teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 全力全開(1)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


そして

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月20日(月)11時54分16秒
  意識状態が低下して現実が固定的となって意識が安定
するようになるのが、「普通の人」つまり正常人と
見なされるようになるのだろう。
しかし、それは統計における多数性を常識的観点から
捉えた見方にすぎないだろう。
一方、現実の可変性が高くなって、現実に対する予測
不能性が高くなれば、意識の不安化を招くようになる
ものである。しばしばそれは病的であると見なされる
ことになるものであるが、このことは現実の可変性と
関係することである。
例えば、暗闇の中では不安感が高まるが、これは予測
不能性が高まるためと言える。
 
 

現実の固定性

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月20日(月)11時46分56秒
  現実が固定的となるかどうかは、一般化された「状態慣性率」の
高さによって示されるのだろう。
それが非常に低くなった場合に現実の可変性が非常に大きくなる
のだと考えられる。例えば、そのような例としてサイババが挙げ
られるだろう。

現実の可変性は実際に意識状態と関係しているようで、意識状態
の低下は現実の固定性を増すことになるのだと考えられる。
 

貧乏人は金持ちになれないこと(再考)

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月20日(月)02時31分43秒
  以前に同様のタイトルのものを投稿したが、再度この
問題を取り上げることにしよう。
その前に、「麻雀の法則」を述べることにしよう。
それは負けているものは勝つことが難しいという法則
である。
負けているととかく高い手を狙い勝ちで上がりにくく
なったり、上がりたいがために振込みという危険を冒
しがちであるということが大きな原因であろうが、そ
の前に聴牌が難しくなるということも挙げられる。
この理由は勝ちたいという欲求が強くなるが故に、良い
配牌が来て欲しい、欲しい牌が来て欲しいという欲求が
強くなることも大いに関係していると言える。しかし、
そのような場合には逆の結果となるのである。つまり、
その欲求とは逆の結果になることが多いということであ
る。
同様に、貧乏人であればお金が欲しいという欲求が強く
なる筈で、そのような場合には逆の結果、つまり貧乏の
状態が続くということである。したがって、この状況か
ら逃れるのは、結局のところ倹約が一番なのである。
倹約を志し、生活に少し余裕ができたら、少し上の状況
を狙うというようにするのが確実であろう。

さて、何故そのようになるのかであるが、これは状態
選択によるものと考えることができる。いわば、ある
状態は「慣性運動を行う」という法則である。物理の
慣性運動と同じようなことである。それは一般化でき
るということに他ならない。そもそも物質の慣性運動
というのは公理のようなもので、この証明が為された
わけではない。
したがって、それは公理として与えられたものとも考
えられるわけである。そして、それは一般化し得ると
いうことだろう。
つまり、「任意の状態はそれを継続しようとする」と
いう一般公理が得られるわけである。
したがって、何かを欲するということは、それが欠乏
している状態を意味しているわけであり、その欲求が
強いほどその状態が継続するということになり、欲念
と結果とは相反することになる。
逆に、願いは過去形にて思うことが有効であるとよく
言われるが、これはその状態を意識的に形成すること
で、その状況が生じやすくなることが理由であると
考えられる。したがって、それは過去形として思うこ
とによるものではなく、単にそうした意識状態を形成
することによるものと考えられるのである。
 

促成条件を満たすもの

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月17日(金)01時16分29秒
  これは広範な言語的同一性を形成すること、及び
広範な情報媒体を持つこと、そしてこの情報統制
を持つことの三条件となるだろう。
これは第二次世界大戦におけるドイツや日本がそ
の例として挙げられるだろう。
それは新聞やラジオであったが、現在はテレビが
加わり、そしてインターネットが加わった。
ただし、インターネットの情報統制では不完全な
国が多いと言える。
 

したがって

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月13日(月)04時10分49秒
  ある集団が集団化の傾向が強いならば、その集団に
対しては任意な見解を形成することが可能となるだ
ろう。
このことは、その見解の促成が条件となるだろう。
それが促成されれば、周りもその同化作用により、
その見解になびくということになる。

それは会社などではよく経験することである。
客観的には理不尽に思われることでも、ほとんど
がそれに同意すればそれが集団の意志として決定
されることになるのである。
そのことは、集団としての見解が何に定まるかと
いうことによるもので、その妥当性を十分に検討
した結果ではないのである。
 

