teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ] [ 検索 ]

スレッド一覧

  1. 全力全開(1)
スレッド一覧(全1)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月19日(月)02時39分42秒
  生徒というのは集団を成し、そして集団行動をするものである。

それは何故かと言えば、教室では同じように並び、登下校の
時間もほぼ同じになるからである。したがって、情報的エントロピー
は低下するということになり、教師などから好ましいと思えるこ
とになる。
一方、教師の場合なぜ制服を着ないかといえば、彼等は学校に
おいては絶対少数となるからである。つまり、対称性の増加に
はあまり寄与しないということになり、それは無意味と判断さ
れることになる。
 
 

制服について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月19日(月)02時34分44秒
  生徒というのは集団を成し、そして集団行動をするのである。
したがって、各生徒が同じ服装した方が全体として対称性が
高まる。これより、美的感覚からも生徒に対しては制服を
強要するのはメリットがあるということになる。
それは単に学校のアイデンティティを主張することが目的
ではないだろう。それは二次的なものと考えられる。
そのことを端的に示すのが某国のマスゲームであるし、軍隊
の行進である。各自が同一の行動をすることによって対称性
が高まることになる。
 

水着について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月19日(月)02時17分41秒
  これまた前からの疑問としてあったのだが、なぜ水着の方が
綺麗に見えるのかということであるが、これまた対称性の
増加によって説明できる。つまり、水着の線によって対称
情報が増えるからである。もともと体は対称的であるから、
体にぴったりの水着は必然的に対称図形が増えるというこ
とになる。
そのようなわけで、美人でも水着を脱いだ方ががっかりす
るという本末転倒も起こるかもしれない。
服についても同様のことが言える。
 

待ち伏せ戦術の補足

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月17日(土)23時01分57秒
  これは一般に待ち伏せる対象を知っている場合に
用いるものであるが、女性の恋愛対象の場合には
その相手が特定されていないことが多いだろう。
異性からのアタックを待つという場合、相手を
特定することが困難だからである。
したがって、女性の待ち伏せ戦術には危険性があ
る。相手を特定できないことから、対象が無制限
に拡大されるからである。その中には当然悪人も
含まれることになる。そして、相手は対象に対し
て待ち伏せ戦術を行うことが可能となる。
そこで、そうした待ち伏せ戦術は会合確率を計算
する必要性があるだろう。確率が低い場合には、
相手が待ち伏せ戦術をしていることは少ないだろ
うからである。
例えば、路上に立って女性に声を掛けてくる場合
には会合確率は高いわけであるから、それは待ち
伏せ戦術であると予想できる。ただしその相手は
特定されているわけでないことから、危険性は
不明ではある。

女性の「待ち伏せ戦術」には大きなメリットもあ
る反面、危険性もまた高いことになり、この戦術は
あまり正しいとは言えないだろう。
そこで、次なる方法は特定の集団に参加する戦術
である。これが一般的戦術と言えるかもしれない。
例えば、好意を持つ異性がいるサークルに入ると
かである。この場合には待ち伏せる必要もなく、
相手に取り入ることが可能となる。ただし対象が
限定されることから、恋愛が成立する確率はあま
り高くないだろう。
それに対して集団を拡大して恋愛対象を拡大した
方が恋愛成立確率が高くなる。これはクラスや
会社が良い例である。これでも対象範囲が限定さ
れることになるが、対象を無制限に拡大すること
による危険性よりは安全性が高いと言える。

そのように女性は男性と違って機会が均等に得ら
れないられないというデメリットがあるが、異性
としての魅力は男性よりはかなり高いということ
がそれを相殺するだろう。(男性の場合、かなり
のイケメン(俗すぎて厭な言葉であるが)でない
限り、異性としての魅力は低いだろう。)
 

