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スレッド一覧

  1. 全力全開(1)
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(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2019年 5月 5日(日)20時43分36秒
  レスなしか
 
 

所で

 投稿者:なし  投稿日:2019年 4月21日(日)22時17分22秒
  ケト-エノール互変異性 ってどう?
 

仲間を形成すること

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月23日(土)21時46分2秒
  子供のように競争や嫉妬、争いが好きな人は自己の優位性を
保つために、必ず仲間を形成するようになると考えられる。
世の中には不自然に仲間を形成する意図の強い人がいるもの
であるから。
大人の場合、大抵は腕力によらず、権力や多勢によって自己
の優位性を示そうとするものである。また、悪事は隠蔽して
行われることになる。
 

子供の大きな錯覚

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月23日(土)21時19分15秒
  それは「大人」という幻想。
子供の頃、大人というのは体が大きく、しかも豊富な知識があって
態度も子供のようにはしゃいだりしないことから、なるほど素晴ら
しい人間に違いないと思った筈である。
しかし、自分がいざ大人になってみると、精神性というのはほとん
ど変わってはおらず、変化したのは体が大きくなったことと知識が
増えたこと、思考力が増したというくらいものである。精神性はほ
とんど変わらないというのが普通だろう。
子供の頃、嫉妬深ければ大人になってもこの傾向は変わらない。
また、子供の頃、他人を苛めることに快感を感じていれば、それは
大人になってもあまり変わらない筈である。
つまり、その意味で大人社会というのは子供社会の延長にすぎない、
ということである。
もちろん、精神性も向上しているという場合もあるが、それは少数
にすぎないといえ、統計的には子供社会の延長と看做すべきもので
ある。
大人の泰然とした態度は単に情報量的退化によるものか、状況に甘
んじた結果にすぎないものなのだろう。この点だけが子供と大人の
本質的相違ということになるだろう。
大人びた態度というのは仮面にすぎなかったということである。
つまり、子供の頃に思っていた大人というのは仮面を被った大きな
人ということだったのである。
この仮面性は現在ではSNSなどの発達により、子供でも容易に把握
できるようになり、大人に対して幻想を抱く子供は少なくなったに
違いない。大人だって子供のようにつまらないケンカに終始してい
るのは日常の風景である。
精神的に成長しない大人は仮面を被らざるを得ないか、または社会
の低層に甘んじて生きるしかないだろう。時に後者は「天然」と持
て囃されることもあるが、これは単に珍しいからにすぎない。
 

批判というのは

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月22日(金)21時56分37秒
  数打てば当たる、という方式であってはならない。
相手の弱点を見定めて、そこを突破するというのが
正攻法であるな。
彼の場合、余計な弾を打ちすぎ。
駄文を書き連ねるだけならばそれでも良いのだが、
相手の批判をする場合もそれと同じであってはな
らない。
つまり、小学生の作文であってはいけないという
ことである。小学生の作文というのは関係のない
ことをただ詰め込むだけというのが多いのである
から。
 

君の方じゃないのか

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月22日(金)21時51分48秒
  まるで意味のない駄文だらけじゃないか。
何を言いたいのかさっぱり分からない。
ま、2チャンなどにはよく見かけるが、
だからといって、それが当然視されるわけ
ではない。

 

落ちこぼれ

 投稿者:通りすがり8号  投稿日:2019年 3月21日(木)06時03分50秒
  知、知恵、知識。
さて、人間、なかんづくわたしたち庶民はどう距離をとるべきなのか。
知の世界は死屍累々なんだよな。
ほとんどの人が新たな知を生み出そうとして足掻いて、倒れる。
生み出せば大きく貢献できるのだが、生み出さなければただの石潰しになることも。

アドラー心理学では、苛めは劣等感のある人間が自分より劣等だと思える人間を探し貶めることで満足するという歪んだ心理を指摘している。
松本も見ていると、当たっている気がする。
イトー君の奇妙な情熱も現在の教育制度から落ちこぼれたという意識が為せるわざかな。
なしも元秀才なんだろうな。
自分の価値が成就されなかったということでは共通している。
松本にいたっては、自己申告を信じれば東大数学教授という父親に対する劣等感なんだろうなと思える。

