状態を単一的に定めるならば、そうし
た認識は共有せざるを得ず、したがって意識同士
に接続性が生じることになる。接続性というより
は関連し合うというべきか。
そのように考えれば、天才特有の容貌の相関性を
説明できるだろう。天才というのは特有の容貌を
備えていて、大概は孤立性から生じるであろう
聡明な雰囲気がある。かの天才のアインシュタイン
も有名後は通俗的容貌となったが、若い頃の写真
を見ると、天才特有の容貌をしているのである。
(脳は20才くらいで完成するために、以後の変化
は天才性にあまり影響しないと考えられる。)
意識が独立的であるが故に、その働きが自身に
特有に作用して美的形質が形成され得るという
ことだろう。同様なことは美人についても言える。
極めて美人というのは無名でしかも若い女性に限
られるのが普通である。
そうであれば、都会に天才や美人が少ないようで
あるのは都会は人が多すぎるからとして説明でき
るだろう。(現在は化粧技術が発達したことから
誤魔化しが容易であるために美人の判定は困難と
なっているが。)
 

シュレーディンガーの猫問題

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 4月30日(日)02時09分59秒
  巨視的な存在である猫が、量子状態の観測行為によって
生死が決まるという、そんなバカなことがあるものかとい
うシュレーディンガーのコペンハーゲン解釈に対する難癖
問題が、シュレーディンガーの猫という思考実験である。
もちろん、シュレーディンガーはアインシュタイン派であ
った。
物質の実在性は人間などの観測行為によらず客観的に定ま
るものであるという、従来の物質観を反映したイチャモン
である。
しかしながら、量子状態は観測行為によって定まるという
実験結果は多数あり、そうした物質観は成立しないものと
考えられている。
であれば、シュレーディンガーの猫というのはどのように
解釈するべきものであろうか。(実際にそのような実験を
したところで、その正しさは立証できないものと思われる。)
おそらく、意識による観測行為によって量子状態が定まる
ということに対する矛盾というのは、意識を物質的働きか
の派生物であると考えることから生じているのだろう。
意識が物質的存在である脳の働きから生じると考えるなら
ば、意識というのは物質の下位概念にすぎず、それが物質
状態を定めるというのは明らかな矛盾である。
また、意識が物質の従属物であると考えることから生じる、
個々の意識は独立的であるという考えもおそらく誤りであ
ると考えられる。意識群は一つと考えるべきものだろう。
そうすることによって全体的矛盾を回避することができる
のだと考えられる。
シュレーディンガーの猫の生死は人間の観測によらず、猫
自身の「観測」によって定まるものと考えれば、それが人
間の観測によって定まるというおかしな状況を回避できる
ことになる。猫の意識もまた一つであるから、それは人間
の認識と連動し得ることになる。
意識が一つであるというのは、人間の行動性を研究すれば
判明することだろう。明らかに奇妙な連動性は多い。
 

将棋と麻雀

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 4月14日(金)22時54分44秒
  これらは共に人気のあるゲームであるが、
人生における勝利者という観点すれすれば
麻雀の方に分があるだろう。
麻雀の方がより現実に即しているものだか
らである。
まず、大概の状況は不完全情報ゲームであ
る。一方、将棋は完全情報ゲームであり、
このゲームに強いということは、演繹的
思考能力や記憶力が高いということを保証
し得るにすぎない。それは自身の能力を検
証するという意味では効果的であるが、現
実に対してどのように対処すべきについて
誤った習性を形成することになろう。
つまり、現実に対する認識は完全であるこ
とは少ないし、状況が完全に固定して安定
であることは少ないのである。状況が固定
しているということからは、その中で最良
の手を選択するという行動性が生じるもの
であるが、状況が固定的でなければその選
択肢が既に消え去っているということがよ
くある。状況の存在性は時間などの経過に
よってよく変わるものだからである。この
ことは将棋指しには苦手な思考だろう。
ある状況が発生した場合、その生存時間が
どれくらいあるかということは常に考慮す
る必要がある。その生存時間内において
有効な手を選択することが、人生における
勝利者として必要なことだろう。(私の
若い時分は現実を将棋ゲームのようなもの
と捉えていて失敗していたように思われる。
現実は全て想定可能なものではないし状況
が固定的であることは少ないのである。)
この点に関しては、麻雀の方がより教育的
であると言える。
しかしながら、この教育性は全く不十分な
ものであったろう。大概はそれほど強くは
ないだろうからである。些細なミスが敗北
に繋がることはあまりないからである。
高度に均衡している場合においてのみ些細
なミスが敗北に繋がるからである。
つまり、実力が均衡しているならば、勝敗
を決するのは、ツキを捉えるか、ミスをし
ないということに尽きるだろうからである。
過去の大戦での敗北もその傾向があったと
言える。実力差に大きな相違がある相手に
対しては勝利は容易であっても、均衡して
いる相手、もしくは実力が上のものに対し
ては、ミスが勝敗を決することになるもの
である。
 