因みに

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月17日(土)15時42分5秒
  対称性の情報量は離れている方が高いと考えられる。
例えば、顔の場合の目に対する対称性の情報量が最も
高いだろう。美人は何よりも目で決まると思われる。
他には胸も該当するだろう。似たようなパーツとして
は尻があるが、尻よりも胸の方の情報量が高いと思わ
れる。
同様にして、手や足についても言える。ダンスとは、
これらを用いて対称性を形成することに意義がある
のだと考えられる。
 

美についての補足

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月17日(土)01時41分29秒
  昔から疑問に思っていたことに、女性は何故、髪を伸ばすのか
という問題があった。これは以下の命題から容易に導かれる。
(1)女性は異性を獲得する必要がある。
 男も同様であるが。
(2)そのためには美的であることが要求される。
 女性からアタックするというのは危険を伴うため、一般には
待ち伏せ戦術を取ることになる。そのためには魅力的に思われる
必要がある。
(3)美は対称性の認識から生じるものであり、両側に髪を長くすれ
ば顔の対称性(大体であるが)が増し、美的に感じられることにな
る。
また、一般に美的なものは優しいという印象を与えることもあるだ
ろう。これは抑制性と関係したものだろう。美というのは微妙な
コントロールが要求され、したがって美的であれば抑制性が十分
にあるだろうと予測されることになる。
頭が良い場合も抑制性が強いものであるが、しかし興奮性もまた
強いという傾向もあり、したがってその場合には相反的でもある。
それで美人だけど頭が良いという女性はしばしば敬遠されること
になるだろう。

髪が顔の対象性に寄与することから、ブロンドが好まれるのも
説明できる。これは線が増えることからそれだけ対称性や情報
量が高まるからと言える。もちろん色も関係するが。黒はどち
らかといえば無という情報に近いだろう。これ自身は映えない
ものであり、他を修飾してこそ意味がある。

同様にしてロックスターの場合も説明される。ロックスター
も見た目が重視されるものであるから、髪を長くすることにな
る。(しかしながらこれは単に顔の修飾であるから、若い時分
でこそ意味がある。)昔は王侯貴族も髪を長くしていたが、
これまた見た目が重要となるからだろう。ロックスターも王侯
貴族も肉体労働とは無縁であるから、それが許容されることに
なるのである。(最近のロックスターはそうでもないと言える
が。)ジャズの場合では、彼等は見た目よりも演奏そのものが
重視され、見た目には構っていられないのだろう。
 

補足

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月14日(水)05時44分13秒
  下記のコンピュータ自ら操作する、ということであるが、
もちろんそれはコンピュータがそうした意思を持って行う
ということではない。それを行わせるのは人間自身である。
それをコンピュータが実行するということである。
 

理系の無知の暴露

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月12日(月)21時38分10秒
  理系的知識の場合、無知の暴露は慎重にする必要がある。
というのは現在、自然科学における数学、物理、化学など
は壮大なる体系を成しているのであるから、その中の一つ
でも知らないとそれから派生する全体も知らないという
ことになるからである。特に基本的知識の無知の暴露は
慎重にする必要がある(「知識人」の場合)。
例えば、代数でいえば体や環を知らないなどと言えば、
代数そのものを知らないということになるのである。

そうしたことは他の学問では稀であるだろうから、
何かを知らないとしても、その無知の限界は限定され
るだろうから、意外にも無頓着となりやすいのだろう。

なお、そのようなことは仕事でもよく経験することだと思う。
仕事上の基本的なことを知らないと、その人間の知識が疑われる
ことになる。つまり、プロではなくて素人と判断されることにな
るだろう。
 

因みに

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月12日(月)20時49分30秒
  情報量については、借り物の知識のヒケラカシじゃないかという
某氏の批判があったが、これはれっきとした一つの学であり、
そうした批判はそれについて知らないことを暴露するようなもの
であり、「理系」は普通はしないものだろう。
なお、そうした情報理論の本としては渡辺慧著になる「知識と推測」
は大いに参考になると思われる。
ただ私の場合、意識にそれを応用するには少し変更が必要になると
思ったわけである。
一般に任意の事象や認識に対する情報量は個々に異なるものだから
である。この点を考慮することによって意識的操作も可能という
ことになるだろう。そうした理論も分からずに行うのとそうでない
場合とでは明確な差異が生じるだろうし、それを機械化する場合
でも同じことである。そうした未来においてはコンピュータがまさ
に人間を操作し得るということになるだろう。現在はコンピュータ
が人間の行動を認識し、理解しているという段階と言える。その先
にはコンピュータが自ら人間を操作し得るということになるだろう。
そうしたことも数式化によって可能となることである。
 