会社員時代、東大理系卒業後証券会社で二年間勤め、五時で退社して本だけ読んで公認会計士試験に受かり大手公認会計事務所に入った男が会計監査に来ていた。
後年あるサイトで、著名な物理学者が大学院生にその学者が数ヶ月かかって読み終えた物理学の本を貸すと一月くらいで返してくるので驚いて、理解しているか試験するとちゃんと理解しているのでどんな学者になるのか楽しみにしていると何もしなかったと書いているとあった。
何人かそういう人が居たが、そういう人に限って何もしないということだった。

なにをもって落ちこぼれとするのは難しい。
他にもいろいろ面白い実例が記してあった。

万葉集をまんばしゅうと読むような中卒オヤジはバブルに上手く対応して悠々自適の現在。
小卒の老婆は、バブルの時に、良い時もあれば悪い時もあるからね、と賢明にやりすごした。
バカ決定戦という悪趣味なお笑い番組に、ほとんどその分野で成功している奴らばかりじゃないかという指摘があった。
それでもある程度基準は作らないきゃいけない。
それが幾ら頼りなくても。
お隣の韓国の受験地獄は何を生み出しているのか。
日本の場合は似てはいるが、国民性の違いか、決定的な歪みにはなってはいないのかも。
ただ、やはりネット、ここの俺たちが典型なんだろうが、教育制度の頼りなさというか歪みが奔出している空間になりがちなのは匿名性も原因の一つかなと思える。



知よ知よ、汝をいかんせん。
 

一般に

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)22時20分46秒
  知識人には隠れ信者が多く、そのために彼等は地雷原となり
やすい。
その意味でブルバキ信仰は意味がある。基本原理に遡って
物事を考えることこそ学問であるのだ。これはデカルト以来
のフランスの伝統とも言える。
化学はその点で難があるために、隠れ信者は多いと言える。
 

(無題)

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)22時14分48秒
  君の考察を先に述べるべき。テストみたいな質問だな。  

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2019年 3月18日(月)21時48分38秒
  π結合は、弱いとは言え風呂のお湯くらいでは切れないと
思うからやっぱ極性がある為?
泡立つのは他のがミセル構造?
 

例えば

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)20時41分30秒
  知的障害のあった通称「仙台四郎」は当時の仙台市民に
慕われていたのである。
知らなければ、誰も「教祖」とは思わないものである。
しかし仙台では「四郎自身が選んで訪れる店は繁盛する」
との迷信が人々の間に広まり、その御利益を期待する人々
は彼を熱心に慕うことになった。
何事も利益のあるところ、信者が存在することになるもの
である。
 

隠れ信者

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)20時29分58秒
  隠れキリシタンならぬ隠れ信者は多いので十分に気をつけられたい。
誰が「教祖」かはよく分からないものであるから、気楽に「教祖」
批判をしたりするものであるが、意外に思える人物が教祖と慕われて
いたりするものだ。
しかし、任意な幼児にしてみれば、任意な親というのは「教祖」とな
るものであるから、任意な人物が教祖となり得る。(精神的に子供の
ままという人は少なくないだろう。)したがって、地雷はそこかしこ
に埋まっていると考えるべきである。
因みに精神的地雷は長く継続するのが特徴である。
 

(無題)

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)20時18分20秒
  別にそんなことはどうでも良いのでは。
消えるなんなら、何も心配することはないぞ。
 

所で

 投稿者:なし  投稿日:2019年 3月18日(月)12時22分49秒
  風俗のローションだが
ポリアクリル酸ナトリウムなんは分かるけど
風呂に入ると跡形もなくなるんは何故?
極性分子だからか 高分子のπ結合は取れたりしないん?
また、ローションをこすると泡立つ
ポリアクリル酸ナトリウムは、ミセル構造は作らなそうだから他のもんがまじってると見るべき?
 