男女における利己的利用

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 4月11日(火)19時20分33秒
  男性は女性を性欲を満たすための対象にすぎないと
看なし、一方女性は男性を生活における糧(お金)
を与える対象にすぎないと看なす、ということが
双方における利己的利用の主なものだろう。(因み
に「亭主は元気で留守がよい」という"名言"があっ
たが、これは後者のことをよく表すものだろう。前者
については女性も同様であると思われるが、それが
男性ほどに顕著に云われないのは、男女における快楽
性の相違が関係しているだろう。つまり、男性の方が
快楽の減衰が明白に現れるために、女性からすれば、
男性は単に快楽のために必要としているという観点が
成立するのだと考えられる。しかし変化が緩やかであ
れば物事の因果性が捉えにくくなる。)
もっとも相手に対する愛情があれば別であるが(一般
論としては恋愛は妥協の産物とも言えるので両者間に
真の愛情が存在する率はそれほど高くはないだろう)、
男性が女性をそのように看做した時点において相互は
利己的に利用し得ると判断することだろう。この点に
おいて利己的利用は相互的となり得る。(そして、こ
れこそが両者間の結びつきを堅固にしているものかも
しれない。忍耐は自己の利益に合致する場合に強固に
なり得る。)
そのように愛情によって支えられるものと看做される
恋愛や結婚の実情は、しばしば利己的観点にすぎない
ものということでもあるだろう。彼または彼女は相手
の薄情を嘆くかもしれないが、それは恋愛における
愛情が利己的動機から生じたものと考えれば納得され
得ることである。

因みに、美(B)(もしくは価値認識)は次のような情報
量によって説明され得ると考えれば
        B=kI=-Σk'log(Pi) (Piは個々の確率)
美的認識は不変的ではないということを示せるだろう。
個々の認知的確率は、認識率の関数でもあるからであ
る。したがって、愛情が美の関数でもある以上、それ
が不変に保たれるという保証はないのである。
 なお、意味のない装飾が好まれるのも、それが情報
量を高めるからだと言える。必然性のないものほど、
認知的想起確率は小さくなるものだからである。この
ような行動性は一般に小細工と呼ばれるものだろう。
確かに小細工は在った方が面白い。理系的観点では
それは極力排除されるべきものであるが、それは楽し
みを奪う行為でもある。

大概は3ヶ月から長くて数年程度となるようであるが、
これは情報の生成量をどの程度維持し得るかと関係す
るものだろう。したがって、それは知性と相関し得ると
いうことが言える。もっとも知性があまり高くない場
合には、個々の確率の減衰性は緩やかになるというに
もなるだろうから、知性との相関性は相反的にもなる
だろう。(なお、映画を何度見ても面白いと思うのは
全てを認識しているわけではないことと関係している
と言える。音楽や小説も同様である。新たな関係認識
が増加することが少なくないし、既に認識したことも
忘却することが多い。したがって、減衰曲線は一定の
ものではない。ある程度、減衰性を緩やかにするため
には知性に対応する情報量が関係するということにな
るだろう。このことは知性と好む情報との相関性を説
明し得る。知性があまり高くない場合には、それほど
高い情報量のものを必要としないものだろう。むしろ
情報量が高すぎる場合には、個々の情報認識が不良と
なり、それらは情報ではなくノイズと看做されるもの
だろう。例えば、数学が得意でない者にとっては、
数式は単なる「ノイズ」と看做されるようにである。)
美女或は一般的に女性がスポーツマンを好むのは何も
肉体的に優れているからということだけではないと考
えられる。
ただし、それは生物学的には自然選択性からの必然性
にすぎないという見方をするかもしれないが。つまり、
種が生き残るには強い個体を選択する必要性があるだ
ろうということである。しかし、個々の人間がどの程
度種の存続性を考慮しているかはかなり怪しいと言え
る。家系の存続性のみを意識しているのが普通であり、
民族の存続性については異なる民族を認識して初めて
生じ得るものであり、同一集団内においては無視され
得る。   
 