一般に

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月12日(月)20時16分27秒
  劣等感は優越感によって補償されることになるものである
から、常に何らかの優越感を求めようとすることになるだ
ろう。例えば、地位であったり、権力であったり、お金で
あったり、物であったり、多数性であったりする。
そのようにして分断性はさらに複雑化することになる。
これは聖書が世紀末を予言した通りの事態ということにな
るだろう。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月12日(月)20時11分21秒
  …これが理解できるかどうかが、知識人(亜知識人も含む)と
非知識人とを明確に分けることとなるだろう。

現在は大卒が普通のこととなり、人種的分断が生じてきたと
言えるのではあるまいか。つまり、大卒人種(中退を含む)
とそれ以外とにである。そして、後者は奇妙な劣等感を抱き
他者を迫害するということになるのかもしれない。そのよう
に現在は人種的分断が大きく生じているのかもしれない。
このことは日本に限らず、先進各国で同じ状況と思われる。
 

学歴の違い

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月12日(月)20時05分3秒
  これは数学的知識によって決定的に分けられるものと考え
られる。もちろん、これ以外にも語学力の違いによって分
けられるが、数学ほどには顕著は違いは生じないだろう。

小卒では、九九及び四則演算や分数計算ができることが
条件であろう。
中卒では簡単な方程式が解けるということが小卒との
大きな違いではなかろうか。
高卒では、ニュートン力学などの比較的簡単な物理学
を理解できるというのが大きな違いだろう。これは
高等数学を理解するには必須の知識となる。これが
理解できるかどうかが、知識人(亜知識人も含む)と
非知識人とを明確に分けることなるだろう。
大卒では高等数学に対する理解があるかどうかが
高卒との大きな違いということになるだろう。
それほど高校数学との違いは大きい。
化学にしても量子力学の理解なしには本当の理解
には達し得ない。
その意味で、数学を軽視している某氏の意見は偏見
に満ちたものと言える。それは単に自己正当化にす
ぎないのだろう。
 

お金

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月10日(土)20時56分50秒
  というのもそうした幻想の一種である。お金自体は
物体であり、現実であるが、お金の価値というのは
幻想である。人間がその幻想を作り出し、それを
消費しているにすぎない。
お金は消費して、その「幻想」が消えていき、そして
またその幻想を求めるということになる。これが貨幣
経済の本質であるだろう。人間はその幻想を「永遠」
に追いかけるということになる。
 

その幸福は

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月10日(土)20時51分45秒
  幻想を得て、再度次の幻想を得るという繰り返し
の中にしかない。彼等は永遠にその中に留まる
ということになる。
 

欲望に向かって突き進む者

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月10日(土)20時48分50秒
  は、目に前にニンジンをぶら下げられた馬がそれに
向かって突き進むのと同じものと言える。彼らは
そのような馬を決してバカにできない。彼等も同類
であるからだ。彼等は欲望を達成しても決して満足
することはないからである。それを達成した瞬間に
それは幻想と化し、次なる幻想を追いかけることに
なる。彼等が決して満足することがないことは日常
的によく見られることである。
 

訂正

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月10日(土)20時35分34秒
  その経験獲得確率が低いほど情報量が「高く」なり、であった。
(対数関数という初等関数については既知であるとして説明
しない。)
 