さらに

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)02時49分44秒
  易経に親しみ、その後に人生の岐路で迷った
場合には易に尋ねることが可能となる。
しかし、よく知らないのに尋ねても正しい
答えは返ってこないだろう。
易に問うことは神に問うことであるだろう
から。神は意味のない問いに答えることは
ないだろうということである。
 

儒教

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)02時44分14秒
  人間の善悪の規定を法的遵守性によって規定しないで
その志向性によって規定するといった場合、何が行動
規範となり得るかといえば、儒教はその良い例となる。
儒教はしばしば上下関係などにうるさい、煩わしいも
のと思われがちであるが、易経を読めば素晴らしい
行動規範であることが分かるだろう。
若い時分にそれに親しめば、将来における禍をかなり
少なくできる筈である。そのようなわけで成功者を望
むならば、易経に親しむことを勧める。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)02時17分45秒
  しかし、そうしたことが容認され得るのは、その
仮定の証明が一般には困難であるか、または面倒で
あることが多く、そのために広く容認されることに
なるからである。
 

悪人とは

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)02時16分25秒
  これは一般には悪的行為を為す人間と定められるが、
これは法的規定観念である。
例えば、麻薬を吸うことは法的には悪的行為と定め
られることから、それを行う者は悪人と定められる。
その結果、その人間が著名人であれば社会にも糾弾
されることになる。これはその人間が悪人と定めら
れるからである。

しかしながら、悪人を行為の善悪によって定めると
いうのは相対的な規定にすぎず、これは一般的とは
いえないものである。
つまり善悪の規定自体が相対的であったり、それを
規定するものによる自己定義によったりするからで
ある。後者は論理的にはトートロジーの良い例であ
る。
 AはAだということである。これは恒真であるが、
だからといってAの正しさが保証されたわけではない。
正しいのは、AはAだということにすぎない。
例えば、「常に正しい私が言うのだから、間違いは
ない」というのは、「私は常に正しい」というのは
何も証明されてはいないのであるから、この言明は
正しくはないのである。
しかし、そうしたことが容認され得るのは、その
仮定の証明が一般には困難であるか、または面倒で
あることが多く、そのために広く容認されることに
なる。
例えば、教師の私が言うのであるから、間違いはな
いという暗黙の要請は生徒は常に感じている筈であ
る。もちろん、間違いはないというのは単に蓋然性
にすぎないが。それでもそれが容認され得るのは、
生徒の考えよりは教師の考えの方が正しいことが
圧倒的に多いということによるものだろう。

 さて、以上のような善悪の規定によっては悪人は
定められないのであり、そこで何によって規定する
かということになるが、これは以下のようになるだ
ろう。
 人間というのは何事も志向性というものがあり、
善人であれば他人に善的行為を行うことを好み、一方
悪人は悪的行為を行うことを好むものである。つま
り、これらの志向性の違いにより、善人と悪人を規定
するのが一般的であるだろう。
 もし悪人があることを積極的に行おうとするならば、
それは悪的行為である可能性が高いという判断を下す
ことができる。
 ただし、問題は対象の人物が善人か悪人かが判明し
ないことであるが、この判定は行為の志向性を統計的
に判断することによって可能なものの、よく知らない
人の場合にはその判定が下せない。
この場合には別の判定条件によらなければならない。
これは一般には善人そうか、それとも悪人そうかとい
う認識的判断によることが多い。
しかし、それさえも多くの誤判定が付き纏う。善人そ
うに見えても実は悪人だということはよくあるからだ。
そこでこの自己矛盾が解消されるべき条件は何かとい
うことになるが、これはただ一つということになるだ
ろう。
 

悪事の正当化

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月18日(月)01時10分22秒
  これは一般に類の拡大によって為されることが多いだろう。
これは以下のようなことである。