嘲笑の効果

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 4月 2日(日)04時01分12秒
  子供のけんかでは、嘲笑は相手にダメージ
を与えることを目的として為されるのだが、
これは認識が初等的であるからこそ有効で
あるにすぎない。
または、相手が弱者であるからこそ有効であ
るにすぎない。弱者の場合には、それが攻撃
と認識され得るからである。

したがって、そうでない相手に対しては、そ
れは自身に対する慰めにしかならないのであ
る。つまり、自己の優越感を満たして、その
不遇を慰める、ということである。
このことは下層的社会ではよく見られるもの
だろう。その中での相対的優位を認識するこ
とで自己の不遇な環境に対して満足感を得る、
ということはよくありがちである。
また、それは賭け事と似ている。統計的に
負けているにも関わらず、たまに勝つことで
その虚しさを解消し得ることになる。彼らが
それを継続するのは、相対的認識によって
その平均的境遇に対しても満足感を得るから
だろう。しかし、大体の場合それに勝ちはな
いのである。
 

嘲笑について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 4月 2日(日)03時05分55秒
  幼児がTVなどの情報を鵜呑みにすることの弊害
としてはお笑い番組があったろう。
人々は仕事疲れを他者に対するお笑いによって
癒そうとするのであるが、大人ではそれは娯楽
と認識し得ても、幼児の場合にはそれが当然の
ことであると認識するようになるだろう。
そうしたお笑いの大半は弱者に対する嘲笑であ
る。TVでは弱者は容易に設定されるものであり、
その真実性はないのであるが、現実ではなかな
かそうはいかない。したがって、現実では弱者
は強制的に造られるものとなる。
人々は弱者を嘲笑して、自己の優越感を満たそ
うとすることになる。このことは仕事において
は抑圧やストレスを感じていることが原因だろ
う。そのように相手からは卑小な存在として
扱われているならば、その解消として弱者を
嘲笑することはその解消となり得る。
私自身は社会のその傾向を非常に危惧してい
たのであるが、その危惧は現実的なものにな
ったと言える。
彼等は依然として嘲笑すべき者を求めている
のであるが、それを支配者にも求めているの
である。それはブーメランのように彼ら自身
に戻ってくることになる。支配者は弱者では
ないからである。
掲示板などでは、自身の見解の文の最後に
"(w)"なる感想文字が付けられることが多いが、
大半は腹を抱えるほどに面白いことではなくて、
相手に対する嘲笑にすぎないのである。そのよ
うに、彼等は常に嘲笑すべきことを求めている
のであるが、多くの場合それは社会の劣化を
生じさせる筈なのである。つまり、それはブー
メランのように彼ら自身に降りかかるというこ
とである。
彼らの本当の願いは自分よりも優れた人間を
嘲笑したいのであるが、実際のところそのため
には自分と同等か愚かな者を選択する以外には
ないのである。優れた人間を嘲笑し得るのは、
虚構的な創作物であるTVなどの世界に限られる
のであるが、彼等はそれを現実的なものとして
認識することになるのだろう。
そうした弊害があまり顕になっていないのは、
コンピュータという優れた道具や機械などがあ
るからだろう。知性はコンピュータやネットが
肩代わりし得るということである。また、非力
は機会が肩代わりし得る。
しかし、そうした肩代わりができないものは劣化
せざるを得ないということになる。
お笑い番組が隆盛していた当時の'80年代辺りは
日本経済の全盛期であり、よもやそのような事態
が訪れることはないと思っていたと考えられるが、
私自身はそのようには思っていなかった。
 