同化作用

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月12日(日)05時43分1秒
  一般に、集団に全体意識が形成されると、集団には
同化作用が働くと考えられる。集団が少数である場合、
その同化作用は局所的となるが、集団が広くなれば、
同化作用は広域的となるだろう。
同化作用というのは認識などにおける同一化という
ことであり、音によるものが多い。広域的なものと
してはサイレンやヘリコプターなどが代表的と言え
る。
 

情報化社会

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月11日(土)21時42分6秒
  では、一般に個から集団に意識的傾向が変化すること
になると考えられる。

情報化社会の顕著な変化はTVの出現だったろう。
これ以前に生まれた人とこれ以後に生まれた人では、
性質が異なると考えられる。前者では個に焦点が定
まっていることが多いようであるが(このため演技
などに嘘くささがあまり感じられない)、後者では
個に焦点が定まらないせいか、空間に散逸するよう
な感じが多いように思われる(このため演技過剰に
なる傾向があるように思われる。声優も同様である
が)。つまり、後者では無理が生じて不自然な演技
になるということである。これは音楽についても言
えることであるが。
'70年代前の音楽が比較的自然な感じがするのに対
して'80年以後は人工的な感じのものが多いのは、
作り込みをせざるを得ないからであろう。

因みに、空気を読むというような芸当が容易である
ようなのはもともと意識が集団的であるからだろう。
或はそれに属しているからと言える。
しかし空気は読めても、それに同化するということ
はしないのが普通だと思われる。だから、空気を読
むなどという風潮は以前は生じる筈がなかったのだ
と思われる。それは単に同化圧力としてのみ現れて
いたのではないかと思われる。
 

以下の変化

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 9日(木)20時04分40秒
  については、自己に焦点が合った状態を認識し得て
いない場合には違いが分からないと思われる。私も
以前はそうだった。
おそらく、現在では意図的にその状態を作り出さな
い限り、達成困難だろうと思われる。

幾多の賢人が山に篭って修行したように、それと同
じことをすれば容易と思われるが、そんなことをす
る人間が現在の情報化社会に居る筈はないからであ
る。
自己に焦点が合っていないが故に、他者に依存する
ことになるのだろう。それは自己と区別がつかなく
なるだろうからである。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 9日(木)03時39分39秒
  一般に、未知の土地に移動した場合、最初の内は自己認識は
概ね自己に留まるが、そのうちその土地の認識が深まると、
自己はその土地に「順応」するということになるものである。
 

自己認識について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 9日(木)03時38分11秒
  自己認識を自己の肉体に付随するものという従来の考え方
によれば、これは自己の肉体のみに関することであり、他者
は関与しないのは当然のことである。
しかし、自己認識を自己の肉体に付随するものではなくて、
外部の自立的意識に付随するものと考えれば、自己の肉体と
はこの情報的同一性のみによって関係付けられることになる
だろう。
したがって、一般に自己認識は環境認識によって変化するこ
とになる。
これはよく経験することではないかと思われる。そうした欲求
のよい例が旅行である。これは自己認識を変化させるのに効果
的と考えられるのである。
自己認識は自己に固有な継続的生存環境(自分の部屋など)に
よって規定付けられるだろうが、この環境に変化が生じると、
自己認識は揺らぐことになり、そのために他者との相互作用が
生じるようになると考えられる。
一般に、未知の土地に移動した場合、最初の内は自己認識は
概ね自己に留まるが、そのうちその土地の認識が深まると、
自己はその土地に「順応」するすいうことになるものである。
したがって、「自己拡大」が生じるということになるだろう。
それはその土地の環境認識によって、他の「自己認識」との
共有性が生じるからであると考えられる。(思考盗聴なるも
のが言われることがあるが、これはこの仕組みによって説明
可能だろう。これによって自己の行動念が他者にも伝わると
いうことになるだろう。このことは自己と他者との区別が曖昧
になるからとして説明できる。そして、自己の想いは他者に
も伝わるということになる。このことは人間だけでなく、他の
動物についても言えることであるが。つまり、そのように一般化
できるということである。もっとも動物の種により違いがある。
特に、猫と犬とは視覚認識の違いにより、これらとの接続性が
異なるだろう。犬とは接続性が相対的に高いだろうが、猫とは
低いだろうと考えられる。このため、猫と人間とは行動性は独
立的であるのだろう。一方、犬の場合では、その生存環境の
認識によって相互作用性が高くなるようで、犬がいる場所に
近づくと吼えられるということをよく経験する筈である。しか
しながら、散歩している犬ではそのようなことが明らかに少な
く、このことは散歩している環境では犬の自己認識が異なる
からとして説明できるだろう。)