何故山に登るのか

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月10日(土)20時31分55秒
  という疑問に対する真の答えは、当然のことながらそこに
山があるからではない。それは単にその動機を与えるもの
にすぎない。
このことは基本的に情報量によって解決されるものだろう。
その経験獲得確率が低いほど情報量が低くなり(これは
主観的なものであるが)、したがってその価値が高くなる
ということである。それは有望な選手ほどその獲得金額が
高くなるのと同じことだろう。つまり、獲得確率が低くな
るほどその価値が高くなり、金額が高騰することになるの
だろう。即ち、獲得意志が強いほど獲得金額の上昇に耐え
得るということになる。それに類することは他にも多い。
しかし、望むものを得た場合、その獲得確率は1となり、
逆に価値は急降下することになる。そのように、何かを
得たいという願望というのは実は幻想なのである。
そしてこのことを人生で何度も経験することによって全
てはそうした幻想であることに気づくことになる。
結局のところ人生というのは幻想であるにすぎないと
言えよう。少なくとも何かを得たいとか達成したいとい
う願望は幻想にすぎないということである。もちろん
これは欲望としてである。それから派生する結果は幻想
ではない。欲望ではなくて、結果こそが全てである。し
かし、結果に着目する人は少ないだろう。そこまで予見
できないものだからである。
例えば、結果として大金を得たとしよう。それでどのよう
な結果が得られるかいうことは漠然としているものであり、
その動機は正しくはない。明確にあることが達成されるの
でない限り、それは虚しいものである。虚しいものである
が故に、大金を湯水のように浪費することになるのである。
 

専門書の読み方

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月10日(土)02時22分53秒
  理系の場合、専門書は理工書であるから、当然の如く数式が
あるのが普通だ。しかし、一般に全ての数式は理解できない
だろう。専門外であったり、初心者であれば当然だろう。
したがって、普通は訳の分からない数式があるのが普通で、
それに対処せざるを得ない。大概はそれは飛ばして読むこと
になる。だから、理系の場合、数式があっても何も苦にはな
らないだろう。もちろん、それは教科とは関係ない場合に
限られるだろうが。
そのような背景があることから、思想のないものは排除され
ることになると考えられる。もちろん、普通は理解できる
数式(高校数学程度)のみが書かれたものは除外されるが。
 

数式に対する盲従

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 5日(月)03時10分43秒
  というのは、理系にだって多いだろうと思われる。
一般に盲従が生じるのは、それに対する理解がないこと
からだろう。よく理解できない場合には鵜呑みにして
覚えるということがよく為されるからである。そうすれ
ば無知を避けられる。ただし応用が利かないため、それ
を利用することができない。(問題は解けるだろうが。)

そのような例としては、ベクトル解析での回転(rotもし
くはcurl)の微分演算であった。これは意味も分からず、
当初はそのまま覚えた。後に、この意味を解説している
本を読んで、なるほどそういうことであったかと理解し
た記憶がある。他にはストークスの定理などもそうでは
ないかと思う。理系だって、意外に鵜呑みにしているこ
とは少なくないだろう。そうして権威などに盲従するこ
とになる。その盲従によって常識的見解と異なるものに
対しては理性的批判ではなく、反発のみが生じることに
なる。盲従しているだけであるので、理性的批判ができ
ないからである。これは哀れなことではあるまいか。
 

通俗書

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 5日(月)02時43分26秒
  科学に関する通俗書も商業出版であるから、売れることが
前提となる。
一般に、数式に対するアレルギーがあるため(文系、理系
問わず。理系だって複雑な微分方程式を見たらうんざりす
ることが多いだろうと思う。例えばノイマンの量子力学
の数学的基礎が挙げられる)、数式が一行入る毎に売り上げ
が低下するというのを読んだことがある。
だから、専門書のように数式が特に必要でない限りは、でき
るだけ数式を用いないようにするのが普通のようである。
彼のは通俗書のそうした慣例にしたがったものと考えられる。
 