利己的遺伝子

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 4月 1日(土)02時12分1秒
  というのが、ドーキンスの著書により話題となったことが
あった。これは「自己の成功率を他者よりも高める」こと
と定義される。(集団の中の利他性も、遺伝子レベルでの
利己性に還元され得ることになり、動物の行動性は利己性
によって説明され得ることになる。)
この意味では、個々の生物は利己的に存在しているものだ
という考え方が成立するだろう。単に利己的に存在してい
るだけであれば、他の生物が利己的に利用したとしても何
も問題はないという見方にも通じる筈である。これに制限
を加えるのは、法であったり、道徳であったり、慈悲であ
ったりなどする。しかしながら、それらは消極的観点であ
ると言える。
全ては統合的なものであるという観点に立てば、全てのも
のは他のために存在している見方が成立するだろう。そう
であれば、何かの制限が無ければ利己的に利用し得るとい
見方は成立しないことになる。例え、それが自身によって
育てたものであっても、利己的には利用し得ないのである。
ただ、自身の生存のため、或はその害悪を排除するために
利用または排除することだけが正当化され得るのだろう。
人間の場合には社会の一員であるから、自身とは社会をも
含意することになり、その権利が拡大されることにもなる
のだが、本来、利己的利用は正当な権利ではないことを留
意すべきだろう。
人間のみの視点によって、あるものを害であると断罪した
としても、それが正しいことであるとは言えない。何故な
ら、全ては人間のために存在しているとは云えないからで
ある。それが正当であるかのように考えるのは、人間が自
然などを支配し、また非常に多数であるという理由による
ものだろう。
しかしながら、社会はピラミッド構造となり、一部の人間
が他を支配することになり、多数性による利己性の正当性
が失われることになる。このことは人々における利己的利用
観念に相反することになり、したがって社会構造はこの造反
を押さえ込もうとすることになる。
このことは利己的利用観念と社会構造とが一致しないことが
大きな原因であると考えられる。したがって、もし世界が
完全であるならば、これらの何れかが誤りということになる
だろう。
 

この意味では

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月31日(金)01時26分57秒
  幼児の場合、ノイズ情報、例えば娯楽番組のようなものは
「描き込まない」方が良いということになるだろう。
大人では娯楽として捨て去るような情報でも、幼児では
しっかりと描き込まれてしまうようになるだろうからで
ある。
この点で、TVの未出現世代とこの出現世代とでは顕著な違
いが生じるのだと考えられる。このことはエントロピー性
の違いとして説明できるだろう。後者の方が知的エントロ
ピーが高いだろうと思われる。
 

幼児の学習について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月30日(木)20時35分23秒
  幼児の場合、特に意識的に学習するということ
はない。つまり、必死になって何かを覚えると
いう行動を示すことはない。
しかしかながら、幼児の言語の習得に見られる
ようにその学習効果は驚異的なものとなる。
そこで、それは一体何故だろうかという疑問が
生じる。
この理由としては脳の可塑性が大きいというこ
とが第一に挙げられるだろう。
脳の発達というのは、シナプスの形成が増大す
るのではなく、むしろそれが刈り取られること
によって形成されるものである。
したがって、脳が発達するということはシナプ
ス形成が減少するということであるから、新たな
シナプス形成は困難ということになって、何か
を覚えるには、反復学習が必要ということにな
るのだろう。つまり、同一の反応パターンが繰
り返されることによってシナプス結合を増強さ
せる必要があるということだろう。
一方、幼児の場合には、どのような反応パター
ンにも容易に変化可能ということになる。
つまり、この意味ではこの脳の学習というのは
、云わば複写機のようなものと言える。ある情
報を得て、それを脳に転写するということであ
る。
さて、このような情報転写の場合、意識的転写
ということも考えられるだろう。
一般に、優れた子供というのは大概、母親も優
れているということが多いと言える。これは
人格的という意味も含まれている。ただ単に知
能的に優れているということを意味するもので
はない。単に知能的に優れているという場合、
他者に対する関心や愛情はあまり高くないとい
うことが少なくないが、この場合には意識的な
情報転写はあまり十分には行われないと考えら
れる。
この意識的転写は集団意識という仕組みによっ
て生じると考えることができる。つまり、例え
ば母親の意識が子供の脳に作用して、その情報
が転写するということである。このことは、
幼児の脳の特殊性から生じえるのだと考えられ
る。云わば、白紙のキャンバスには自由に何か
を描くことができるが、既に何かが書かれた後
では自由に描くことはできない、というのと
同じことである。
この意味では、幼児の場合ほど優れた知性の人
間を教師に充てた方が学習効果が高いというこ
とになるだろう。ちょうどノイマンの場合と同
じようにである。
 