そのように考えれば、夫婦の場合では自己認識が入れ替わる、
ということになるだろう。妻は夫化し、夫は妻化し得る、と
いうことになるが、これは現実をよく反映しているのではな
いだろうか。もちろん、それぞれ自己認識は自己の環境に特化
し得るだろうから、その共有化は限定的なものであるが。
 

もちろん

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 9日(木)03時08分28秒
  物理的原因や行動因もあるが、これらの明確な原因以外に
念的原因もあり得る、ということであるが。
 

制御因について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 5日(日)05時39分26秒
  制御因は主に「念」ということになるだろう。
或は、認識状態ということになるだろうか。
麻雀が良い例である。その仕組みは全く不明で
も、牌のある組み合わせが自動的に定まるこ
とになる。その仕組みは当人には全く分から
ない筈である。
それはただ状態選択として説明可能である。
ある状況を作りだす状態集合があるとしよう。
そして、それらの集合の任意な要素は確率的
に生起可能であるとする。とすれば、それら
は物理的因果律を逃れることができ、確率的
ながらも任意的に生成可能ということになる。
(上記の場合はある牌の組み合わせではなく
て状態集合の決定ということになるが。)
したがって、それを制限するものは確率性以外
にはないということになる。この確率性は統計
的に定まるものであるから、最初の場合はこの
統計性が働かないということになり(これは認識
上のものでもあるが)、確率的制限が解除される
ということになるだろう。

さて、物理的状態が念によって決定されるという
考えは、量子の観測問題から言うことができる。
それは物質自身によっては定まらず、意識が観測
することによってのみ定まるのである。もちろん、
意識がある状態を決定するということではなくて、
観測する時にある物理状態に定まるということで
あるが。
意識というものを個を越えて全体的なものと考え
れば、おそらく物理的状態は意識によって決定さ
れ得ると考えられる。(そして、このことによっ
て神の全能性が説明され得る。神は究極の全体
的なものであるから、全ての矛盾を逃れ得ること
になる。なお、意識が個に収束するほどに現実は
安定し易くなると言えるだろう。)
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 5日(日)04時25分58秒
  例えば方災の場合、月で作用するものは数ヶ月間
働くことになるが、そうであれば相手は長期間関
係する人々が対象となり易いだろう。
 

また

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 5日(日)04時24分6秒
  定義系を先に定めれば、対象となる集団が定まる
ということにもなる。
例えば方災の場合、月で作用するものは数ヶ月間
働くことになるが、そうであれば対象となる集団
は長期間関係する人々が対象となり易いだろう。
それは親族であったり、友人であったり、仕事上
の関係の人であったりするだろう。そのように
長く付き合う人々において方災現象が現れ易いと
言える。(その原因を作るのは自身である場合も
あるだろうし、相手でもある場合もある。できる
だけ自身が原因とならないように気をつける必要
がある。自身によるものが最悪になり易いものだ
からである。)
もっとも偶発的なものは対象集団が特定されること
にはならないが、これは各行動時における接近可能
な人が対象ということになる。この場合には自身の
行動に常に注意を払う必要があるだろう。認識の
盲点を突かれるということが少なくないだろうから
である。
 

定義系について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 4日(土)23時03分21秒
  定義系を任意的にするということの意味は、個々の意識の
組み合わせ方は任意的であることが理由である。これが
任意であることから、定義系は任意的である必要があり、
ある組み合わせに対して適当な任意系が対応し得るとい
うことである。
そして、その定義系に対してある制御系が対応するとい
うことになる。
しかし、任意な意識の組み合わせに対して直接ある制御
系を対応させることはできないことから、その前に定義
系を対応させるということである。
例えば、方災を考えることにすれば、これを規定する規則
が定義系ということになろう。もちろん、ある意識の組み
合わせに対してただ一つの定義系が定まるというわけでは
なくて、一般的には複数対応し得る。
 