数式の必要性

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 5日(月)01時41分42秒
  科学では数式を用いるのが一般的である。これは客観的正しさ
を主張するのに優れているというだけでなく、数式で表現する
ことによってアルゴリズム的発展が促されるからだろう。
つまり、複雑な思考も数式で表現すれば、その数理展開によっ
て自動的にそれが達成されるからである。この利点があるが
故に数式が尊ばれるのだろう。このことを知らない者だけが、
数式を無益なものと考えるのだろう。
日常生活では単純な四則演算だけで良いだろうが、複雑な
思考をする場合には数式を用いるのが簡単だということを
知らないのである。
これは複雑な計算をするのに電卓を用いるのが簡単だとい
うのと同じことである。電卓は論理にしたがって計算する
ものであるからだ。そこには「思考」は必要ないのである。

もちろん、大方は科学的知識や概念を得れば良いだけという
ことが多いものであるから、その場合は数式はあまり必要で
ない。しかしそれが当然でないのは言うまでもないことであ
る。精密な思考をしようとする場合には数式化されるべきで
ある。これによって論理的思考アルゴリズムが達成されるか
らである。そうでない場合、普通は哲学的思考が求められる
ことになる。ニュートンやアインシュタイン、ボーアなどの
ようにである。
 

感覚的量

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 5日(月)00時54分29秒
  情報量的認識は感覚的なものであり、五感というのは
聴覚のようにlog関数的に変化するもののようである。
この意味でも、情報量をlog関数によって表すのは妥当
だろう。
基本的に数学を殆ど知らない者は、数理的感覚や論理的
思考能力に欠けているのではあるまいか。
高校数学は高度なものではなくて、最低限の必須なもの
である。しかし彼等はこのことを知らないのだ。
確かにブルーバックスは微積分などの数式があまりなく
素人でも理解できるように書かれているが、それは大衆
を前提としているからだということを彼は理解していな
いのだろう。したがって、それが当然だと考えている
ふしがある。
彼等は自分で科学的知識を理解できないが故に、他人や
権威に頼るということになるのである。常に彼は誰かが
そう言っているということを持ち出すのである。
しかし、一般に理系はそうではないだろう。少なくとも
松本氏はそうであった。
知識を借りるが、他人や権威を持ち出すというようなこ
とはしないものだ。正しいかどうかは自分でしなければ
ならない。
 

サル山の住民

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 5日(月)00時43分25秒
  この人種の特徴は全て俺の方が上だという価値観によって
作り出されているのだ。
だから、強い奴、頭の良い奴には奴隷のように隷従するこ
とになる。彼等は権威に盲従するが、彼等は権威の言説に
対して疑うことをしないのである。それはできないからな
のである。例えば、ヘーゲルが良い例だ。彼等はこのよう
な人間を神のように思っているが、ニュートンと同様に
決して間違いを犯さないわけではない。
彼等を崇めるのは勝手だが、疑うことを知らないのは恥ず
べきことである。
 

これはおかしい

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 5日(月)00時36分29秒
  >薬で左右され、脳が吹き飛ばされたら意識は吹き飛ぶし
>というのを読んだことがある

こんなことを本を読まなければ分からないとは、理解能力が
ないということだろう。
そんなことは唯物論者には当たり前のことだ。
借り物知識というが、知識というのは既にある知識を前提に
して発展していくものだ。それを否定するというのは非知識
人であることを認めるもの。
彼は情報量について何も知らないのだろうし、根本として
log関数のことさえ知らないのだろう。
 

松本

 投稿者:通行人S  投稿日:2018年11月 4日(日)14時45分11秒
  本を読むたびに、著者に憑依している言説を振りまいているので笑われていた
俺もどっきりしたけれどさ

 

ネット知識人

 投稿者:通行人S  投稿日:2018年11月 4日(日)07時04分20秒
  たいてい自分ではなく、借り物知識だな
自分の中できちんと咀嚼すれば良いけどいつも反射的に振り回すだけ
松本、イトーとか典型で見ていて過去の自分見ているようで恥ずかしい
 