各意識の集団意識に対する相対的独立性について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月29日(水)20時53分48秒
  本来であれば、集団意識というのは単に個々の意識
を集合化したものにすぎない、という見方となるだ
ろう。
この意味では、集団意識は結果であって原因的なも
のではない。したがって、各意識は集団意識に対し
て独立的であるという見方となる。この見解は唯物
論的にはあまりにも自明であるために、誰も疑うこ
との無かったものだろう。唯一、唯心論的な哲学者
といった人々がその見解に異を唱え得るだけだった
と思われる。
しかしながら、現実を注意深く観察するならば、
個々の意識は独立的であるようには見えないという
事象がかなり多いことに気がつくようになるだろう。
この結果、意識というものが個々の肉体の脳の付随
物にすぎないという見方を変えざるを得なくなるの
である。
そもそも、物質の挙動からは如何なる認識も生じ得る
筈はないのであるから、意識と物質とは互いに独立的
なものであると考えるべきものである。
しかしながら、意識は脳の活動と強固に連動している
が故に、意識は脳の活動における付随物であるという
認識が強固に定着することになる。
この例外は夢などということになるだろうが、これは
一種の妄想のようなものと云え、それに対して明確な
自意識が存在しているとは見なされていない。事実、
夢の中では自己を明確に認識し得ていないのであるか
ら、夢の中で自意識が存在しているとは考えないだろ
う。ただ、何かを見ている自分がいるというだけであ
る。夢の中で理性的思考を行うということはまずない
のである。

さて、目覚めている場合には、自意識は脳の活動と連動
しているとすれば、意識と肉体とは独立的である可能性
を言えるだろう。そして、夢の場合にはこの連動性が
部分的に解除されて、肉体に対する意識の独立性が現れ
るのだと解釈できる。

そのように意識を肉体と切り離して考えれば、純粋に
意識的実体について考えることができるようになる。
この観点からは個々の意識は独立的に存在するものでは
なく、大本の意識からの発現と考えるべきものだろう。
(このように考えることによって認識の生体において
何故自意識のようなものが存在するようになるかを説明
できることになる。もしそのように考えないとすれば、
何故無から意識が存在するようになるのかとを説明でき
ないことになる。)
つまり、個々の意識というのは肉体に付随する脳の活動
を監視しているものにすぎず、個々の固有性は脳の固有性
に還元されることになる。この意味では、個々の意識の
独立性は「見た目」だけのものにすぎない、ということ
になる。
そのように、個々の意識の独立性を放棄すれば、集団意識
の方が一般的な意識の在り方として妥当性が高いというこ
とになる。
したがって、個々の意識は集団意識に属するものという
見方が成立することになる。
もちろん、個々の意識は脳の活動に従属するものでもある
から、集団意識への従属性は全的なものではない。つまり、
「半従属的」なものということになる。
この意味において、個別意識の集団意識に対する相対的独
立性が言えることになる。
もし個別意識のある集団意識に対する相対的独立性が殆ど
ない場合には、それは集団意識或はその中のある個別意識
に対して完全に従属的或は連動的になるということが予想
できる。このように考えることによって、何故会合事象が
極めて巧妙に生起し得るのか、またそれが連続し得るのか
ということを説明できることになる。
なお、相対的独立性は自立的思考性が少ないほど、低くなる
ように推定される。
 

因みに

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月28日(火)22時54分8秒
  デカルトは理性は万人に付与されているものと
仮定したが、実際には個々の言動はそれほど
理性的でないのが普通であり、したがってその
仮定はあまり正しそうでないということになる
のだが、これは個々の意識の独立性が保証され
ているわけでないと考えれば、その矛盾が解消
されることになる。
もちろん、複雑な論理関係を述べる場合には、
個々の論理的判断能力が関係するが、実際には
容易な論理関係であっても、理性的判断ができ
ていないということが少なくないのである。
 