御神体について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 3日(金)20時44分50秒
  日本では八百万の神が信仰され、このご神体が祀られる。
一般に、それが「神」として信仰され、その「実体」と
考えられるわけであるが、それは単なる物質的対象物に
他ならず、それ自身が何かのパワーを秘めているという
わけではないだろう。
それは、全体的意識を形成する人々における意識的関心
の共通部分、つまりその情報的接続におけるカーネル(核)
ということになるだろう。したがって、御神体というのは、
そのパワー的表象なのだと考えられる。
それが一般に華美や豪華であったりするのは、その方がよ
り価値があるという人々の思い込みによるものと考えられ
る。教会がそのようであるのも、人々の価値観を体現した
ものだからだろう。価値が高いと思えるほど、人々の関心
が強くなり、カーネルとしての力を発揮するようになるも
のである。それはスターの場合と同様である。
 

全体的意識の証明

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 2日(木)21時49分47秒
  個々の意識が独特な行動様式を示すように、この集団から
形成される全体的意識というのも行動性によって証明され
得るものとなる。
つまり、行動様式によって全体的意識を定義すれば、この
制御系が存在するということになり、これは統計的に推定
され得るものとなる。しかも、これは曖昧なものではなく、
人間の行動のように比較的明確なものとなるだろう。

もっともその定義の仕方は任意的でもある。そして、定義
系に対して対応する制御系が存在するということになるだ
ろう。これがその証明の一般化ということなるだろう。
 

全体意識について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 3月 2日(木)06時32分6秒
  究極的にはこれは「神」を意味する。
しかしながら、個々の存在の動作が異なること
から、それらの集合から形成される全体意識と
いうのは個別に分けられ、「神」の各部分が
全体意識ということになる。この分割の仕方は
任意的でもあるので、全体意識というは神の
部分集合の全体集合ということになる。
(個々には明確に区別されるが、この全体と
いうのは明確に区別されるわけではない。
例えば、民族という概念を考えても、この
明確な集団が特定されるわけではなく、こ
の曖昧な全体が民族という集団を規定する
ことになる。)

それは一般に無限集合となるが、行動機能的
にはある全体意識が特定され得る。

八百万の神は神から派生したものとはいえ、これ
らが概念的に異なるのと同じということである。
 

現在の状況

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月27日(月)23時17分11秒
  ずっと昔に聖書を読んでいた。その中で、「終わりの日」に関する
記述が妙に記憶に残っている。当時はその状況がよく飲み込めなか
ったが、現在の視点では非常に納得がいくようになったように思う。
それは実際にはもっと先のことかも知れないが、今の状況がそれに
かなり近いように思える。
 

欲念の逆効果について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月26日(日)20時45分12秒
  一般に、ある欲求が強いほど、それを満たす事象の
実現が抑制されるという現象をよく経験する。
この傾向から、貧乏人はなかなかその状態から脱する
ことができないということになるのだろう。例え、
少しお金に余裕ができたとしても、何かと出費する状況
が生じて、貧乏な状態から抜け出すことができない、と
いうことになるだろう。
それは気持ちが貧乏な状態に「セッティング」されてい
るためと考えられる。その状態は本来は自身が望むもの
でないにも関わらず、意識的関心がそれに固定されてい
ることから、その状態が継続するということになるのだ
ろう。
このことは、例えば麻雀ゲームでは比較的顕著に起こる
ことである。負けている状態ではなかなか上がることが
難しく、逆に何度も上がっている状態では、上がるのが
極めて容易なこととなるのである。もっとも、そのよう
な場合でも、自身のミスによってそのツキを手放すこと
も多いが。

さて、幼児などは自己の欲求を求めて泣き止まないとい
うことがよくあるが、そうした欲求形成心理は後の人生
に大きなマイナスになると予想される。また、そうした
心理は他者に忌避感を生じさせるようになるという意味
でも有害と言える。
 

嫌うと寄ってくること

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月26日(日)01時12分6秒
  不思議なことに、嫌うと寄ってくるという現象がよく起こります。
これは相手の意図によるというよりは、「自然現象」によるものと
思われます。
何故なら、その対象の人間はその状況を知り得ない筈であること
が少なくないからです。
一般に誰かに無視されると不安に駆られるようで、その状況を改善
しようとする心情が働くように思われます。したがって、危険など
を回避しようとして誰かを避けた場合には、相手は逆に接近しよう
という意識が働き、その念が生じるものと考えられます。この思念
がその状況を設定することになるのでしょう。これは自身に対して
のみならず、対象の人間に対しても働くものとなり、無意識のうち
にその行動を取るようになるのだと考えられます。
このような制御の仕込みは全体的意識から可能になることだと考え
られます。
したがって、その想いが成就しない場合には、その念は他の人間に
伝達され、接近的事象が連続して発生するということがよく起こる
ように思われます。