一般に生物や植物は自己保存本能があり、自己を害するもの
に対しては相応の反撃を加えることになり、したがってこの
反応は正当なものと看做される。これは人間においては正等
防衛行為となる。
つまり、目には目をという行為のことである。これは当事者
間での害する者に対する反撃行為ということになる。しかし
これは一般には当事者間にのみ限定されることはなく、類に
拡大されるのが普通である。
例えば、子供のケンカに親や兄弟が加担するというのはよく
あることだ。これは類における攻撃の正当化ということにな
る。
しかし、類というのは任意に拡大可能で、ある人間がその類
に含まれるということになれば、それによって攻撃或いは悪
事が「正当化」されることになるのである。(信者同士の
ケンカはよく認められるもので、教祖批判はこの信者に対す
る批判ということにもなるからである。そのようなわけで、
くれぐれも「教祖」批判は慎重を期したい。私もヘーゲル批
判という地雷を踏んだ口である。ま、他にも地雷はよく踏ん
でいると考えられる。それ故、都会などは煉獄のように思え
るというわけである。)
もちろん、それは法的などに容認される場合ということにな
るが。
 

煉獄世界

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月17日(日)00時00分34秒
  初めて上京した時に見た光景が、まさにスウェーデンボルグが言っていた
煉獄世界なのだろうということを先に述べたが、それは単に大気汚染の
酷い当時の環境に対しての感想にすぎなかった。
まさに地上は薄暗く煉獄のように思えた。
しかし、遠くから臨むとそのように見えた世界も、東京にいざ住んでみ
ると意外にも明るい世界であったので、それは錯覚であったと思い直し
た。
逆に言えば、真の煉獄世界もそのようなものと考えられる。天界からす
れば薄暗い世界に棲んでいるように見えても、そこに暮らす人々は意外
にも「明るい」普通の世界と思い込んでいるのではなかろうか。

この地上世界こそはそうした煉獄世界の引き写しなのだろう。もちろん、
天界世界や地獄世界の引き写しのような場合もある。つまり、それらの
世界を重ね合わせたものが現世世界ということになるだろう。

現世世界が煉獄世界と通じているだろうということは、何も環境の類似性
だけとは限らない。人々の性質も煉獄世界と通じているということである。
つまり、人というのは善的性質の者もあれば、悪的性質の者もいて、後者
は悪事を為すことに痛快さを感じて生きているのだろうということである。
ただし、後者は通常は隠蔽されていてそれに気がつきにくくなっているの
である。しかし、悪事が正当化されるなれば、それが如実に露見されてく
ることになる。この時、現世世界はまさに煉獄だということに気がつくこ
とになる。
科学の発達が社会の進歩になるよりは、煉獄性を強化するものになりがち
であるのは、現世世界の煉獄性からなのだろう。
 

因みに

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月14日(木)02時17分28秒
  超弦理論の高次元空間は微小空間要素における高次元のこと
で、下記の高次元性とは全く異なる。
おそらくその高次元空間における歪みが物質の存在を規定す
ることになるのだろう。
 

また

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月14日(木)02時14分17秒
  空間を3次元ではなく、4次元空間と看做せば、3次元空間(超平面)
の曲率も生じる、ということになる。
一般相対論では重力により空間が歪むことから、空間は3次元では
なく4次元ということになるのだろう。
とすれば、時空は5次元空間ということになる。
 

因みに

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月14日(木)02時08分26秒
  3次元物体は4次元空間において存在し得ることになる。
この4次元というのは、時間と空間の「4次元空間」のこと。
物体の移動は時間次元の変化と共にある。
 

色とは何か

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月12日(火)23時36分3秒
  これは立体を生み出す要因に他ならないと考えられる。
これは以下のことによる。
線が存在し得る空間は2次元以上であるが、一般に思考
の節約からこれは2次元(主に平面で、線が曲線となる
場合に曲面が選択され得る)となるだろう。
一方、面が存在し得る空間は3次元以上となるが、これ
も同様に3次元となるものであるし、4次元空間の認識
などはできないことが大きな理由である。
さて、面は何によって識別され得るかといえば、濃淡
の違いや柄の違いなどがあるが、最多なのは色の違い
である。
色の違いによって面が認識され、したがってそれが
存在し得る空間は3次元ということになり、したがっ
て色は立体認識を生成することになる。
それより、色は現実性を生じさせるものということ
になる。
これより、ネコというのは「非現実的世界」に生き
ているのだろう。ネコが夜行性であるのは、その方
が明暗がよりはっきりするからだろう。
昼はネコは温和であるが、犬は騒々しいというのは
視覚認識の相違が関係していると考えられる。また、
犬の方が人間に馴れ馴れしい、または敵対的である
のは、ネコよりも犬の方がより現実的認識となるか
らと考えられる。
 