下記で

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月28日(火)22時37分11秒
  意識の独立性の問題を云うのは、意識が独立的であれば、
個々の意識の活動は論理的であり得るが、独立的でなけ
ればそれは論理的ではない、ということを云うものであ
る。
つまり、集合意識が主で個々の意識が従であれば、個々
の意識の論理性は満たされない、ということである。
このことが、なぜ個々の意識は論理性を軽視するのかと
いう問題に答えることにもなる。
つまり、嘘を述べるということは論理的矛盾を引き起こ
すものであり、もし個々の意識が主体的に論理性を判断
しているのであれば、それはできるだけ避けようとする
ものであるが、実際にはそれは非常に軽視されているの
が実情と言える。(多数が同意している限り、集団内に
おいてその嘘は容易に共有され得るのである。)
集団的見解に関する限り、個々の言における論理性は
相対的に軽いということである。
そのように、形成集団を見れば、個々の意識の言動傾向
を推定できる、ということになるのである。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月27日(月)02時58分56秒
  集団というのは任意に形成されるものであり、
そしてこの集団意識の在り方を考えることに
しよう。
 

集団における情報の透過性について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月27日(月)02時57分55秒
  集団というのは認識に形成されるものであり、
そしてこの集団意識を考えることにしよう。
個々の意識というのは個々の肉体に付随する
脳の働きと見なすのが唯物論的考えであり、
これは個々の意識が独立的であると見なす
ものである。
しかし、意識というものが肉体とは独立的
に存在し、これが大元からの派生であると
考えれば、個々の意識というのは独立的で
はない。
それにより、個々の意識というのは集団的
意識を反映したものとなるだろう。

もし、ある意識が他の人間へ配慮をする必要
がないと認識し得る場合、その意識の活動は
フリーとなり、それはその集団意識を増強さ
せる方向に向かうことが予想される。
例えば、誰かの噂話を知っている場合には、
それを相手に伝えるようになるものである。
このことは相手がその情報によって喜ぶ、
或は関心を惹きたてることが理由であろう。
そのようにして、集団意識が強固に形成され
得るということになる。
そのようなわけで、任意的集団同士における
透過性というものが生じることになる。

もちろん、個々のメンバーは集団が異なる相手
に対しては情報の透過性を隠蔽するのが普通で
ある。そのようにして情報遺漏を隠し、自己の
性善性を保持しようとすることになる。

したがって、集団がどのように形成されている
かを判断すれば、情報遺漏がどのように生じ得
るかということを推定できることになる。

しばしば沈黙は金と呼ばれ得るのは、余計な
批判等を誰かに言った場合、それは形成集団を
通じて遺漏することが多い、ということによる
ものだろう。

したがって、仕事を抱えている男子たるものは
余計なことを言わないという、沈黙を守るのが
最善ということになり、一般に就業男子は「黙
る」という傾向を助長するだろう。(しかしな
がら、この傾向によって他者からの信頼を得る
ことが難しくなるという二律背反の状況を生む
ことになるが、これは多くの場合、物の贈答な
どによって信頼を醸成しようとすることになる
のだろう。彼等は沈黙的であるものの、そうし
たことに非常に熱心であることが少なくない。)

もし男子でおしゃべりな人が居たら、情報遺漏
に注意して話す必要があるだろう。相槌くらい
はしても良いが、他への批判等は慎むべきであ
る。例えそれが正等な批判であったとしても、
それは歪曲されて伝えられるようになり、その
場合には自己の正当性を保持し得ないというこ
とになる。
 

そして

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月20日(月)11時54分16秒
  意識状態が低下して現実が固定的となって意識が安定
するようになるのが、「普通の人」つまり正常人と
見なされるようになるのだろう。
しかし、それは統計における多数性を常識的観点から
捉えた見方にすぎないだろう。
一方、現実の可変性が高くなって、現実に対する予測
不能性が高くなれば、意識の不安化を招くようになる
ものである。しばしばそれは病的であると見なされる
ことになるものであるが、このことは現実の可変性と
関係することである。
例えば、暗闇の中では不安感が高まるが、これは予測
不能性が高まるためと言える。
 