そうしたことを一般化すれば、「嫌うと寄ってくる」という言葉で
表現できるでしょう。或は、「避けると寄ってくる」とも云えます。
これは他の誰かも言ってるいることであり、当時の若かった時には
そんなことがあるわけがないと思っていたのですが、年輪を重ねる
うちにそれは真実であると認識するに至りました。(現在の義務
教育は精神論を廃した唯物論的見方ですから、私もこの考えを踏襲
していたということなのですが。また、初等教育での科学は19世紀
以前のものに限られ、これはラプラス的な因果的物理世界を反映し
たものと言えます。つまり、全ての粒子の運動が観測できるなら
ば、物事は全て決定されるという物の見方です。しかし、この因果
的世界観は量子論によって否定されました。ところが、この量子
力学は初等数学によって教えることは困難なため、物理等の科学は
古典的世界観によって教えられるというわけです。)

では、「お金を嫌うと」とお金が寄ってくるのかということになり
ますが、これはお金自体には念が生じる筈はないですから、それは
有りえないことでしょう。もっとも、欲念の逆効果により、相対的
にお金が寄ってくるということはあるかもしれません。つまり、
お金が欲しいという想いが強いほど、それが実現しなくなる傾向も
あり、したがってその想いを消去すれば、自然に「お金が寄ってく
る」状況が生まれるということになります。
 

意識の混合性

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月22日(水)23時30分20秒
  これについては、朝起きた状態と仕事が終わって帰宅した状態の
違いを比較して見ればよいだろう。明らかに後者の方が意識の混合
性や混濁性が高いことに気がつく筈である。しかも仕事のことで
悩むことがあるほどその傾向が強いと言える。このような場合は
自分について考えるよりも何か他の熱中できることに意識を集中
するのが効果的と言える。そうすることで、他との意識的相関性
を減退させることが可能になるだろうからである。或は、別の
共有的メディアを観賞することによって、意識的相関性を変える
というのも効果的かもしれない。また、定番の晩酌も効果的と言
えるが(これは脳の興奮性を鎮めることによるものであるが)、
これはアルコール依存症などの弊害がつきものであるから、この
有効性の下限値ぎりぎりのところで抑えるべきであろう。
 

女子高生

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月18日(土)21時54分56秒
  夫婦が男女混成型の自我IDになるという考えからは、
この逆の型もあることになる。この良い例が女子高生
や女子大生である。特に地方の女子高生がより顕著に
なるのではないかと思われる。都会では人が多いため
にやはり混成型となる傾向にあるだろう。(人種の混
合が美女を生むという見方もあるが。)
私の記憶では、田舎の女子高生が平均して最も魅力的
であったように思う(これは一般論として言えること
と思われ、地方的差異のことを言っているわけではな
い)。それは成長によるものとも考えられるが、その
女性と高校卒業後に再会した時には、高校時代の透き
通るような魅力は幾分減退したように思われた。
 

自己性の喪失について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月16日(木)00時11分59秒
  人間同士が情報的に接続し得るものだという仮定からは、
自己性の喪失ということが考えられることになる。
そこで、自己とは何かということが定義される必要があ
る。これはその個体に固有な情報体系であると定義する
ことにしよう。
この情報系は一般に加齢と共に減少するようになると推
定される。実際、中高年の人々にそのような傾向がよく
認められるように思う。これは行動に現れる。認知が
自己に焦点が合っていない場合には、行動が散漫になり
やすいからである。そして、認識というのは常に他者に
向かうものであるから、情報体系がそっくり他人のもの
に置き換わってしまうということもあるだろう。そのよ
うになれば、もはや自己を喪失するということになるだ
ろう。もちろん、完全にそのようになることはないが、
その方向に進むことになるものである。
そのようになった場合、彼ら(或は彼女ら)は他者との
共存を図ろうとするようになるだろう。それは他者が
自己と置き換わってしまうことによるものである。彼ら
が他者を尊重するのは、それが自己体系に属するように
なるからである。したがって、それは利己的なものであ
って利他的なものではない。もし相手が自己の利益と反
するような言動を取れば、容易に手の平を返すことにな
るだろう。彼らは基本的に自己を中心にしているものだ
からである。他者は自己の範疇に属する限りにおいて
「利他的」であるにすぎないだろう。自己認識における
一般化がなされていない限りは、真なる利他性を獲得す
ることは難しいように思われる。つまり、真の意味で
自己拡大が為されない限り、それは難しいだろうと思わ
れる。一般にそのような人は聖人と呼ばれるものだろう。
例えば、キリストや釈迦などが挙げられる。通例は、利
他的であるように思えても、自己に不利になる状況が生
じれば、嘘をついてでも自己弁護に終始することになる
ものである。そして、彼等は自己について反省するより
前に真っ先に相手を切り捨てたり、批判したりするよう
になるのである。そうした人は利他的とは言い難いだろ
う。(このような人はよく見られる。)