 投稿者:通行人S  投稿日:2018年11月 4日(日)06時57分51秒
  物理として死は存在しない
何も生まれない、無くならない

薬で左右され、脳が吹き飛ばされたら意識は吹き飛ぶし

というのを読んだことがある

まあそいうことだろうな
 

認識的情報量

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 3日(土)22時15分14秒
  通常の情報量は生起確率など客観的値によって定まるもの
であるが、認識的情報量の場合には客観的ではなく主観的
なものとなる。
つまり、獲得確率はその認識によって定まるものである。
例えば、サイコロを投げて1の目が出たとしよう。この情報
の獲得確率はその生起確率により1/6であると認識され得る
が、これはその事象の経験によって定まる獲得確率という
ことである。つまり、それは各人の経験的に想定される
獲得確率であるにすぎない。
したがって、一般的には最初の事象の場合には獲得確率は
定まらない。したがって、これは獲得確率は1ということ
になり、この情報量は0となるのである。
しかし、その事象に対する経験度が高まれば、一般的には
生起確率に近づくことになり、これは所謂情報量と一致す
ることになる。
例えば、見知らぬ美人の認識的情報量が高くなるのは、
その獲得確率が経験的に小さいことを知っているからで
ある。特に外人(その中でも日本人とは異質なブロンド
美人)はそのように感じる筈である。
また、その振舞いに対する情報量も経験度が高まること
により精度が上がり、正しい獲得確率に近づいていくこ
とだろう。これが親和度による情報量の増大に繋がるこ
とになるのだと考えられる。
 

訂正・追加

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 2日(金)21時28分49秒
  しかし不思議なことにどんな場所も長く住んでいると陳腐な場所となり、どうし
て手間暇、お金をかけてここまで来るのだろうと思ってしまうものである。

同様なことは、愛妻などについても言えることだろう。どんな美人も努力なし
には相手の関心を留めることは難しい筈である。
 

旅行について

 投稿者:通りすがり  投稿日:2018年11月 2日(金)21時25分48秒
  最近では、日本に訪れる外国人が多くなった。ここ東京ももちろん例外ではない。
しかし不思議なことにどんな場所も長く住んでいると陳腐な場所となり、どうし
て手間暇、お金をかけてここに来るのだろうと思ってしまいものである。
私も田舎から出てきて、東京に来た頃は見るもの全てが興味深く、面白い場所だ
と思ったものである。その意味では、旅行客も同じ心理なのだろう。
ここで問題なのは、どんな場所も陳腐な所となるのであるから、どんな場所だっ
てその本質な陳腐な場所である筈であるのに、どこか他のところに旅行したくな
るのかという疑問である。
これは簡単に説明できるだろう。ここで知識に対する情報量を定義することにし
よう。これは新に得た知見に対する獲得確率pによって定義できるだろう。
これは情報理論で云うところの生起確率pに対する情報量の定義と同様である。
一般にこの確率が小さいほど情報量が大きいことになる。即ち、情報量Iは
    I = -klog(p)
ということになる。情報が複数存在する場合、その確率はp1*p2*…となって
この情報量は個々の情報量の和となる。

さて既に知っている情報は獲得確率が高いわけであるから、情報量は小さい
ことになる。全く既知であれば、この情報量は0である。つまり、これが陳腐
であると感じる理由ということになるだろう。
しかし、既に獲得した情報でも日々忘却していくわけであり、この意味では
獲得情報の確率も個々に異なる。一般に記憶力が高い人は獲得確率は高いま
ま保持されるようになり、したがって外界の陳腐化の程度は異なることにな
るだろう。ここに右翼と左翼の違いを見出すことができるかもしれない。
一般に知識人が左翼的傾向を示しがちであるのは、それが理由とも言える。
もちろん、知識人でも周りの人々との関係性も関わってくるため、全てそう
であるとは云えないが。

したがって、ある場所が魅力的であるかどうかは、当人が住んでいる場所と
の相違度の関数ということになるだろう。また、情報の多さとも関連する。
南国のように、都市としてあまり発展していなくても、魅力的な場所と思う
のは、南国では自然が豊富だからということになるだろう。
 

レンタル掲示板
/103