現実の固定性

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月20日(月)11時46分56秒
  現実が固定的となるかどうかは、一般化された「状態慣性率」の
高さによって示されるのだろう。
それが非常に低くなった場合に現実の可変性が非常に大きくなる
のだと考えられる。例えば、そのような例としてサイババが挙げ
られるだろう。

現実の可変性は実際に意識状態と関係しているようで、意識状態
の低下は現実の固定性を増すことになるのだと考えられる。
 

貧乏人は金持ちになれないこと(再考)

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月20日(月)02時31分43秒
  以前に同様のタイトルのものを投稿したが、再度この
問題を取り上げることにしよう。
その前に、「麻雀の法則」を述べることにしよう。
それは負けているものは勝つことが難しいという法則
である。
負けているととかく高い手を狙い勝ちで上がりにくく
なったり、上がりたいがために振込みという危険を冒
しがちであるということが大きな原因であろうが、そ
の前に聴牌が難しくなるということも挙げられる。
この理由は勝ちたいという欲求が強くなるが故に、良い
配牌が来て欲しい、欲しい牌が来て欲しいという欲求が
強くなることも大いに関係していると言える。しかし、
そのような場合には逆の結果となるのである。つまり、
その欲求とは逆の結果になることが多いということであ
る。
同様に、貧乏人であればお金が欲しいという欲求が強く
なる筈で、そのような場合には逆の結果、つまり貧乏の
状態が続くということである。したがって、この状況か
ら逃れるのは、結局のところ倹約が一番なのである。
倹約を志し、生活に少し余裕ができたら、少し上の状況
を狙うというようにするのが確実であろう。

さて、何故そのようになるのかであるが、これは状態
選択によるものと考えることができる。いわば、ある
状態は「慣性運動を行う」という法則である。物理の
慣性運動と同じようなことである。それは一般化でき
るということに他ならない。そもそも物質の慣性運動
というのは公理のようなもので、この証明が為された
わけではない。
したがって、それは公理として与えられたものとも考
えられるわけである。そして、それは一般化し得ると
いうことだろう。
つまり、「任意の状態はそれを継続しようとする」と
いう一般公理が得られるわけである。
したがって、何かを欲するということは、それが欠乏
している状態を意味しているわけであり、その欲求が
強いほどその状態が継続するということになり、欲念
と結果とは相反することになる。
逆に、願いは過去形にて思うことが有効であるとよく
言われるが、これはその状態を意識的に形成すること
で、その状況が生じやすくなることが理由であると
考えられる。したがって、それは過去形として思うこ
とによるものではなく、単にそうした意識状態を形成
することによるものと考えられるのである。
 

促成条件を満たすもの

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月17日(金)01時16分29秒
  これは広範な言語的同一性を形成すること、及び
広範な情報媒体を持つこと、そしてこの情報統制
を持つことの三条件となるだろう。
これは第二次世界大戦におけるドイツや日本がそ
の例として挙げられるだろう。
それは新聞やラジオであったが、現在はテレビが
加わり、そしてインターネットが加わった。
ただし、インターネットの情報統制では不完全な
国が多いと言える。
 

したがって

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月13日(月)04時10分49秒
  ある集団が集団化の傾向が強いならば、その集団に
対しては任意な見解を形成することが可能となるだ
ろう。
このことは、その見解の促成が条件となるだろう。
それが促成されれば、周りもその同化作用により、
その見解になびくということになる。

それは会社などではよく経験することである。
客観的には理不尽に思われることでも、ほとんど
がそれに同意すればそれが集団の意志として決定
されることになるのである。
そのことは、集団としての見解が何に定まるかと
いうことによるもので、その妥当性を十分に検討
した結果ではないのである。
 

同化作用

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月12日(日)05時43分1秒
  一般に、集団に全体意識が形成されると、集団には
同化作用が働くと考えられる。集団が少数である場合、
その同化作用は局所的となるが、集団が広くなれば、
同化作用は広域的となるだろう。
同化作用というのは認識などにおける同一化という
ことであり、音によるものが多い。広域的なものと
してはサイレンやヘリコプターなどが代表的と言え
る。
 

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