さて、自己性がかなり喪失した人というのは一般に他者
に接続的となるようである。このことは他者認識と強く
関係しているだろうから、一般に都会の人ほどこの傾向
が強いだろう。このことは、都会は人口密度が高く常に
他者を認識する状況にあるだろうからである。しかも、
知識や知的水準がほぼ同等であるほど、自己と他者との
区別がつきにくくなるだろう。そのような人は容易に他者
に没入してしまうようになるだろう。
そのようなことはペットが良い例だろう。それとしては
犬が代表的である。飼い主を自己と同一視してしまい、
飼い主の為に自己犠牲をするようになるのである。それ
は相手を自己と見なすことによるものだろう。もちろん、
飼い主は自己と同じものではないという認識はある筈だ
が、自己という情報体系の中には飼い主がその中心に収
まっている筈である。肉体の生理的欲求等を除外すれば、
飼い主こそが自己の情報体系の主体を成すようになるだ
ろう。そして、このようなことはまさに人間についても
言えるというわけである。
例えば、夫婦が良い例だろう。しばしば伴侶の死が欝病
を引き起こしたりするのは、自己喪失のためと考えられ
るのである。(基本的に自己とはこの情報体系であると
考えることによる。この体系は自己の行動や行為によっ
て形成・拡大されるものであるから、自己の肉体と関係
付けられるものであるが、本質的にはそれは何でもよい
のである。もし、情報体系が動的に他から与えられるな
らば、任意な自己の情報体系を構築できるということに
なるだろう。現在はその途上にあり、このため自己の生
というのは以前に比べて「比重」がかなり軽くなってきた
と言える。)
 

念の伝達性について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月13日(月)21時34分26秒
  想念こそが思考の源泉であるといえ、想念が行動を
律するものとなるだろう。
そのように人の行動は、脳内の反射回路や論理的思考
よりも情念的や想念的なものが第一のものとなること
が多いように思われる。
ある想念が生じ、それに対して脳内反射が起こり、
行動が生じるということになるのだろう。
したがって、それは非論理的なものとなり得る。
例えば、行動原則として危険を回避するというの
は基本的なものと考えられるが、こうした行動規
則が当てはまらないような行動がよく見られるの
も、想念によって行動意志が決定されたのだと考
えれば納得がいくことだろう。
不意に何かを思いついて、それが思わぬ禍を引き
起こした場合、何故そのようなことをしたのだろ
うと反省して見ると、その時そのような想いが、
突然生じたからだということが少なくない。それ
は過去の習慣的行動が何かの拍子で突然的に脳内
に生じたからとも考えられるが、それを引き起こ
すような想念的作用があったからとも考えられる
のである。
そのように、人の行動は脳内の反射経路によって
だけでは説明のつかないものだろう。

さて、想念が人の行動を律するものということに
ならば、念の伝達性が考えられることになる。こ
のことは、個々の人間が独立的に存在しているも
のではなくて、情報的に結合し得るものだという
考えからである。ある人に生じた想念は接続され
ている人に対して伝達し、その想念作用が完結し
た時点でそのエネルギーが解消されるということ
になるだろう。想念を生じさせた当人によって、
その作用が完結した場合には、その念の伝達は
生じにくいと考えられるが、つまり脳内における
思考活動によってそのエネルギーがほとんど減衰
した場合には、念の伝達は起こらないと考えられ
るが、それが完結しない場合には、それを完結さ
せるために、接続されている全体においてその
作用を完結させることになるのだと考えられる。