教祖批判

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月10日(日)21時35分23秒
  というのは、信者による盲目的批判などを受けるのが常のようで
訳も分からず敵を作りやすいという面がある。
つまり、その批判のターゲットは教祖のみとはならないことであ
る。
一般に信者は盲目的にその教祖を信じているのであり、したがっ
て批判に対して理性的に判断することができない。彼等はただ
教祖批判を行った者を糾弾するのみであるのだ。
ここに信者同士などの対立が生じることになる。
社会のネットワークが広範になれば、そうした対立が必然的に
増えることになる。
これは聖書が予言した通りの状況と言える。その予言はそうし
た社会では必然的ということになる。
問題は、誰が「教祖」に該当するかが未知であることだ。
一般的な宗教の教祖は誰でも把握できるが、そうでない場合は
よく分からないのが普通である。唯の人間でさえ「教祖」と認
められることがあるのだ。
例えばお金を常に恵んでくれる人の場合には、その人の言う
ことをよく聞くものであるし、この意味では教祖となり得る。
それは理性的判断を行う人の態度ではないが、世の中にはそ
うではない人が少なくないようである。彼等は理性ではなく、
情緒や感情、気分等によって判断することが多いのだろう。
 

認識の対数性

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月 4日(月)22時37分31秒
  聴覚の認識は対数的であることが知られている。
そのように認識は対数的であることが多いと考えられる。
そのようなわけで、人との比較も対数的認知になると
考えられる。
その認識上の対数曲線の基準点(1)には自己の評価点が
定めらるだろう。
つまり、その点においては曲線の変化率が大きい。
しかも、基準点よりも下は大きく変化することになる。
しかし、その基準点よりも上は徐々になだらかになって
いく。
つまり、自分より下に対しては評価が著しく下り、一方
上に対しては評価はそれほど高くなることはないという
ことである。
それで上の者に対してはナメた態度に出るということが
よく生じるのだろう。ところが、実際には大きな違いが
あるのだ。
それはアキレスの亀のようである。上を目指すがどこま
で行っても追い付けないということが生じるのである。
自分から見ると、それほど高い位置にいるようには見え
なくても本当は物凄く高い位置にいるということがよく
あるのだ。
そのような代表的人物としてはノイマンが挙げられる。
ブルバキ(集団)もそうであるし、スウェーデンボルグ
もそのような人物と言える。
 

それは

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月 2日(土)23時39分27秒
  君のお勉強課題なのだから、当方がレスする必要はないの
である。(何にでもレスせい、という態度は改めるべき。)
物事を誰かに教えて貰うという態度は初心者のみが許容さ
れるのであり、そうでない者がその態度を取るのは恥ずべ
きことであるだろう。
私も仕事上のことを聞く場合には、用心したものである。
 

(無題)

 投稿者:なし  投稿日:2019年 3月 2日(土)22時53分30秒
  こっちにはレスなしかw
 

補足

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月 1日(金)02時05分28秒
  したがって、ある「教祖」が誰かを意のままに従わせる
には、その知識に対する渇望があり、かつその誤謬確率
の高い者を選ぶ方が良いということになる。
これより、社会は一般に知的退化傾向を示すようになる
だろう。ただし、これは個々の平均的知的退化傾向とは
異なるものである。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2019年 3月 1日(金)01時36分41秒
  以下で
「任意の哲学徒は任意な哲学的巨人の信者になり得る」
は当たり前の表現であっので、もう少し制限をつけて
「任意の哲学徒は任意な哲学的巨人の信者になる可能性が高い」
とするか、
「任意の哲学徒はある哲学的巨人の信者になる可能性が非常に高い」
とするべきであった。
そうした信者性が解消されてくるのは、教祖の誤謬確率との差が
かなり縮まるようになってからだろう。この場合には信仰効率が
かなり低くなってしまうからである。
 

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