例えば、男性数人が街を歩いているとしよう。そ
の時、突然美女が現れた時、その中の一人に生じ
た想念はその全員に波及するというようなもので
ある。このことはそうした雰囲気が他に伝わった
からと考えることもできるが、それと同じような
ことは全く関係のない男性に対しても波及し得る、
ということである。このことは情報的接続関係に
ある場合、念の伝達が生じるためと考えることで
説明できる。しかも、そうした想念というのは想
いのみで終わり、行動として実行されないのが普通
であるから、それは念として完結し得ないことが
多いだろう。
そのようなわけで、美女というのは同じような状況
が連続するということが多いのではないかと想定さ
れる。
そうしたことは一般化され得るのである。何故、あ
ることが連続するのかという疑問は、念の伝達性を
考えることによって説明されるだろう。そして、彼
等は危険を省みず、火中の中にも飛び込もうとする
のである。このことは念が行動の第一原因であると
考えれば納得がいくことだろう。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月 5日(日)03時30分14秒
  この接続によって祭事は順調に進むことになるのだろう。  

儀式について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月 5日(日)03時28分44秒
  祭事では一般に儀式が行われるが、客観的にはそれには
あまり意味がないように思えることが多いだろう。(見
慣れぬ者にとってはそれには意味がないと思うことにな
るものだ。)では、それには実質的意味はないということ
であろうか。
それは一般性があることから、やはり何らかの意味がある
と考えられる。それにはおそらく情報接続的効果があるの
だと考えられる。何との接続かということになるが、それ
は過去のその祭事との接続である。この意味では、儀式は
情報接続における接続IDということになるだろう。この接続
によって儀式は順調に進むことになるのだろう。このこと
は人々に刷り込まれた記憶を呼び覚ますことによると考え
ることもできるし、「情報的慣性効果」によると考えるこ
ともできる。この慣性効果は同じようなことは何度も繰り
返されるという傾向を云うものである。
したがって、儀式は固有のものである必要がある。華美
な装飾と複雑な形式がその固有性をもたらすことになる。

なお、験担ぎも同様の行為と見なすことができる。それは
過去の成功情報との接続的意味を持つのだと考えられる。
実際、成功事例に即して同じことを繰り返す人は少なくな
い。
 

情報的平衡の例

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月 4日(土)19時28分46秒
  情報的平衡状態とは、相互に異なる情報系があった
場合、これらの間で情報のやり取りが存在し、その
結果、相互に情報的に同一的となることを言うもの
である。
このような例としては、夫婦が挙げられるだろう。
もちろん、情報的平衡状態には達することはないが、
相互にその状態へと向かうことになるのである。
何故、おばさんがおばさんじみるようになるかとい
うことは情報的平衡状態への必然的移行として説明
できる。諺でいえば、朱に交われば赤くなる、とい
うのと同じことである。もっとも情報的平衡状態は
情報的閉鎖系において最も効率的に移行することに
なるだろう。そして、そのような夫婦の例は一般化
され得る。
 

仮想的隘路の形成について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月 4日(土)04時04分22秒
  これは確率的なものであるから、このためにはその形成に
最も効率的なものが選択されるということになるだろう。
それとしては、移動速度がかなり遅いものや(これは形成
時間の延長に寄与することになる)、反対に移動速度が
相対的にかなり速く移動性が容易なもの、また幅の広い
移動物体のもの(乗用車やトラック等)などが挙げられる。

なお、仮想的隘路ではなく、一時的実隘路の場合もある。
例えば、大都市では年度末には道路工事が増えるようでも
あり、その時期には道路工事がよく行われる。したがって
実隘路が形成されていることも多い。それに遭遇する事が
多いのであれば、それは自身がその形成を行っていると
見なすことができる。(結局、個々の人間も全体の中の
一部にすぎないということであり、したがって個々の行動
は全体的意志によって操作され得るということである。そ
れは自身の意図や思惑とは無関係にである。)
 

統合性の補足

 投稿者:通りすがり  投稿日:2017年 2月 4日(土)01時10分10秒
  それは統合性のための統合性にしかならない、
ということが少なくない。つまり、それは統合性
そのものが目的となることが少なくないのである。
統合性それ自体は何の意味もないということがよ
くあり、したがってそれは単に軋轢を生むだけと
いうことになるのである。

例えば、仮想的隘路という概念を導入すること
にしよう。これは特定の道路状況によるもので
はなくて、人々の流動性の結果生じるものである。
例えば、ある地点にその流動性の限界を超えて
集まれば、仮想的隘路が生じることになる。
そして、一般に統合性の増大は仮想的隘路の増大
を引き起こすことになるのである。それは極めて
顕著な変化である。もちろん、これは個々には
空間的変化ではなく、時空的変化となるだろうが。
 

レンタル掲示板
/92